九ノ章
どこからか聞こえる声。 とても懐かしく、そして暖かなその声音。 それは大切だった人の声。 聞こえてくるその声に答えようと口を開く。 必死にその名を呼ぼうとするが、しかし喉まで出かかった言葉は決して音にはならなかった。 激しく胸が痛んだ。その場にうずくまり胸を抑え必死にその痛みに耐えようとする。息が出来ない・・・ 傷むのは心だという事に、その時になってようやく気付いた。 気付けばその目の前に映る仲間達の姿。 かつて共に戦った者達。今、ここで共に戦う者達。 その中には、彼の姿もある。 彼らが次々と語りかけてくる。 卑怯者と、愚か者と龍斗を責め続ける。 かれらの言葉が、その心が、深く胸に突き刺さる。 思わず硬く目を閉じ、その耳を塞いだ。 彼らの視線から逃れようと、その声を聞くまいと・・・ だがその脳裏に彼らの姿が焼きついて離れない。その声が響いてくる。 ふと声がぴたりと止んだ。 そっと目を上げると、すでにそこには誰の姿も無かった。 いや、誰もいない訳では無かった。 そこには、彼が立っている。いつもと変らぬ、その優しい笑みを浮かべて。 ただ優しく、その手を差し伸べている。 その瞳に微かに涙を滲ませて、ぎこちなくも微かに微笑を返す。 耳を塞いでいた手をようやく外し、彼に向かってゆっくりとその手を伸ばす。 その手が彼に届こうとしたその瞬間・・・ リン・・・ 背後から聞こえる鈴の音に思わず後を振り返る。 振り向いたその先には何も無い。 再びその視線を戻すが、そこにはもう誰の姿も無かった。 微かに眼を見開いたその表情が悲しげに歪む。そしてそのまま俯く。 その唇をかみ締め、俯いたままその手を握り締めた。 ただ、小さな鈴の音だけが鳴り響いていた。 * 浅い眠りからようやく目が覚め、龍斗は自分が夢を見ていたことを理解する。 あれから何度夢見たことだろうか。 心が痛むのはいつもの事だが、例えそれが夢の中でも、彼に会えたことは嬉しく思えた。 刻一刻と近づく運命の時。 龍閃組となってから、かつては仲間であった多くの者達と戦った。 その度に、心の中にある何かが音をたてて崩れていくのを感じた。 今ではその痛みにも慣れてしまった。 例え彼らに敵として罵られようと、何も感じる事は無い。 ただ、間もなく出会うであろう彼に憎しみの目で見られることだけは辛かった。 頭が割れるように痛み、体は鉛のように重かった。 しかし龍斗は静かに立ち上がる。 一瞬ふらつくが、そのまま外に向かう。 寺の外には、京梧達の姿がある。しばしその姿を見つめた。 自分とはあまりに違う彼らの姿。何時までも絶えぬ闇の中を彷徨い続ける自分と違って、彼らはいつもまば ゆい光の中にいる。 何故自分はああいう風になれないのだろう。 せめてかすかでもいい、笑うことが出来たなら。 ほんの少しだけでもいい、彼らに己の思いを言う事が出来たなら。 そう思ってもそれは仕方のないことで、半ば諦めにも似た感情は、龍斗にとっては、最早苦痛ですらなか った。 ようやく龍斗の姿に気付いたのか、美里が笑顔で話し掛けてきた。 「あの、今から梅月先生がこの前のお礼にって、ご自宅にご招待したいそうです。よろしければ、緋勇さ んも一緒にいかがですか?」 何の含みも無く言う美里。その後で梅月もまた「是非」と笑った。 美里達の言葉は嬉しく思えたが、全くそんな気にはなれない。 「すみません・・・気分がすぐれないので・・・」 その笑顔から目を逸らすように龍斗が言う。その言葉を聞いた途端、京梧が 「だから、そいつは誘うだけ無駄だって言っただろうが・・・」 と不機嫌そうに言った。しかし、龍斗の表情を見た途端、怪訝な顔をする。 「お前・・・ホントに顔色悪いぞ・・・」 京梧が思わず気遣いの言葉をかけてしまうほど、龍斗の顔色は悪く見えた。 ただでさえ色素の薄いその肌は、白いを通り越して青白かった。 そんな龍斗の様子に気付いたのか、美里たちの表情にも気遣いの色が浮かんだ。 「よろしければ、良仁先生に来ていただきましょうか?」 数日前に良仁より言われたことを思い出し、美里は龍斗に言う。 しかしそんな彼女にに丁寧に断りの言葉を述べ、龍斗は 「しばらく休めば大丈夫ですから・・・」 と、その場を後にした。 普段ならば気にもならないほどの短い廊下を歩きながら、しかし何故だかその廊下がとても長く感じる。 恐ろしいほどに体が重かった。 何をするにも億劫で、一歩進むごとに体力を奪われていく気がした。 頭が割れるように痛い。 ようやく部屋に戻ってから、安堵したように息をはくと、そのまま壁に寄りかかる。そしてその場に座り 込んだ。 ―多分俺は・・・もう長くはないだろう・・・― それが寿命なのか、誰かの手によるものなのかは解らなかった。しかし何故だか、それだけははっきりと 理解できた。 何より龍斗にとって、その命に何の未練も無かった。 だが、まだ死ぬわけにはいかないのだ。 その願いをかなえるまでは― 死ぬのは決して怖くは無い。 怖いのは大切な人を傷つけたままで逝かなければならないこと。 目を閉じると、その脳裏に現れる仲間達の姿。 こんな自分を迷う事無く受け入れ、支えてくれた人達。 そして、優しい彼の顔。 ―戻りたい― 今この瞬間ほど、それを強く感じた事は無かった。 彼を救う為だけに、此処に居る。 後悔はしないと決めた。 それなのに、あの一番幸せだった時間を、これ程までに熱望している。 ―戻りたい・・・― 涙は出てこないが、その心が泣いているのだというのは感じた。 泣けない事がこんなに苦しいのだと、初めて理解した。 その苦しみから逃れるように、龍斗はその意識を浅い眠りの中に沈めた。
眠るのは好きだった。 二度と戻れない過去も決して来ない未来も、夢の中ならば見ることが出来る。 例えそれがどんなに辛い過去であっても、あり得ない未来でも。 ほんの僅かでも、幸せを感じる事が出来るから―― ―戻りたい・・でも、もう戻れない・・・・ 戻れないと解っているからこそ、無意識のうちに龍斗はそう願わずにはいられなかった。 目の前で妖艶な女が「早くおいでよ」と笑った。 その横で少年が少し不機嫌に、それでも優しく「置いていくぞ」と言う。 僧侶が「相変わらず暢気だな。」と呆れた顔で呟く。 自分を受け入れくれた仲間達の姿。 そしてその後には・・・ 「龍・・・」 “彼”が穏やかに笑みを浮かべて自分を呼ぶ。どれほどに彼にその名で呼ばれることを望んだことか。 しかし、彼はそのまま龍斗を見ようともせずに仲間達を伴ってそのまま去っていく。他の者達もまた、そ のまま歩き出す。 「まって・・・」 思わず呟いて、その手を伸ばす。 その腕が空を切り、龍斗はそれが幻である事を悟る。 「どうして・・・」 誰に問い掛けるでもなく、龍斗はそれでも問わずにはいられなかった。
人は何時、その幸せを失ってしまうのだろうか。 何故幸せな時間はあっという間に過ぎてしまうのだろうか。 まるで、一瞬だけ大きく輝く花火のように。 僅かな時間だけ咲き誇り、余りに儚く散る桜のように。 それは二度と取り戻す事の叶わぬ・・・ * 辺りを舞う桜。 いつか約束した。二人で見ようと。 それは決して叶えられる事は無いけれど。 夢の中でなら、彼と共にその桜を見ることが出来る。 夢だと解っていても、とても幸せだと思える。 目の前の彼が微笑んだ。 自分もまた彼に対して笑う。 そう、これは夢。戻れない過去、来ない未来。 運命の時はもう目前まで迫っていた 願わくば・・・せめて彼が幸せでありますように・・・ 天に咲く花 九章 完 |