あの出会いが己の人生の真の始まり

 

 

 

既に寝静まった龍閃寺の一室。

よほど疲れたのか、京梧と雄慶は床に着くとほぼ同時に、寝息を立てていた。

しかし、龍斗は疲労感はあるもののどうしても眠る事が出来なかった。

恐らくは、あの出来事から数日とたっていないのだろう。

だが、龍斗にとってまるで数十年も経ったかのような錯覚すら覚える。

あまりにも目まぐるしく変わっていく時間。

“あの時”の出会いが、己の人生の始まりであるとすれば、この出会いは全ての終わり。

全てと決別する覚悟であったとはいえ、目を閉じればまざまざと甦る想い。

「   」

小さく小さく呟かれた言葉。

それは、果たして彼の人に届くのだろうか。

 

 

 

 

追憶の章 其の壱―赤雨―

 

 

 

 

夕方から降り始めた雨は、鬱陶しいほどに止む気配を見せなかった。

まるで、この世の全ての物を洗い流すかのように、地面を叩きつける。

ぬかるんだ地面を進みながら、天戒は後をついて来るその姿を横目で見た。

その表情は、長く伸ばされた前髪に遮られて伺う事は出来ない。

しかし先ほど見せたその力は、驚愕にたるもので・・・

もしかしたら、その存在はこれからの鬼道衆の運命を大きく左右するかもしれな

いと、そんな予感がした。

 

 

 

 

 

 

天戒は酒を口にしながら、村に来たその少年のことを考えていた。

――変わった奴だ――

それが、第一印象だった。

 

鬼の村に来たというのに、物怖じしないその態度。

目の前に鬼が現れても顔色一つ変えず、驚くべき力で一瞬にして山鬼を消滅させ

た。かといえば、殺そうとした相手に迷いも無くついて来る度量。

よほどの馬鹿か器の広さか・・・

交わした言葉は、まだ僅かであった。しかし、その考えは天戒の、そして鬼道衆

の考え方に添っているようでもあり、そうでないようにも思えた。

決して動かない感情。そして、その少ない言葉の中に感じられた確固たる信念。

どんな時でもその信念を貫けるのかという、天戒の問いに彼は迷いも無く頷いた。

途端に胸中に湧き上がったのは苛立ちだった。

「それは、お前が何も失った事が無いから言えるのだ。」

半ば八つ当たり気味に言われた天戒の言葉に、少年の瞳が微かに揺れた。

それに気付かない振りをして、手の中にある杯を一気にあおった。

 

「貴方は、何を望んでいるのですか?」

ふいに問い掛けてくるその言葉。

「無論、徳川を滅ぼす事だ。」

天戒はなんの迷いも無くそれに答る。しかし別段表情を変えるでもなく、少年は再

び問い掛けてくる。

「では、貴方の自身の望みはなんですか?」

天戒は微かに目を見開いた。

答えを返そうとして一瞬言葉を出す事が出来なかった。己自身は果たして本当

に復讐だけを望んでいるのだろうか・・・

確かに、常に徳川への復讐だけを胸に走り続けていたが、その胸中に復讐以外の想

いがあるのも確か。

しかし、それすらも己自身の真の望みかと問われれば、その答えは否である。

そんな心をまるで見透かされたようで、天戒は少なからず驚いた。

 

――不思議な奴だ――

 

それが次に抱いた彼への、言うなれば第二印象。

 

 

「俺の・・・望みか・・・」

考えてみるが、どうしても思い浮かばなかった。

思えば、自分は何かを強く望んだ事があったのだろうか?

ふと少年の瞳を思い出す。艶やかな黒髪に遮られても尚、強く輝いていたそれは、

まるで暗闇を照らす澄んだ光のようだと、天戒は思った。

その少年の瞳は、天戒の心の奥底に、強く強く焼き付いていた。

そして天戒は意を決したように立ち上がると、その足を少年―緋勇龍斗の元へ向け

歩き出した。

 

 

 

 

眠っているかと思ったその人は、月明かりの下に静かに佇んでいた。

その姿はどこか幻想的で・・・天戒はそんな彼の様子を暫くじっと見つめる。

そんな視線に気づいたのか、龍斗はその眼差しを天戒に向ける。

それに気付いて、天戒は言う。

「眠らないのか?」

そう問うた天戒の言葉に、龍斗は何も答えない。

「鬼の村では、眠れぬか・・・」

どこか自嘲めいたその言葉に龍斗は僅かに眉を潜め、小さく

「いえ・・・」

とだけ答えた。そんな様子に、何故だか罪悪感を覚える。

「別にお前を馬鹿にしたわけではない・・・」

まるで言い訳でもするかのような自分の言葉に、少し驚いた。

何故この村に来たばかり者に、弁解をする必要があるのだ・・・

だけど、その胸に微かな罪悪感が芽生えたのも確か。

目の前にいるその人は、そんな天戒の様子には気付かなかったようだが。

「お前は、今の幕府をどう思う?」

辺りを漂う気まずさを断ち切るように、天戒は問い掛ける。

龍斗から答えは返って来ない。

「俺は、今の幕府に存在価値があるとは到底思えぬ。この村に住まうのは、少なく

とも幕府の犠牲となり、全てを失った・・・そんな者達ばかりだ。彼らにあるのは

幕府への怨嗟。俺は彼らのその言葉に・・・背を向けることは出来ない・・・彼ら

にとって、復讐こそが生きる術。だからこそ俺は・・・」

そんな天戒の言葉を、龍斗はただじっと聞いていた。

「俺は、お前にも今の幕府の姿を見極めて欲しいと思う。すぐに答えを出せとは言

わん。ただ、しばらくこの村に留まって、果たしてどちらに義があるのか・・・そ

の結果お前を斬る事になるかもしれん。」

なおも続ける天戒に、ようやく龍斗が口を開いた、その瞬間・・・

 

「敵襲―――!!!」

辺りの静けさを打ち破るかの様な下忍の声だった。

 

 

 

 

 

 

目の前にある男の死体を、天戒はただ冷めた目で見つめていた。

今しがた斬り捨てた、この男の姿に今の幕府の腐敗を感じざるを得なかった。心底

醜いと思う。

辺りを、村人達の歓声が包む。

その声を背後に聞きながら、天戒はその視線を男の躯に向けたまま、背後にいるそ

の者に向かって静かに語る。

「これが、今の幕府の姿だ。・・・お前はこの男の・・・今の幕府の姿を見てなん

とも思わぬか・・・?」

そう言って振り返った次の瞬間、思わずその言葉を止める。

目の前にいたその人は、まるで血の雨に濡れたかのように、赤く染まっていた。恐

らくは先ほどの侍の返り血を浴びたのであろう。

現に天戒も、己の斬った男の血で濡れている。

しかしその姿は・・・今まで天戒が見た、何よりも美しく見えた。

握っていた剣が自然と放れ・・・カシャンと音をたてて地に落ちた。

その人は己が血を浴びていることなど、まるで気にも止めていないように見えた。

ただ無感動に動かない表情が、その美しさを一層引き立たせているようだと天戒は

思った。

 

「貴方の言われる通り、しばらくはこの村に滞在させて頂きます。」

尚も口を開かない、そんな天戒に龍斗は唐突に口を開いた。

それは天戒にとっては意外な言葉であった。

「幕府の姿ではなく、貴方達の・・・貴方のやる事を見極めたいと思うから。」

それだけ言うと龍斗は踵を返し、すたすたと屋敷の方へと歩き出した。

そんな彼の後姿を天戒はただ・・・ただじっと見つめ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局はどうしても寝付く事が出来ず、しかし龍斗はふと思い立つと、そっと立ち上

がり龍閃寺をあとにする。

向かう先は、恐らくは己の真の人生が始まったあの場所。

例えそこを訪れようと、彼と自分の人生が再び交わる事は無い。

それでも、微かによぎる優しい思い出を求めずにはいられない。

 

もしも人が死んだら果たしてその想いは残るのだろうか。

たとえその想いを受け止めてくれる人がいなくても。

 

 

 

 

 

 

あれは始まりか、それとも全ての終わりか

回りだした歯車は決して止まる事は無い

止まる事があるとすれば、それは全ての終わりの時

 

 

 

 

 

 

天に咲く花 

追憶其の壱 赤雨  完