弐ノ章

 

 

 

おい緋勇は何処に行ったんだ?」

あたりをきょろきょろと見回しながら、京梧が言ったのは既に日も高くなった頃だ

った。

はじめの頃こそ、寝汚い京梧に対しいろいろと口を出していた雄慶だったが、最近

ではすっかり諦めたのか

「お前の起きるのが遅すぎるんだ」と、茶をすすりながら静かに答える。

実を言えば、龍斗が朝早くから誰にも言わずに龍閃寺を抜け出す事は毎日の事で、

しかしいつも日が高くなってから起き出す彼はその事に気付いていないだけだった

のだが、いつもなら彼の目が覚める頃には戻っている龍斗は、今日に限って未だ戻

ってはこなかった。

雄慶はそんな龍斗に何処に行っていたのか、一度だけ問いただしたのだが、彼から

帰ってきた答えは

「別に・・・」というそっけない一言。

以来、彼がどこかへ言っても何もいう事はしなかった。

しかし、それを聞いた京梧は途端に不機嫌になる。

「ったく、アイツには公儀隠密としての自覚が無いのかよ!」

自分の事は棚にあげ、ぶっきらぼうに言う京梧に思わず雄慶は思わず苦笑いをうか

べるも、あえて何も言わずにすっかり冷めた茶を一気に飲み干した。

「よく言うよ。京梧の方こそ、自覚があるのか怪しい所だよ」

唐突にかけられた声に、しかしその姿を見るまでも無く誰が言ったのかは明らかで

そちらの方向を見る事も無く、京梧は「うるせぇ」とだけ言う。

そこには何時の間に現れたのか、美里と小鈴の姿があった。

「あまりうるさく言うものでもあるまい。別に任務に支障をきたしているわけでは

ないのだ。とにかく、緋勇殿が戻ったら時諏佐先生が話があるとの事だ。本堂に行

くぞ」

「知るか!」

京梧はぶすっとした表情のまま、雄慶が止めるのも聞かずその場を後にした。

そんな京梧の後姿を見送り、雄慶たちは小さくため息をつく。

「蓬莱寺さん・・・あの吉原の一件、まだ引きずっているんでしょうか」

美里がポツリと呟いた。

「そういえば、お葉さん変な事言ってたよね・・・」

ふと思い出したように、小鈴が言う。

雄慶も美里もその言葉に、思わず彼女の方を見返した。

「御神槌さんの時も思ったけどさ、緋勇クンってボク達の知らない何かを知ってる

って・・・そんな感じがしたよ。」

そんな言葉に美里も頷く。

「だからといって、緋勇殿が歩み寄ってくれない限りは、俺たちには何をすること

も出来ないだろう。少なくとも今の彼は、全てを拒絶している、そんな風にしか見

えんからな・・・」

半ば諦め気味に雄慶は呟いた。

「緋勇さんはお葉さんと、以前からの知り合いだったのでしょうか・・・」

ふいに呟かれた美里の言葉に答える声は無かった。

 

 

 

貴方との約束を守れてよかった

あの悲しい遊女の魂はそう言った

 

 

 

それは吉原での悲しい事件。

無念のうちに死んだ遊女お葉は、鬼道衆の桔梗と名乗る女の手によって、亡霊とな

って吉原に甦った。

それほどに無念だったのか、多くの人を傷つけて。

それを知った時、京梧はどうしてもそれを信じる事ができなかった。

彼女が既にこの世のものではないという事も、ほんの僅かであったとはいえ、悲し

く、そしてあの優しい瞳をした少女がそんな事をするという事も。

しかし龍斗はまるでそれを心得ていたかのように、表情すら変わることが無い。

僅かとはいえ、彼もまたお葉を知るには違いないはずなのに。

お葉が最後に残した最後の言葉。

その言葉の意味を京梧は理解する事は出来なかった。

だが、彼女のあれほどまでに悲しい姿をみても、顔色一つ変わらない彼の姿を、ど

うしても許す事が出来なかった。

 

 

 

 

 

 

目の前の遊女の姿に、京梧達はただ呆然とする事しか出来なかった。

その姿は確かに、お葉の姿。

しかし、生者とはあまりにかけ離れたその存在。

鬼道衆の手によって常世より甦った、あってはならぬその姿。

そのお葉が、ただ悲しげな瞳で京梧達を見つめていた。

彼女をそんな姿にした桔梗の姿は既に無い。

「私は・・・」

お葉が静かに語り始めた。

「体を壊して、誰も私に手を差し伸べてくれなくなって。だた、生きているのが辛

くて仕方が無かった。楽しい事も、嬉しい事もたくさんあった筈なのに、甦るのは

辛い思い出ばかりで・・・いつの間にか好きだったはずの、この吉原が・・・憎く

て仕方がなくなってしまった。」

「お葉ちゃん・・・」

「でも、今ははっきりと思い出せる。辛い事もたくさんあったけど・・・それと同

じくらい、良い事もたくさんあった。楽しい事もあった・・・」

遠い過去を思い出すように、お葉は懐かしげな瞳で遠くを見つめた。そして、その

視線を戻すと優しく笑う。

「あなた達のおかげです・・・私はこの江戸が、吉原が好きです。ここが私の生き

る街だから。それを思い出させてくれて・・・本当にありがとう・・・それから迷

惑をかけてごめんなさい」

そう言ってお葉は静かに微笑んだ。

それはつい先ほどまで、悪霊としてさまよっていたとは思えぬほど、穏やかな表情

だった。

「・・・私、そろそろ逝かなきゃ・・・」

そんなお葉の言葉に、京梧は思わず彼女を引き止める。

しかし彼女は再び「ごめんなさい」と呟くと、それから龍斗の方に向き直った。

「龍さん・・・龍斗。ずっと前に約束した。貴方は覚えていますか?」

そんな言葉に、龍斗はかすかに目を見開いた。

「貴方との約束を守れて良かった。私はずっと、貴方に私の歌を聞いて欲しかった

・・・あの時・・・それだけが心残りだったから」

一瞬その場にいた誰もがその言葉を理解する事が出来なかった。

ただ、龍斗だけが、その言葉を呆然と聞いている。そんな龍斗の様子をみて、お葉

は優しく笑った。

「だから、桔梗さんに少しだけ感謝しています。何故こんな事になってしまったの

か、私にはわからないけれど・・・でも、貴方の事だけは絶対に忘れません。」

「お葉・・・」

「さようなら・・・龍斗・・・」

それだけ言い残すと、そのままお葉は静かにその場から消えた。

龍斗はただ、呆然とその様を見守っていた。

 

 

彼女は、もしかしたら理解っていたのだろうか・・・

 

 

微かな疑問とわだかまりだけを残して、吉原での悲しい事件は幕を閉じたのだ。

 

 

 

 

 

 

京梧はあの事件の後に清閑寺に立てられた、お葉の小さな墓標を目の前にして、考

え込んでいた。


―もしかしたらあの手紙は・・・俺と緋勇に当てられたものではなく、アイツにだ

け当てられたものだったのかもしれない・・・―

しかし、京梧にはどうしても理解できなかった。

胸の奥が微かに痛んだが、それを無視して再び龍泉寺に足を向ける。

 

 

 

いつか、アイツを理解できる時が来るのだろうか・・・

何故だかそんな日は来ない、そんな気がした。

 

 

 

 

 

天に咲く花 弐章 完