四ノ章

 

 

 

涼浬は驚きを隠すことが出来なかった。

その横に立つ龍斗を、チラリと横目で見る。

先ほどのゴロツキとの戦いでは、思わず目を見張った。

確かにたいした力も無い雑魚ではあったが、それにしても龍斗の動きには全く

といって良いほどに無駄が無かった。

京梧も確かに強いとは思えたが、どこか無駄な動きが目立つようにも見えた彼

に比べ、最低限の動きだけで確実に相手の動きを止めていたのだ。

一体彼の何処にそんな力があるのだろうか・・

涼浬は思わずにいられなかった。

そして、茶屋でも行って一服しようと言う京梧達の言葉に、断りを入れた自分

に迷いもせずに自分もここに残る言った事にも理解が出来なかった。

涼浬は思い切って黙ったままの龍斗に声をかけようとした。

その時、幼い泣き声が聞こえる。そこで泣き声を上げる少女の姿。

どうやら兄とはぐれたらしい少女に姿に、思わず自分の姿を重ねる。

そう、今自分が追う人物。

誰よりも尊敬し敬愛していた。

にもかかわらず、里と自分を捨てて抜忍となった実の兄。

彼が里を出たと聞いたときは、ただ信じることが出来なかった。

それが事実だと理解した時、裏切られたと思った。

「お前を護るのが俺の役目だ」

迷いも無く自分にそう言った兄の言葉を、涼浬はどれほど嬉しく聞いたことか。

にもかかわらず自分を捨てた挙句、里長まで殺して里を飛び出したと聞いたと

き、自分の心が音をたてて崩れていくのを涼浬は感じた。

信じていた者に裏切られた、その時自分の心もまた壊れたのだと涼浬は思う。

「必ず・・・私はお前を殺す・・・奈涸」

自分に言い聞かせるかのように、涼浬は小さく呟いた。

少女の泣き声に、涼浬はようやく我に返る。

龍斗が不思議そうな顔でこちらを見つめている。

そして、この少女を王子稲荷まで送っていきたいと言う半ば身勝手な自身の願

いに、龍斗は快くうなずいてくれた。

涼浬には、何故かそれがとても嬉しく思えた。

 

 

 

 

 

 

訪れた王子稲荷で見つけた少女の兄は、妹とともに現れた涼浬たちを明らかに

警戒心のこもった瞳でにらみつける。

子供達を安心させる為に、自分達は幕府のものだという涼浬の言葉に、更に逆

上したように、少年は涼浬に向かって石を投げつけた。

まさかこんな幼い子供からその様な反撃を受けるとは思っていなかったためか、

涼浬が気付いた時は、既にその頭に石が当たると思われた。

その石は龍斗の手にあたり、涼浬には届く事は無かったが・・・

「緋勇殿・・・」

そして、子供を冷たい目で見つめ低い声で言う。

「子供といえど、幕府に反するは許されぬ行為。その罪を贖う覚悟はできてい

るのでしょうね?」

そんな涼浬に、少年はやや怯えたように後ずさる。

一歩前に踏み出そうとする涼浬は、しかし他ならぬ龍斗の腕によって阻まれた。

そんな涼浬に向かって、少年は声を上げる。

「俺は妹を、護らなくちゃなんないんだ。父ちゃんの代わりに。この命に代え

ても!!」

涼浬は正直驚いた。

これ程に幼い少年がこんなことを言うとは思わなかったのだ。

その瞬間胸を過ぎるのは、自分を護って傷ついた時の兄の姿。

そして、その横で龍斗は少年を、ただじっと見つめている。

龍斗はそっと目を閉じる。

『お前は必ず逃げ延びろ。俺が必ずお前を護るから。兄として・・・』

幼い記憶が甦る。

『俺はお前を護る。たとえこの命に代えても・・・』

そして誰よりも大切だった人の言葉。

兄として妹を護る義務があるのは当然だという少年に、龍斗は少し悲しげな瞳

で口を開いた。

「では、君に・・・残された者の痛みは解るのですか?」

幼い子供に言うにはどこかそぐわない。そんな龍斗の言葉に、少年は思わず唇

をかみ締めた。

そんな様子を見て涼浬は、あえて少年には何も言わず、代わりに横にいた少女

に優しげに語りかけた。

「あなたは・・・お兄さんの事が、好き?」

「うん。大好きだよ。」

満面の笑みで答える少女に、涼浬は微笑んだ。

そのまま王子稲荷に向かって走り去る子供を見つめながら、涼浬は龍斗に向か

って静かに語り始めた。

 

 

 

 

 

 

その日涼浬は新たな決意を胸に秘め、立ち上がった。

ようやく再会を果たした兄。

その兄を殺す為だけに、自分は今日まで奔走しつづけた。

しかし、兄の言葉は今まで盲目的に幕府を信じ込まされていた自身の思いを打

払うに足るものだった。

いや、たとえ兄の言葉が無くても・・・

涼浬は、思い出すように目を閉じた。

同じ公儀隠密でありながら、飛水とはあまりに違う龍閃組の姿。

そして、どこか悲しげな瞳をしたその人。

「龍斗さん・・・貴方は・・・」

小さく呟いて、そして昨日であった幼い兄妹が、去り際に残した言葉を思い出

した。

何者かによって救われた鍛冶屋は、新たに詮議をしなおし、そして事情が事情

だけにどうやら軽い罪で済みそうだと言う事を、涼浬は後に時諏佐から聞いた。

そして、あの混乱の中自分達の姿を見止め、駆け寄ってきたあの兄妹。

夕刻の出来事を素直に龍斗と涼浬に詫び、そして少年は龍斗に向かって言う。

「俺、ずっと命をかけることが、兄として当然だと思ってた。でも、兄ちゃんは言った。

後に残されたものの事を考えてるのかって。」

少年はぎゅっと目を閉じた。

「父ちゃんが処刑される前の日に、父ちゃんにあわせてくれた人たちがいて、その時父ち

ゃんは言ったんだ。俺達を護る為になら、どんな事だってするって。でも、さっき父ちゃ

んが殺されそうになった時思ったんだ。父ちゃんを大好な、俺や妹の気持ちはどうなるん

だって。これから二人で生きていかなきゃならない俺達はどうなるんだって。その時、初

めて兄ちゃんが言った言葉の意味が解った気がしたんだ。」

少年は決意したように強い瞳で龍斗を見据える。

「俺強くなる。命をかけなくても、妹を・・・大切な者を護れるくらいに。・・・

ありがとう兄ちゃん。」

龍斗は相変わらず無表情のままだったが、どこか穏やかな表情で、その手の平

を少年の頭に置いた。

少年は気恥ずかしげに笑う。そして気付いたように、やや不安げに問い掛ける。

「あの・・・手・・・痛かったでしょ?・・・ごめんなさい。」

しかし龍斗は、首を横に振る。

「これくらいは、たいした事ではないから・・・」

聞くものが聞けば、何処か冷淡にも聞こえるその口調が、優しさに満ち溢れていることに

涼浬は気付いた。

事実少年も嬉しそうに笑い、再び龍斗に向かって礼を言った。

 

涼浬はその時のことを思い出しながら、その手に中にある書簡を静かに見つめ直した。

そこに書かれているのは・・・

仮にもし否定されたとしても、自分は彼と共に戦う事を選んだかもしれない。

兄のように例え飛水から追われる身となろうとも。

もしもあの時奈涸を殺していたならば、自分は人として大切なものを失っていただろう。

兄は言った。自分は忍びとして死ぬ道よりも、人として生きる道を選んだと。

正直言えばその全てを理解できたとは思わない。だが、その兄と、そして龍斗がいたから

こそ、自分は大切なことに気付けたのかもしれないと涼浬は思う。

そして、彼の傍にいれば、兄の言った言葉の本当の意味が理解できるかもしれない、そう

思った。

しかしそれ以上に自分は・・・

「龍斗さん・・・私は、私自身の誇りにかけて、貴方と共に・・・」

小さく呟くと、そのまま龍泉寺の本堂に向けて歩き出した。

 

 

 

 

 

 

その晩、龍斗はいつもの場所に訪れていた。

思い出すのは先日の出来事。

かつては、あの鍛冶屋を救うために幕府と戦い、そして今は、その彼らと合間見えた。

『後に残された者の痛みは解るのですか・・・?』

それはあの少年に言った言葉。

何より龍斗には、残された者の苦しみを解っている。

しかし、自分がこれからやろうとしている事は、あの少年がやろうとしていることと多分

同じ事。

ただ、大切な者を護り、失わない為だけに。

骨董品店はこれから自分が引き継ぐと、涼浬が言った事からも解るように、自分が今歩ん

でいる道は、以前とは明らかに全く違うのだ。

甲州街道と、そして王子稲荷で出会った九桐。小石川で出会った御神槌。吉原で出会った桔梗。

そして奈涸。

その誰もが、龍斗を敵としてみているのだ。これから出会うであろう者たちも皆・・・

龍斗は胸を抑えその場にひざをつく。

何よりもその心が苦しかった。

―人と申すものは・・・

円空の言葉が脳裏に甦る。

そう、自分が今すべき事は、今の仲間達と共に戦い、彼らと心を分かち合う事。

やがて現れるであろう敵・・・

しかし、龍斗は知ってしまった。例えここで彼らと共に生きようとも、“彼”が死ぬ運命

だけは変えられ無い事を。

自分はその未来を変えるためだけに・・・

「ごめん・・・なさい・・・」

龍斗は誰に言うとも無く小さく呟いた。

「でも俺は・・・」

その龍斗の言葉は、吹き抜けた強い風によって掻き消された。

 

 

 

 

 

天に咲く花 四章 完