弐
玄徳は静かに目を閉じる。 半年ほど前に蜀へと降ってきた馬超。 彼の存在は玄徳にとっても頭の痛いことだった。 彼の境遇を考えれば、ああまで頑なになるのも仕方のないことといえるだろう。 だからと言って武将たちは愚か、関羽や張飛、孔明でさえも彼の態度には反感を持っているようで、 それを捨て置く訳にはいかない。 このままではそう遠くないうちに何らかの処分を下さねばならないのだろう。 長い放浪の末にようやく得た国。 玄徳は出来る事ならば、誰もが穏やかに暮らせる日々を願っているというのに・・・ 『どうやら趙将軍が馬将軍の元へと何度か尋ねているようです。』 孔明からそう聞かされたのはつい先日の事。 「アレも・・・相変わらずだな。」 その事を聞かされたとき玄徳は苦笑いを浮かべずにはいられなかった。 ―誰もが穏やかに暮らせる日がくれば・・・ 初めてそれを願ったのは一体何時の事か・・・ * 馬超が蜀へと降ってからすでに半年。 やむを得ない事情であったとはいえ、本心から蜀へと降った訳ではない彼にとって、正直なところ この場所へいる事は苦痛でしかなかった。 戦の真っ只中であるというのに、そんな事を感じさせないような蜀の面々の平和ボケしたような顔 が何よりも気に食わない。 この半年、馬超は決して誰とも打ち解けようとはしなかった。 あくまでも自分はお前達とは違うという姿勢を崩す事は無かった。 それが回りから見て気に食わないのは当然で(むしろそれを狙っているのだから)回りのやっかみ ともいえる陰口も、馬超にとってはむしろ心地よさすら感じるのだ。 五虎大将などという呼び名を劉備より与えられた時も 『余計なことを』 としか思えなかったのだ。 同じ五虎大将であり劉備の義兄弟である張飛などは、事あるごとに馬超に対して突っかかってくる のだ。 「俺が気に入らないなら、それで結構。俺は今の姿勢を変えるつもりは無い。」 張飛に対して堂々と言ってのけたときなどは、関羽ですらも不快そうに眉をひそめていた。 最近では彼らも諦めたのか、廊下などですれ違っても挨拶は愚か目を合わせようとすらしない。 馬超にはむしろそれがありがたかった。 『いや・・・』 一人だけ出会った当初から変わらずに接してくる人物がいる。 馬超は正直その人物が嫌いだった。 何も失った事もないような穏やかな笑みも、その押し付けがましい親切ぶったおせっかいも。 初めてその人物を見た時は正直驚いた。 かの有名な趙子龍という人物があの様な者であったとは。 決して脆弱という訳ではないが、槍を振るい戦場に立つ姿など大よそ想像できないほどに、武人とし ては何処か線の細い為りをしている。 恐らく彼は自分のように全てを失った事など無いのであろう。 そう思えるほどに、彼は普段はどこまでも穏やかで、常に微笑を絶やさぬその姿が、余計に腹立たし かった。 この半年の間、二日と空けずに馬超の屋敷を尋ねては、 「よろしければ少し話でも・・・」 などと抜かす。鬱陶しいことこの上ない。 彼が自分の屋敷を訪ねるたびに、居留守を使い従弟である馬岱に体よく追い払わせているものの、 驚いた事に彼は馬超が居留守を使っているのを知りながらも、数日もすれば彼の屋敷を訪れる。 馬岱に至っては、最近ではそんな彼にほだされたのか、 「せめてお会いするだけでも・・・」 などと言い出す始末だ。 「他のやつらなど関係ない・・・」 誰に言うでもない。自分自身に言い聞かせるように馬超は呟く。 「俺は俺のやりたいようになるだけだ。」 そう言うと、そっとその空を見上げる。 果たしてこの空はどこにつながっているのだろうか。 亡くした人がいる所か、あるいは誰よりも憎む存在がいる国へなのか。 * 「またか・・・」 明らかに不機嫌そうな主人の顔を見て、家人がすくんだように後ずさる。 家人より趙将軍が来られていますとの報告をうけ、馬超は「またか」と不機嫌さを隠す事もしない。 いつもなら馬岱がそんな趙雲の相手をしていたのだが・・・ 「岱はどうした?」 「それが生憎、今朝からお出かけで・・・」 心底申し訳ないとでも言うように深々と頭を下げる家人に 「岱も俺も留守だと言っておけ」 と吐き捨てるように言い、しかしふと思いついたように家人を呼びとめる。 怪訝そうな顔で自分を見つめる家人に、 「たまには俺が出る」 と言った途端、狐につままれたようにぽかんとした表情で馬超を見返してくる。 「何度も尋ねてくれるのだ。たまには俺が出なければ礼に欠くというものだろう。」 何処か人の悪い笑みを浮かべて言う馬超に、もちろん居留守を使っていた時点で、礼も何も無いとは 思うが、さすがに何度も居留守を使っている事を心苦しく感じていた家人は、 「それはようございます」 と笑みを浮かべた。 「お前はもういい。下がれ」 そう言う馬超に対し、家人は再び頭を下げるとそそくさとその場を立ち去った。 馬超はどこか冷たい笑みを浮かべると、そのままかの人が待つところへ向かってゆっくりと歩き出した。 * 玄関へと行くとそこには静かに空を見上げる趙雲の姿。 そういえば、彼はよく空を見上げているなと、馬超は思い出す。 「貴公は青空を見るのが好きか・・・」 予期せぬことだったのか、馬超が現れた事に、趙雲はことのほか驚いたようだった。 端正な顔に驚きの表情を浮かべ、それでもすぐさまいつものあの笑みを浮かべた。 「今日はおられたのですね」 笑みを浮かべたままに言う趙雲に馬超は思わず失笑する。 少なくとも彼は自分が居留守を使った事に気付いているはずだ。 にもかかわらず、まるでそんな事に気付いていないそぶりを見せるこの人物は・・・ 「大した狸だな・・・」 嫌味を込めて呟いた言葉に、趙雲はさして気に留めた風でもなく、相変わらずその笑みを崩さない。 馬超は小さくため息を付くと再び口を開く。 「貴公はよく・・・特にこんな晴れ渡った日によく空を見上げているように思うが・・・」 馬超の言葉に趙雲は答えない。 それを気に止めるでもなく、馬超は一方的に語り続ける。 「まあ、これ程までに澄み渡った青空は見ていて気持ちがいいからな。・・・この空だけは、どこも 同じだ。この国も・・・故郷も・・・」 「このような空は嫌いです・・・」 唐突な答えに、馬超は思わず聞き違いかと思い、趙雲を見返す。 「いっそ常に雲に覆われ続けていればどんなにいいかと・・・」 優しげな面差しには何処かそぐわない表情で趙雲は静かに語る。 馬超は意外なものを見た気がしたと思った。 しかしそんな表情すら、どこか美しいと思った。 そしてそんな事を思う自分に、驚きを感じるのだった。
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