ひろしま通 Map    ひろしま通がオススメする食・買・見学スポットをMAPにしました。!!
本文へジャンプ
            広島城下歴史散歩


  3.西国街道を旅した旅行者の広島日記

        

中世の広島とそれ以前の五箇荘村を訪れた旅人はどのように広島を見ていたのか旅行記でその部分に触れた箇所を抜粋してみたものです。

1.)今川貞世(了俊)

九州探題、今川貞世が応安三年(一三七〇)都から九州へ下向した時の紀行文「道ゆきぶり」に海田にて二十日滞在し当時の五箇荘村の辺りの風景を描写し「みそかは海田とかいう浦に着きぬ。みなみは深山かさなりたり、ふもとに入海のひがたはるばるとみえ、北のやまぎはに所々家あり。」と記している。

つづいて広島湾頭の海浜を渡渉した記述がある。すなわち、海田浦を「長月(9)十九日の有明の月に出でて、しほひの浜を行程、なにとなく面白し、さて佐西の浦に着きぬ」と述べたものである。 当時官道は北の山手を通っていたが、貞世は干潮を幸いに、干潟の浜伝いに佐西の浦(己斐以西)に達したというのである。 十四世紀も後半になるとデルタの形成が進み、干潮時には渡渉できるほどの「しほひの浜」となっていた様子がうかがわれるものである。

 その頃の 五個の庄は 既に 一二九〇年前の霊亀元年(七一五年)正観寺 (現在大洲にあり)と言う寺を 僧行基が開いているので白島はもちろんのこと基町のある寺家の庄 広瀬の庄や 平塚 吉島あたりもチラホラ陸地化していたのではなかろうか。

2.)豊臣秀吉

文禄元年(一五九二)四月十一日豊臣秀吉が九州下向の途中広島城に入った時、既にいくつかの建物があったことが知られている。 この時輝元は朝鮮出兵で壱岐に在陣していたが。留守を預かる安国寺恵ケイらが秀吉の広島入城の様子を輝元に報じた書簡がある。 秀吉は「東の橋御入口」より入って「侍町其外」を見て「地取り似たる」と褒め、「御堀きはより一御門」を入って「甲丸両所」を見て「城取の様態」が秀吉の予想以上であることに驚き、御殿へ御あかり、内外共に悉く御覧候て「御感斜めならず候」と、すなわち御殿へ上がって城の内と外を見渡して、大変気に入った様子で、恵ケイらに対して「城取町割り」がいかにも輝元に「相似候様に」行われていると賞賛したと述べている。(毛利家文書) 御殿に上がって城の内外を見渡したというのは既に本丸上段の造営が出来ていたことを表す。 外濠にかかる東の橋、内濠内の一御門、御殿など秀吉が見分しており、文禄二年には御作事つまり建物の造作も着々と進捗したとうかがわれる。

広島城はもともと秀吉の築城になる京都聚楽第を範とした典型的な平城としての城取になり、城下の構成も縦横の町筋によって碁盤の目に区画された町割を基本とした。

3.)清河八郎

江戸時代、厳島は景勝地として全国に知れ渡り、多くの旅人たちが訪れる西国有数の観光地となった。 紀行文のうち幕末の志士、清河八郎の「西遊草」の場合を見てみよう。 

「西遊草」は清河が安政二年(1855)三月から九月にかけて出羽の国庄内より母親を

伴って西国を中心に旅した際の「紀行文」である。

清河は安政二年五月十九日に厳島を訪れている。 清河の厳島来訪はこの時が三度目であったため、自身は「さあるめづらしき事もなけれども」としているが、初めて来訪した清河の母は「一入うつくしく見られ」、「しばしばの賞美ありて、宮々をめぐり」その後宿に着いて酒肴を前にしながら清河に次のように語ったと言う。
 

すべて天下の名所は、家にありて話を聞くときは、まことに面白きありさまなれども、自らそのところのいたり見るときは、いづれもききしに劣るものなるに、宮島はききしにまさる美事なり。 この母親の満足そうな様子に対して清河は、「吾もこれほど遠くいざないきたりし益ありと、こころによろこび、別して酔をなしぬ」と書き記している。

 なお清河自身、厳島について次のように評価している。

(厳島の)景色のことは格別比類なきといふべからざれども、古来より天子も御幸ありし

宮ゆへ、中々凡境の及ぶ所にあらず。古画古美の随一といふべきなり。 就中千畳敷の

広大なる、潮みちひの景色なる、鳥居の絶特なる、いづれも天下に稀なる見物ゆへ、遊覧を好むものは必ず一見をいたすべき。

 清河は当時として珍しく若年の頃より諸国を旅し、自ら「天下を周遊せし漫遊生」と称した、いわば「旅のエキスパート」であった。

4.)司馬江漢、菱屋平七 江戸時代 天明八年(一七八八)、広島を訪れた江戸の学者・画家である司馬江漢は「城下瓦屋を並へ富商多し(江漢西遊日記)」と、また、享和二年(一八〇二)長崎から帰路広島を訪れた尾張の商人菱屋平七は「お城は東北の山の手にあり、三重の天守あり、町屋通筋入口より出口まで七十二丁、皆瓦葺にて富商多し。町筋縦横にあるなり(筑紫紀行)」と、その紀行文に書き記している。 両者とも街道筋に瓦屋根を連ねる商家の様子がとりわけ印象的であったようである。

5.)河井継之助

また、幕末の安政六年(一八五九)、西国街道を長崎へ向かう途中広島を訪れた越後長岡

藩士河井継之助は「河の掘方と云、戸口の多、繁華なるは不見三都は可驚程なり(塵壷)」、

つまり城下の河の掘り方、家や人の多さ、賑やかな様子は、もし三都(京都・大阪・江戸)を見ていなかったならば驚くべき程のものであると書き記している。 領国経済の中心地としての広島の発展振りをうかがい知ることができよう。

                          

                           

ページの先頭へ

広島城下歴史散歩トップ