それは遠い約束

多分自分は幸せだったのだろう

その幸せを失ってしまったのは果たして誰のせいなのだろうか

それはまるで砂上に出来た城の如く

はかなく崩れ去った

何故、こんな事になったのだろう

それは永遠に理解出来得ぬ答えかもしれない

 

 

 

  追憶の章 其の五―砂上の城 前―

 

 

 

辺りは一面の闇だった。その闇の中、天戒は一人立ち尽くしていた。

微かな音も、一片の光すら見えぬ。

「ここは・・・?」

呟いた声に答えるものは無い。その時天戒は、ようやく雨が降っていることに気付いた。

何時の間に現れたのか・・・目の前には雨にぬれた龍斗の姿がある。

その姿は血に濡れていた。そして、静かに問う。

「貴方は・・・何を望んでいるのですか?」

それは初めて出会った時の彼の言葉。

そうか・・・これはあの時の夢なのだ・・・

「  」

誰かの声が遠くで聞こえる。

気付けば回りには誰の姿も見えない。

「  」

再び声が聞こえた。

それが、自分を呼ぶ彼の声だとようやく気付いた。

 

 

 

 

 

 

ゆっくりと瞼を開けると、そこには龍斗の顔があった。

「龍か・・・」

小さく呟いた己の声は、驚くほど枯れていた。

「五日も眠っていたんですよ・・・」

相変わらず、無表情に言う龍斗の言葉に、思わず目を丸くする。

起き上がろうとして走る激痛に、顔をしかめる。

「まだ、無理はしない方がいいです・・・」

そう言って、その手を天戒の肩に置いた。

「何が・・・あった・・・?」

そう問う天戒に、龍斗は「覚えてませんか?」とだけ言った。

その時になってようやく、数日前の出来事を思い出していた。

 

五日前、天戒は江戸の結界の秘密を探るため、桧神美冬に天海を降ろすべく一人等々力に入った。

そこで、当然のように現れた龍閃組と対峙することになる。

今まで九桐達から聞いていた通り、彼らは手強かった。

初めてその名を聞いた時より、必ず鬼道衆にとって最大の敵となるであろうと懸念していた通り、

彼らは間違いなく大きな壁となって、天戒の前に立ちふさがったのである。

結局は天海を呼び出す事にも失敗し、天戒自身も大きな傷を負う事になり、その上その傷は桔梗の

治癒の力をもってしても完全に癒す事が出来ず・・・

 

蜉蝣と黒蝿翁と名乗った、謎の敵の出現。謎めいた言葉を残して奴らが消えると同時に、天戒はそ

の意識を失っていた。

 

 

「皆・・・心配していました。」

そう言う龍斗の顔からは何の感情も見受けられない。

しかしその言葉には確かに、気遣いが感じられた。

天戒は、「すまない・・・」とだけ呟いた。

その額に、そっと彼の手が当てられる。その冷たい手が妙に心地よく、天戒は再び目を閉じた。

「あまり・・・無理をしないでください・・・」

再び沈み行く意識の片隅で、どこか悲しげな龍斗の声を聞いた気がした。

 

 

「若が目を覚ましたようだな、師匠」

唐突に、しかし静かに開けられた襖と、かけられたその声に、龍斗は「静かに・・・」とその手を

口の前に立てた。

案外に穏やかな顔で眠っている天戒の姿を見て、九桐は思わず苦笑いする。

今まで、天戒のこれほどまでに穏やかなその顔を見た事が無かった。

眠る時でさえ、いつもどこか緊張したように・・・心の中に、まるで抜き身の刀を抱えているよう

な・・・

しかし、時としてそれが自身を傷つけてしまうのではないか、という不安をいつも感じていた。

そんな天戒を護りたいと、支えたいと思っていた。

せめて、自分達の前でだけは、剣を腕に抱かずとも眠れるように・・・

20年近くも傍にいながら、自分が出来なかった事を、目の前の少年はあっさりとやってのけたの

だ。

嫉妬半分、苦笑半分・・・しかし悪い気はしなかった。

そう、自分は常に影のように・・・付き従い、護るだけでいいのだ。

九桐にとって天戒は、幼き頃より決して離れぬと誓った主。

自分が部下である以上、その背を任せ支える事が出来るのは別の誰かの役目。

だから、これでいい・・・

そして九桐はふっと笑うと

「じゃ、後は任せた。他の奴らへの報告は任せろ」

と言い残し、部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

再び天戒が目を覚ましたのは、すでに月も高くなった真夜中の事だった。

その視線の先に、うとうとと眠る龍斗の姿が目に入る。

恐らくは、ずっとついていてくれたのだろう・・・

天戒はその肩に布団をかけると、起こさないようにそっと部屋を出る。

傷は痛んだが、動けぬほどでは無かった。

そのまま表に出ると、両親の墓に向かって静かに歩き出す。

いつもなら何の苦も無く辿りつけるその場所。

しかし月明かりに照らされながら、目的の場所にようやく辿り着いた時には、微かに息が上がって

いた。

そして父母の墓標に静かに手を合わせる。

 

誰よりも強く、そして多くの臣に慕われていたと言う父。

誰よりも優しく、そして誇り高く美しかったと言う母。

 

彼らは今の自分の姿を見て、果たして何と言うのだろうか・・・

誰もが穏やかに暮らせれば・・・天戒は常にそう思っていた。

しかし多くの人を、傷つけたのもまた事実。

真実、その行動に迷いは無かったが、自分が正しい事をしていると思えた事も唯の一度として無か

った。

そんな自分の考えに気付かない振りをして――いや、真実気付いてはいなかったのかもしれないが

――ただ我武者羅に剣を振るい続けたのだ。

徳川を滅ぼす、ただそのためだけに。

 

 

それを気付かせてくれたのは・・・

 

 

「天戒!!」

息を荒くして、こちらに走ってくる龍斗の姿。

彼にしては珍しく声を荒げている。表情もどこか慌てているように見えた。

「・・・少し眠っているうちに、いなくなっているから・・・多分ここだと思って・・・」

荒い息を整えながら、龍斗が言った。

「心配させないで下さい」

そう言って俯く表情は、まるで泣きそうに見えて・・・天戒はその心が微かに痛むのを感じた。

「すまなかった・・・」

天戒は小さく呟いた。

そんな天戒に「無茶はやめて下さい」と少し怒ったように言った。

再度「すまない」と詫びると、龍斗は「いえ・・・」と小さく首を横に振る。

そして、ガラにも無く慌てた自分に恥じ入るようにそのまま天戒に背を向ける。

そして「先に戻ります・・・」とだけ言って歩き出そうとした。

と、ふいに天戒は龍斗のその手を取った。

驚いたように、己を振り返りこちらを見つめるその瞳は、月の光に輝いて、とても美しく輝いてみ

える。

そしてそのまま後から、そっと抱きしめた。

龍斗は少し驚いたように僅かに身じろぎ、しかしさしたる抵抗もせず身を任せた。

「しばらく・・・このままでいさせて欲しい・・・」

どこか懇願するような天戒の言葉に返事は無かったが、そんな自分の手に彼の手が重ねられたのを

肯定ととり、抱きしめたままの腕を更に強くした。

 

 

どれほどの時が経ったのだろうか。

漸く天戒は、彼を抱きしめたまま口を開いた。

「以前・・・初めて会った時、お前は俺に問うたな。俺の望みは何のなのかと・・・」

相変わらず彼は答えなかった。俯いたままのその表情を伺う事は出来ない。

「俺はお前と出会ってから、ずっとその答えを探していた。」

そんな天戒の言葉を、龍斗はその腕の中でじっと聞いていた。

「俺は幕府を滅ぼす・・・その気持ちは今も変わらない・・・だが、これはあくまで、鬼道衆頭目

としての俺の願いであって、俺の望みではない気がする。」

漸く天戒は、龍斗に回されたままの腕から彼を解き放ち、正面を向かせる。

龍斗は俯いたままで、その視線を決して合わせようとはしない。

しかし、別段気に止める様子も無く、再び語り始めた。

「龍よ・・・俺は今まで、自分自身で何一つ望んだ事は無い。・・・だが、今俺には、初めて心か

ら望んでいる事がある。」

ようやく、俯いたままの龍斗がその視線をあげた。

そんな彼の姿を・・・その瞳を見つめ天戒は静かに言った。

 

 

 

「俺は、お前を・・・護る。」

それは迷いの欠片すら感じさせぬ、彼の言葉だった。