壱ノ章

 

 

 

見事に咲き誇る桜色。その鮮やかな景色の中を、龍斗と美里、そして蓬莱寺

京梧の三人は甲州街道を歩いていた。

気分のすぐれない龍斗に同行しようという美里の申し出を断るも、なおも食

い下がる彼女。結局半ば押し切られるように同行する事になり、こちらも押

し切るようについてきた京梧。

戸惑いを隠せないままに、逆らえぬ運命を感じつつも、不思議な縁で出会っ

た三人は、その景色の中を歩き続けた。

辺りを舞う美しい花びらが、やけに美しく見えた。

 

「桜が綺麗ですね・・・」

穏やかに微笑みながら美里が言う。京梧もまたそれに頷いた。

しかし龍斗はそんな言葉に怪訝な顔をする。

そんな様子に、美里は「どうかしましたか?」

と不思議そうな顔で尋ねた。

「・・・これが桜・・・」

恐らくは美里の問いかけも耳に入ってはいなかったのだろう。小さく呟かれ

た言葉は、遠い記憶を思い出しての言葉だったのだろうか・・・

龍斗は思いを馳せるように静かに目を閉じる。

しかし美里も京梧もそんな彼に驚きを隠せなかった。

龍斗の表情は偽りを言っているようには見えない。

そんな二人の思考を感じたのか、龍斗は呟く。

「すみません・・・見たことが無かったので・・・」

そんな様子に美里は慌てて首を横に振る。龍斗の瞳が悲しく歪んだように見

えたからだ。

京梧もまた「気にすんな!」と笑顔で言う。

そんな二人の様子を気に止めているのかいないのか、龍斗は小さく呟いた。

「昔、この桜を共に見ようと・・・約束しました。」

どこか悲しげなその言葉は、あまりに小さすぎて、誰の耳にも届く事は無か

った。

 

 

 

 

 

 

「嘘だろ・・・」

京梧は思わず呟いた。どうやらそれは美里も同様のようだった。

一見すれば緋勇龍斗は決して戦いなどするようには見えない。

何処か線の細いその容姿は一言で言えば美形の部類に入るのだろう。

その細い腕のどこにそれほどの力があるのか、一瞬にして九桐を倒した彼の

力に、驚きを隠す事が出来なかった。

倒された当の九桐は、そんな彼に―いやそれは京梧にだけ向けられた言葉だ

ったのかもしれないが―まだまだだといいながらも、やはり彼にそれほどの

力があったのが以外だったのか、飄々とした表情とは裏腹に、その瞳の戸

惑いを隠す事は出来ない。

それほどまでに圧倒的な力だった。

しかし龍斗と言えば、そんな周りの様子など気にも留めず、ただ冷めた目で

静かに九桐を見つめる。

 

『面白い・・・』

九桐は思った。人は見かけによらぬとはよく言ったもので、戦いなどとはお

よそ縁遠いと思われた龍斗が、少なくとも間違いなく今の自分よりも強い力

を持っているのだという事は明らかであった。

もちろんそんな様子などおくびにも出さずにいたのだが。

もし彼が、我らの前に立ちはだかるのであれば、それは恐るべき敵となる事

に間違いは無い。

出来るならばすぐにでもたたき伏せるべきなのであるが、今の九桐の力では

彼に決して勝つ事が出来ないのは明白である。

自分には護るべきものがある。今ここで無駄に命を落とすならば、引くべき

なのだろう。何よりも自分が戻らぬ事で、大切な人を苦しめるのだけは我慢

がならなかった。

『世の中は広い』

彼に勝つ事をあっさりと諦め、「また会おう」とだけ言い残し、それでも置き土産のつもりか、京梧の得物

を弾き飛ばして、その場を後にした。

「若にいい土産話が出来たな」

どこか楽しげな言葉だった。その胸の奥がかすかに傷んだのに、九桐は決し

て気付く事は無かった。

 

残された京梧たちといえば、自分の得物を弾き飛ばされたのが、よほど屈辱

的だったのか、すでに誰の姿も見えない方向に向かって「覚えてろよ!!」

と大声で叫ぶ彼の姿を心配そうに見つめる美里と、先ほどの戦闘など無かっ

たの如く、静かに佇む龍斗の姿。

そして、再び三人は新宿に向けて桜並木を歩き出すのだった。

 

 

 

 

 

 

目の前にいる龍斗の姿に、京梧は苛立ちを隠す事が出来なかった。

今、彼らの前に立つ“鬼”の姿。

それはあまりにも異形で、だからと言って間違いなく人であったそれを倒す

事に、戸惑いを覚えない訳にはいかなかった。

それはつい一刻ほど前に出会ったばかりの雄慶も同様に見えた。

にもかかわらず、龍斗の様子はどうだ。

まるで、例え人であったとしても関係など無いとでも言うように、まったく

表情すら変えぬ様。

考えてみれば、甲州街道で出会った九桐と対峙した時もそうだった気がした

あれほど挑発的に死合を求められたにもかかわらず、まるでそれが自分に向

けられた感情であるのかすら気付かぬようにただ動かない表情。

にもかかわらず、一瞬で彼を倒した圧倒的な力。

コイツには本当に感情というものが存在するのかとすら思わざるを得ない。

 

そしてその次の瞬間、目の前の鬼は、その陰気に耐えることが出来なかった

のか、その躯すら残さずに消え去った。

傍で美里が悲しげに眼を伏せた。京梧も雄慶もやりきれないようにそこから

目を逸らす。

龍斗だけが相変わらずただ無感動にその様をじっと見つめていた。

思わず京梧が彼に対して何か言おうと思ったその時、暗い寺の影から何処か

楽しげな女の笑い声がした。

思わず京梧たちはその声をした方向を見る。

笑いながら、近づいてくる女はその名を時諏佐と名乗った。

どうやら雄慶だけはその女が何者であるか知っているようだった。

「ここで話を聞いたらもう二度と戻れないよ」

脅しのように言う彼女に対し、先ほどの憤りも忘れ京梧が望む所と笑う。

ちらりと隣の龍斗を見るが、別段先ほどとなんら変わった様子も見えない。

彼に文句をいう事を諦め、しかし京梧はこれから始まるであろう江戸での生

活に、興奮を隠す事が出来なかった。

自分は強いものと戦うために、此処に来たのだ。

それが人であっても鬼であっても変わらない。

「これから、面白くなりそうだ・・・」

事の重大さを自覚しているのか、いないのか…どこか楽しげなその様子に、

時諏佐は思わず苦笑いする。

これから彼らは公儀隠密として、江戸の町を、民を“鬼”から護るために戦

うのだ。

そう煌く龍の息吹の如く。

その瞬間、龍斗の瞳が僅かに陰ったのを時諏佐は見逃さなかった。

その瞳の動きはあまりに一瞬で、気付いたのは恐らく彼女だけであろう。

しかし、それに気付かない振りをして時諏佐は静かに笑みを浮かべる。

龍斗もまた、そんな彼女の様子に気付いたのか、しかし別段何をいうでもな

く、ただ、その瞳だけが悲しげに揺れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

天に咲く花 壱章 完