七
馬超は驚きの余り、言葉を見つける事が出来なかった。 玄徳と、趙雲とその妹。 恐らくは玄徳の二人の義弟ですら知らないであろうその関係は、今の趙雲の姿からは想像することが 出来ない。 少なくとも今の馬超が知る趙雲という人物は、この玄徳を誰よりも主として仰ぎ尊敬しているようには 見えるが・・・かつて生涯の友と御互いに呼び合っていた関係は全く想像することが出来ない。 「美霞は・・・何故死んだんだ?」 馬超の問いに玄徳はそっと目を閉じた。 「儂は・・・美霞を誰よりも愛していた。」 「・・・・・」 思わず目を丸くする馬超に玄徳は、微かに苦笑いを浮かべた。 「もちろん、妹として・・・だが」 『いつか私を玄徳兄さんのお嫁さんにしてね!』 あれは果して何時の事だったか・・・ その時、輝かんばかりの笑顔で美霞は言った。 恐らくはまだ、本当の恋も知らぬであろう幼い少女。 後で何処か複雑な顔をする趙雲を横目で見ながら、玄徳は頷いた。 途端に心からの笑みを満面に浮かべた少女の笑顔は今でも玄徳の心に焼き付いていた。
『美霞を・・・妹を頼む』 すがる様に玄徳に頼んだ趙雲。 玄徳を心から信じて己を頼ってくれた友の最期の頼み。 しかし結局玄徳はその頼みを違える事になったのだ。 「子龍は恐らく儂を許してはくれないだろう。美霞も・・・きっと儂を憎んでいるだろうな・・・」 「!!」
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美霞は不安そうに兄を見上げた。 「兄さんは・・・行かないの?」 すがるような瞳に趙雲は思わず目を逸らす。 「あまり、子龍を困らせるものではない。」 そう言って玄徳は美霞を嗜める。 「玄徳兄さん・・・」 泣きそうな顔で俯く美霞に、彼女のこんな顔をみたのは数年前に別れの挨拶をしたとき以来だと思った。 だがあの時とは違う。 あの時はまた必ず会えるという確信があった。だが今回は・・・ 美霞もそれを敏感に感じ取っているのだろう。 「後で俺も必ず行くから。」 趙雲の言葉に、玄徳はハッとしたように彼を見つめる。 「本当?」 泣きそうな瞳で兄に問う美霞に、趙雲は安心させるように笑う。 「ああ、殿を安全な所までお連れしたら、必ず追いかける」 『嘘だ・・・』 趙雲の言葉を聞きながら、玄徳は感じた。 だが、あえてそれを口に出すことはしなかった。 そうこれは嘘なのだ。 もしかしたら世界で一番優しくて・・・残酷な嘘。 だが趙雲はその嘘を吐かざるを得ないのだ。 たった一人の妹を護る為に。 いや、もしかしたら美霞もその嘘に気付いているのだろうか。 「行こう。美霞。」 促すような玄徳の言葉に、美霞は兄の姿をもう一度見つめた。 まるで今生の別れとでも言うような少女の姿に、玄徳は思わず趙雲を引き止めたい衝動に駆られる。 しかし、たとえ玄徳が義弟を連れてきたとしても、何一つ変わらないだろうと、趙雲に援護を断ら れた以上、もう何を言ってもダメなのだろうと言う事が彼にはわかっていた。 だからこそ、彼の最後になるであろう願いだけは、叶えなければ為らないのだ。 「兄さん・・・」 そう言ってすがりつく妹を趙雲は思わず抱きしめる。 「必ず・・・後で行くから。だから待っていろ・・・」 趙雲が震えているのが玄徳にも解った。 そして美霞を離すと、そのまま玄徳の馬に彼女を乗せる。 「玄徳・・・頼む・・・」 もう一度・・・すがるように頼む趙雲にただ頷くと、玄徳もまた馬に跨る。 強く手綱を引くと、そのまま馬は勢いよく走り出す。 美霞はもう一度振り返る。 既に小さくなった兄の姿を目に焼き付けるように、何時までもその目を逸らす事をしなかった。
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「美霞がいない!?」 玄徳は真っ青な顔で兵士に問い返す。 兵士は彼らしからぬ玄徳の様子に、かしこまった様に頭を深く下げる。 「はい。それに馬が一匹ほど消えております。恐らくはお一人で戻られたのではないかと・・・」 その兵士の言葉に、玄徳は愕然とした。 何故その可能性に気付かなかったのだろうか。 あれほど愛した兄を置いて、ただ一人逃げることが出来るような美霞ではないのだ。 そんな彼女が時分が目を話した隙に兄の元へと戻る可能性は決して皆無ではなかったはずなのに・・・ 玄徳はそのまま愛馬に跨る。 「殿!」 兵士の言葉に、玄徳は彼のほうを見遣る。
「お前達はしばしここで待て。五日戻らぬようであれば、先に戻って雲長、翼徳両名にこの事を伝えよ!」 それだけ言い残すと、玄徳はわき目も振らずに馬を駆った。
『妹を・・・美霞を頼む。』
すがるように自分を見つめ頼みこんだ友の言葉が今更ながらに思い出される。 必死に馬を走らせ、玄徳はただ祈らずにいられなかった。 「美霞・・・どうか無事で・・・」
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玄徳はただ目を見開く事しかできなかった。 公孫讃の城を離れてからまだ数日しか経っていないというのに、辿り着いた時には既に炎に包まれていた。 しかし玄徳には呆然としている時間は無かった。 そのまま意を決したように、炎に包まれたその城の中へと駆け込んだ。
城の中は思ったほどは炎に包まれてはいなかった。 しかし、だからと言って焼け付くような熱さが無い訳ではない。 玄徳はあふれ出る汗を拭う事もせずに、美霞を探し続ける。 「美霞!」 声の限り叫ぶが、玄徳の声に答える者は無かった。 「美霞、何処だ!!」 目に付く扉を手当たりしだい開くが、そのどの扉の向こうにも少女の姿は無かった。 一体どれだけ探したのだろう。 そして玄徳は公孫讃の部屋までたどり着く。 玄徳は祈るように、その扉を開いた。 まず目に入ったのは、既に絶命しているであろう公孫讃の姿だった。 一目見て生きていないとわかるほどに、体からおびただしいまでの血があふれ出ていた。 そしてその腕に抱かれるように・・・少女の姿があった。 硬く閉じられた瞳と・・・その胸に切られたであろう大きな切り傷。 そして少女の血。 玄徳は絶望にうちひしがれた。 美霞は・・・かすかにも動く事は無かった。 玄徳はゆっくりと美霞に近づく。 恐ろしいほどに体が震えているのが解る。 玄徳は静かに目を閉じる美霞の頬にそっと手を触れた。 そしてまだかすかに温もりの残るその体を、静かに抱きしめた。 ただ空だけが雲ひとつ無く澄渡っていた。 |
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