拾ノ章

 

 

 

 

 

 

東の空は、僅かにまだ白い。

鳴り響く鐘と共に、江戸の街は動き出す。

夜明けと共に目を覚ました龍斗は、音をたてる事無く、龍閃寺を後にした。

賑やかな町並みを抜けて向かう先は静かな竹林。

ほぼ毎日のようにそこに行く。

何をするわけでも無い。ただ其処に立ち尽くすだけ。

そこは“彼”と初めて出会った場所。

決して忘れ得ぬ思い出。

しかしそれは、時として残酷な思い出となって甦る。

だが決して、幸せでなかった訳では無く・・・むしろ幸福だったと言える。

あの最期の日までは・・・

 

何故・・・

 

幾度も幾度も問い続けた言葉。

呟きは声にはならず、龍斗はまるで祈るように目を伏せた。

胸の奥が微かに痛み思わず握り締めた。

泣きたい・・・と思った。

しかし心は張り裂けそうなほど痛く苦しいのに、どうしても涙は出てこない。

かわりに悲鳴をあげるその心だけが、まるで心臓を鷲づかみにされているかのように苦しかった。

それでも涙一つこぼせない、そんな自分に憤りを感じた。

そっと、その額に手を触れた。そこにはすでに消えかけている小さな傷。

それが彼の人と自分を結ぶ最後の絆なのだ。

 

 

 

 

 

 

龍泉寺に戻ると、部屋をそっと見渡す。そこには京梧や雄慶の姿は無い。

それを見て龍斗は少しだけ安堵する。

日課のようにその場所へと赴く龍斗に一番良い顔をしないのは京梧だった。

出会ったばかりの頃こそ、「どこへ行ってたんだ」だの「出かけるなら、一言くらい声をかけろ」

だの、うるさい程に言ってきた彼も、最近では諦めたのか不機嫌そうな顔をするだけで、何も言わ

なくなっていた。

京梧だけではない。

雄慶も美里も、小鈴も・・・そして、龍閃組となった仲間全てが、自分を気遣ってくれているのが

わかる。

歩み寄ろうと、必死になってくれているのも。

だが、龍斗は決して彼らに心を開く事は出来なかった。

彼らが、かつては敵であったとか・・・そういう事では無い。

京梧達の実直な気性は、龍斗にはむしろ好ましく思える。だけど・・・

「・・・俺は・・・」

小さく呟き、龍斗は目を閉じる。

 

――俺は出会った瞬間から彼らを裏切り続けている――

 

決して消せない罪悪感。それは鬼道衆であった事に対してだけでは無い。

自分は余りにも身勝手な我侭の為だけにここに居るのだ。

ただ一人の命を救う為だけに・・・

 

「本当に良いのですか?」

 

あの時、少女は悲しげに言った。

しかし龍斗は、その願いをどうしても捨てることが出来なかった。

時が進むにつれ大きくなっていく罪悪感。

だが相反して、胸に在る決して捨てる事の出来ない愚かな望み。

それは罪・・・決して消せない、この世で最も愚かな・・・

 

 

 

「お前を護る。」

かつて、彼は龍斗にそう言った。人から与えられた言葉に、これ程嬉しいと思えたのは初めての事

だった。

それなのに、自分はそんな時ですら、笑顔の一つも返す事が出来なくて・・・

けれど、彼はそんな自分に、ただ傍にいてくれるだけで良いと言ってくれた。それは涙が出るほど

嬉しくて・・・それでも言い訳じみた事ばかりしか言えない自分を、ただ抱きしめてくれた。

心から幸せだと思えた。

しかし本当に伝えたかった言葉は、結局何一つ言えなかった。

だからなのだろうか。自分の本当の気持ちが伝わらなかったのは。

「この命をかけて・・・お前を必ず護る」

そう言ったその言葉の通り、彼は命をかけて龍斗を護った。

しかし・・・そんな事を望んでいたわけではない。

望んでいた事は・・・

「護ってくれなくても良かったのに・・・」

小さく呟かれた言葉が、かすかに震えている。

「護って欲しくなんか無かったのに・・・ただ・・・」

そのまま、がっくりとその場に崩れ落ちる。

「ただ、傍に居てくれるだけで・・・それだけで良かったのに・・・」

崩れ落ちたまま、握り締めた手の上に落ちるのは、己の涙。

「どうして・・・!」

それ以上は言葉にならなかった。

ただ、涙だけが留まる事無く次々と流れ落ちた。

それは、気丈な彼の初めての涙。

父が、家族が・・・かつての仲間が、そして誰よりも大切だったその人が殺された時ですら、決し

て泣くことが出来なかった龍斗は、その日初めて泣いた。

 

 

 

 

 

 

「龍斗さん、こちらにいらしたのですか・・・」

そっと襖が開けられ、涼浬が姿を現した。

途端に、ビクッと驚きの表情を浮かべ、龍斗がこちらを振り返る。

その様子に涼浬も思わず息をのむ。

ただ、じっと涼浬を見つめるその顔には、今まで決して見せた事の無い・・・一言で言うならば驚

愕の表情が浮かんでいる。

気配に敏い彼にしては珍しく、声をかけられるその瞬間まで気付けなかったのだろう。

大きく見開かれたその瞳が、微かに揺れている。

二人の間を、気まずい沈黙が流れた。

「す・・・すみません・・・」

まるで見てはいけない物を見てしまったかのようで、涼浬は龍斗から目を逸らし、思わず詫びる。

その頬が微かに赤く染まっていた。

「いえ・・・」

龍斗もそんな自分を恥じるかのように、俯いて小さく答えた。

辺りに漂う沈黙に耐え切れず、涼浬は言葉を探した。

「あの・・・時諏佐殿が・・・話があるので部屋に来て欲しいと・・・」

ようやく自分がここに訪れた理由を思い出し、胸によぎる罪悪感を打ち消すように、涼浬が言った。

そんな彼女の言葉に龍斗は小さく頷くと、そのまま何も言わず彼女の横を通り抜けた。

涼浬は思わず横目でその表情を見た。しかし、すでに彼の顔からは何の感情も見受ける事が出来な

かった。

その後姿を見送りながら、それでも涼浬は彼から目を離すことが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

「悪かったね、朝早くから呼び出して」

さして悪びれもせず、それでもすまなさそうに詫びる時諏佐に、短く「いえ・・・」とだけ返し、

龍斗はその場に腰掛けた。

そんな龍斗の様子に、時諏佐はひどく複雑な笑みを浮かべた。

「一度あんたと二人でゆっくり話がしてみたくてね。」

まるで世間話でも始めるかのような時諏佐に対し、それでも決して自分からは口を開こうとはしな

い龍斗に苦笑いする。

龍閃組と龍斗の関係は、時諏佐にとっても頭の痛いことではあったが、別段それをどうこうしよう

とは思わなかった。

仲間内の関係など本人達の問題であるし、任務にさえ支障がでなければ特に自分が口を出すべきで

はないのだろう。しかしただ時諏佐自身が、この緋勇龍斗と言う人物と第三者のいないところで話

してみたいと思ったのだ。

しばらくは他愛もない会話が続く。

考えてみれば、彼とこれほどに自分の思いを話し合うのは初めてだった。驚いた事に、時諏佐の言

葉に龍斗は必ず望む言葉を返している。決して言葉多くは無いけれど・・・

《もしかしたらこの子は・・・》

 

「あいつは俺達の言葉なんか聞いちゃいないんだよっ!」

 

そう言ったのは、たしか京梧だったか・・・しかしそんな事は無いのだ。

この少年は仲間達の言葉を全て聞いてるのだろう。

いや味方に限らず例えそれが敵であっても。

そして、その人の気持ちを思いやる事が出来る。それをうまく表せないだけで。

誰よりも純粋で、誰よりも優しい・・・。

しかし行き場の無い優しさは時に戸惑いとなり、さらに感情を表すことが出来なくなってしまう。

恐らくこの少年と共に生きるのに必要なのは、言葉ではないのだ。

酷く感情を表す事を不得手とする彼と生きていくために必要なのは、恐らく理解する心。

全てを理解したとは言えないけれど、ほんのわずか理解できた気がしたと、時諏佐は思った。

もちろん、この少年はもっと重い何かを抱えているのだろうが。

「今日、ここであんたと話してよかったよ。」

何の含みも無く、微笑みながら時諏佐は龍斗に言った。彼がかすかに微笑んだ気がするのは、多分

気のせいではないだろう。

「貴方に頼みがあります・・・」

唐突に龍斗が口を開いた。その言葉に時諏佐は思わず目を丸くする。

「珍しいね。あんたが私に頼み事なんて。」

驚きながらも「私に出来る事なら」と微笑みながら快諾し、「で、頼みと言うのはなんだい?」と

促す。

しかし、龍斗は迷いがあるのか、なかなか口を開こうとはしなかった。時諏佐はそれを辛抱強く待

つ。

ようやく決意を固めたのか、龍斗はようやく口を開いた。

 

 

 

 

 

 

龍閃組を金王八幡神社に送り出した後、今度こそ全員で腹を割って話すのも悪くないと思った。彼

らは必ずかけがえの無い仲間になれるという予感がした。自分はその為の小さなきっかけを作って

やればいいだけなのだ。そうすれば、自ずと歩み寄る事が出来るだろう。

しかし、それと同時にもう一つの予感が頭をよぎる・・・

何故今になって急に話してみようと思ったのだろう。今まで、彼らに任務以外で介入する事などな

かったというのに。

胸を過ぎったもう一つの・・・それも悪い予感。

ここで話さなければ、二度と話すことが出来ないような漠然とした不安。それはシコリのように胸

から消える事は無かった。

円空より聞かされた、幕府の不穏な動き。

龍閃組の存在意義を問う声も高まっていると言う。なんとしても彼らを守りたいと時諏佐は思う。

例えそのために自らが命を落とそうとも。

 

ふと時諏佐は、先ほどの龍斗の話を思い出した。

それは、彼女にとって衝撃と呼べるほどの告白だった。

そして漸く彼が抱えていたものの重さを理解することが出来た。彼が抱え続けていたその痛み。彼

はそれを誰に言う事も出来ず、たった一人で苦しみ続けたのだろうか?

龍閃組となってからずっと・・・

 

「貴方に頼みがあります。」

そう言った時の龍斗の瞳を時諏佐は二度と忘れないだろう。

それは、決して感情を表さなかった彼が見せた、初めての心だったのかもしれない。

 

 

 

 

それが、時諏佐が龍斗と話した最期だった 


 

 

 

 

 

 

 

天に咲く花 拾章 完