広島城コラム

広島城に関することを記載した個人コラムです。
金箔瓦についての情報は別ページに独立させました ⇒こちら


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コラムリスト
コラム1 広島城東側外堀の新聞記事等報道について
コラム2 福屋八丁堀店と広島城の意外な関係こちらへ
コラム3 真夜中に行われた広島城の発掘調査こちらへ
コラム4 原爆で広島城天守閣は焼けなかったこちらへ

コラム1 広島城東側外堀の新聞記事等報道について(解説)
2005.11.20
11月11日の中国新聞朝刊に、広島城東側外堀の石垣検出の報道がされていました。
同様のニュースは、共同通信社を通じて、全国にも発信されましたので、ごらんになった方がいらっしゃるかもしれません。今回の記事について解説しつつ、私見を述べたいと思います。
今回の記事のポイントは次のとおりです

中国新聞:@東側外堀の石垣西側が俗説より18M西で検出した。東側の検出は初A文化財団の発掘調査で見つかった、東側外堀の東側は未検出。B広島城は明治時代以降陸軍に接収され、明治時代末期に埋め立てられた。堀の幅は絵図などにより18M。C堀の位置は、専門家により見解が分かれていたが、今回の位置を推定したものから、市道にかかる位置と推定したものまであった。D現地説明会を12月17日に開く予定。E外堀の正確な構築時期は不明。

共同通信社:@東側外堀の石垣が有力視されていた位置より18M西で検出した。Aこれにより広島城の全容が解明されたB石垣は上部が撤去され、直径50センチの石を並べた下層だけが残っていた。C文化財団の発掘調査は3800平方メートルD外堀は遅くとも1619年には完成したと見られ、1910年には埋め戻された。

その他の新聞社:この記事をもとに、若干のアレンジがあります。

私も、この関連の取材に、共同通信社及び中国新聞社の記者さんに対してこれまでの研究などで考えられていた位置の紹介及び広島城の見解という立場で同一内容のころをお話して対応しました。もちろん発掘調査を担当した文化財課にも取材があったようです。今回は私が対応したことを、かなり詳しく解説をしたいと思います。
発掘の内容については、広島市文化財団文化財課が実施しています。その簡単な内容は広島城の発掘調査のページに記載しています。それでは、この発表について、私なりに解説をします。下線部はマスコミが記事として書いていないことです。


・広島城では、これまで外堀の発掘調査が実施されてきたが、これまで検出したことのなかった東側外堀を初めて検出したようですが、だからといって、東側の外堀の全容が解明された、と考えるのは時期早々だと思います。今回はあくまで、点が見つかっただけで、点が何箇所かに渡って検出されて、初めて外堀が市道よりずれていたことが分かると思います。
・堀の東側については、確認されていない。堀幅は分からないが、これまで絵図などに記載されている堀幅のとおり検出されたことが多い(すべてではない)。10間の堀幅、つまり発掘地点の約18M東に東側の石垣が検出される可能性が高いとは思うが、現状ではそれしか言えません。

・外堀が、18M西に堀が出てきたと報道されているが、この説明については、これまでマスコミが「ずれていた」という部分が強調され、全くの説明不足のようです。報道のなかでは、中国新聞の記事は、俗説より18M西と表現しており、比較的真実を語っていると思います。
では、俗説というものはどういうものなのでしょう。広島城の外堀は、明治時代の末期に埋め立てられるのですが、埋め立てられたあとには、道路だけでなく宅地として払い下げられたことが、市議会の記録などにも載っています。相生通りの場合、実際に旧相生通り(注:現在の相生通りは戦後に拡張されたものです)は外堀を埋めた後に宅地及び路面電車が通る道路になっていることは、発掘調査によっても、写真や絵葉書そのほかによってもよく知られています。そのため、われわれには、埋め立てられた外堀に路面電車が通ったという思い込みがあるようです
しかし、東側の外堀については、外堀を埋め立てたこと、同じく路面電車を白島まで通したことは知られていますが、相生通りに比べてそういった記録があまり残っていないこと、相生通りに比べてマイナーであること、今の白島線は現在地と異なることなどから、これまであまり研究が進んでいませんでした。また、現在市道と呼ばれるところが、戦前に白島線が走っていたところ(旧白島線は原爆以降、再び走ることはなかった)と同じかどうかすらもわかっていません。こういった思い込みと、研究の遅れが俗説を産むことになったと私は考えています。


しかし、広島市、広島市教育委員会、広島城や文化財課などでは、これまでの様々な記録・絵図・地図などを検証したなかで、元の東側外堀の一部が、現在の道路に入らないのはないか、という見解でほぼ一致していたように思います。ただし、それぞれの考え方によって、現在の道路の西半分くらいが堀、歩道までが堀など、様々な見解がありました。
一方、すでに堀は歩道の西にあるという考えを発表しているものもいました。当時文化財課(のち広島城)の学芸員が「広島城の規模を探る」(「歴史群像シリーズH広島城」学研1995内)という論文のなかで、「広島城之図」という旧陸軍が1877年に広島城(外堀まで)の石垣や土塁、建物などを精密な測量図の歪みなどを補正しつつ、元の堀などが現在のどこにあたるのかを検証した論文があります。ここでは、論文発表当時まだ発見されていなかった相生通りの位置を電車軌道の南側と正確に当てていますが、
ここでは、東側外堀を、「現在市内電車白島線が走る通りの、一方西の通りよりも道一本分程度西に位置するものと思われる。」と記載している。
また、戦前の航空写真や戦前の地図を見ると、旧白島線の道路の西側に宅地があり、その西に広島城の土塁と考えられる茂みがあります。被爆後の航空写真(最近精密なものが見つかり、細かな検証ができるようになりました)では、土塁の茂みは焼けて見えませんが、茂みの東側と考えられるところに南北に溝のようなものが写っています。その溝の西側は旧外堀のラインと一致すると考えられますので、いずれにしろ旧白島線よりは明らかに10M以上は西に位置すると思われます。しかし、これでは道路より西に位置すると言えません。なぜなら、旧白島線と現在の市道は同じとは限らないからです。しかし、これについては、戦前・被爆の航空写真に写っており、現存する建物を比較することによって解決します。それは、現在福屋八丁堀本店(当時福屋新館)です。それを見ると、旧白島線と市道はほぼ一致します(もしかしたら拡張している可能性もありますが、まだ私の検証は不十分です)。
こういった検証から、東側外堀の大半は、道路に入らないと広島城や文化財課の学芸員は考えていました。ですから、今回の発見は、18Mずれていたのではなく、予定通りに出て来た、もしくは思っていたより西側に出て来たと評価するのが妥当と考えます。
ある大学の城郭史の教授が、18Mずれていたとコメントしている新聞があるようですが、これはこれらの見解を知らない上での不可解なコメントと言わざるを得ません。


なぜ、堀を道路にしないで、堀の東側が道路になったのでしょう。実は、絵図や明治時代の絵葉書にもあるのですが、東側外堀の東側には道がありました(ちなみに南側外堀:旧相生通りにはありませんでした)。つまり、推論ですが、今回の発掘調査の結果、堀が道路にかからないとすると、埋め立てられた堀の跡の部分はすべて宅地となり、もとの道が旧白島線の道路となったようです。ただし、絵葉書と旧白島線を比較すると、道路幅が狭いので、拡張した可能性はあります。

広島城のパンフレットや冊子では、編集した担当者による微細な見解の相違、地図の縮尺の違いによる表現方法による相違などがありますが、現状ではパンフレットを変更する予定はありません。ですから、一部新聞記事にあるようにパンフレットの変更を検討してるというのは、明らかな誤報と言わざるを得ません。

以上のように、今回は18Mがセンセーショナルに扱われていますが、実際は、そこまでずれていたとは思いません。余談ですが、今回11月に発表していますが、6月ころに試掘調査をしているときにちょっとお邪魔したのですが、そのときから、石垣の天端が露出していました。なお、この石垣列は発掘調査のもっとも東端で、西側には広大な調査区が広がっています。これから寒くなり、発掘調査も大変でしょうが、広島城の侍屋敷の新しい発見を期待しています。

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コラム2 福屋八丁堀店の曲がりの理由は広島城?
2006.1.22
福屋八丁堀店が相生通りに対して曲がっている!という事実をより詳しく解説します。この事実とその理由については、私のオリジナルで、広島城の広報紙「しろうや!広島城」第5号で私が「歴史の小耳」として既に紹介し、また広島ホームテレビのローカル放送でも(私が出演して)放送されました。しかし、いずれも説明が不十分であったため、今回コラムとして文章を追加し、紹介します。
写真1 写真2 写真3
広島市内に在住の皆さんならばよく知っている福屋八丁堀本店(写真1、以下福屋とします)のデパートは、原爆前の1938年(昭和13年)に建てられた古い建物です。建物の前には電車通り(以下現相生通りとします)が通っています。一見道路と平行で接しているように見えますが、よく見てみましょう!北西隅から相生通りを東(広島駅方面)に向いて見てみると、少し曲がっていて、東に行くに従って道路から離れていきます(写真2)。普通、ビルや家は道路に接するように作られるのですが、どうして曲がっているのでしょう??? 実は、この曲がりは、広島城と大きく関係があるのです・・・・。
そこで、歴史をちょっと調べてみましょう。

★歴史その@:もともとは明治時代の終り頃(1911年)に埋め立てられるまで、広島城の外堀があった。

★歴史そのA:埋め立てられた外堀とその東の延長線上が道路となり、そこに翌大正元年(1912年)、路面電車が通った。その後、その通り(旧相生通り)に面した位置に1938年(昭和13年)今の福屋の建物を建てられた。
⇒@・Aを総合すると、旧相生通りは、広島城の外堀を埋めたので、外堀と旧相生通りは同じ方向を向いている(これは今後の説明に重要な事実なので、覚えて置いてください)。
ただし、堀を全部埋めたのではなく、北半分を宅地、南半分を道路(旧相生通り)にしたらしい。

★歴史そのB:1952(昭和27)年ころに、旧相生通りを広げて、40メートルの幅に拡張した現相生通りが完成した。

どうやら、「歴史そのA」の時に、道路に対してまっすぐ建てられていた(このことは戦前の絵葉書や被爆直後に撮られた写真などでも確認できます)福屋が、「歴史そのB」の時代になって、少し曲がったのではないか、と推測されます。・・・・とりあえず仮説とします。

「歴史そのA」の時代の道路が、「歴史そのB」の時代と比べて曲がったことは、昭和27年ころの拡張最中の写真を見れば確かに曲がっているように見えますが、証拠は不十分です。

そこで、曲がったことの証拠として、次の二つをことを説明します。いずれも広島城からみです。

一つ目は、紙屋町周辺で行われた発掘調査です。ここでは、外堀の石垣が出てきたのですが、その方向が現相生通りと違って曲がっていたことが実際に証明されました。今の地図を見てください。現相生通りの一本南の道と、現相生通りは平行ではありませんが、実は、この一本南の道は、旧相生通りとは平行です。一本南の道や旧相生通りは、城下町によって出来た碁盤の目のような道路の一部です。現相生通りが、城下町の道路を無視して作られたことはハッキリしています。
この向きは、福屋の向いている方向とほぼ一致します。  

二つ目は、昔の相生通り以前にあった外堀のある時代の正確な測量図面を手がかりとします。この地図は、1877(明治10)年に旧陸軍が実測した広島城之図(複写図は広島城蔵)には、広島城の櫓や外堀も書かれています。この広島城之図は、昔の広島城の位置がほぼ正確に測量されているということで、これまでも様々な研究に使われてきました。この図に、縮尺を合わせた現在の地図を重ね合わせてみることにしました。ただし、これだけでは、位置関係や向きが分かりません。そこで、現在残っている内堀などの遺構は、動いていませんので、このように現在残る遺構と重ね合わせることで、現在の地図上での昔の遺構の位置が分かります。それを重ね合わせると、やはり外堀の延長線上に福屋が位置します。

もちろん、一つ目で紹介した発掘調査によって分かった外堀の櫓台(一丁目口御門、真鍋御門、シャレオを建設したときに発掘調査したため、現在の地図上でどの位置にあたるのかははっきりしています。)や外堀の石垣列などと広島城之図を重ね合わせてみても、同様の結果が出ることがわかります。

ここで、さきほど仮説と考えたことが立証されたのではないでしょうか。
今の福屋は、昔の相生通りに面していましたが、現在の相生通りは、拡張したときに向きが変わってしまったのですね。
昔の相生通りは広島城外堀が背景にあった、そう!福屋のあの曲がりは、<広島城が原因>、広島城外堀が生んだ産物なのです。

つまり、こうなります。
福屋建設当時は、南側の外堀の延長線上に造られた道路の南側に福屋を建てられた。
⇒ところが福屋の前の道路を広げたときに道路が少し曲がった。
⇒そのため、今の通りに対して福屋の建物が曲がってしまった。

ということになります。

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コラム3   真夜中に行われた広島城の発掘調査
2006.5.6 
 現在、法務総合合同庁舎の敷地で広島城の発掘調査が実施されています。ここは道路ではなく、国有地なので、昼に、普通の発掘現場のように平面的に掘っていけば問題ないのですが、発掘調査の項目でも紹介したように、「城北駅北交差点」や「紙屋町付近」などの交通量の激しいところはどのように発掘調査を行ったのでしょうか。良く聞かれる質問です。結論から言えば、主に夜中に行われていたのです。それでは、どのような方法で発掘調査を行っていたのかを紹介していきます。
 紙屋町・大手町地点、つまりシャレオ(紙屋町地下街)の発掘調査が行われていたとき(平成8年夏〜平成9年冬)、私はその調査担当者の一人でしたので、そのときのこぼれ話を交えて紹介します。そういうわけで、主に紙屋町・大手町地点の出来事を中心に紹介します。
 両遺跡のモニュメントについては、内堀の外に残る広島城の痕跡をご覧下さい。
発掘第1段階 まずは遺跡の確認をする。
 遺跡があるかどうかを確認する上で、一般的な作業です。ところが、この現場の場合、堀を埋め立てて道路を作ったことが明らかなのに、シャレオ工事の計画の時には、石垣(文化財)の出土については、想定外だったみたいです。工事が進んでから、文化財の有無について、広島市教育委員会に照会をしました。そこで、立会をしたところ、石垣が確認されたのです。
 今では、この位置に石垣があることは周知の事実ですが、この時に確認するまで、本当に残っているのか、外堀の位置は相生通りにあるかどうかはわからなかったのです。
発掘の担当部署
 広島市の場合、遺跡の確認などの業務は、広島市教育委員会が実施しますが、発掘調査は基本的には市の外郭団体が実施しています。この発掘調査は、広島市歴史科学教育事業団文化財課(現:広島市文化財団文化財課)が実施しました。
発掘第2段階 杭打ちの立会い
 ここからが、普通の発掘と違うところです。ここの場合、東西400Mほどの道路を掘るのですが、日中は通常とおり電車・車の通行をしながらになりますので、全部掘るわけには行きません。そこで、まず何箇所か杭を打ち、(家でいうと柱みたいなものです)、その後覆工板で道路に蓋をして(発掘では下の第3段階)から、中を空洞にして工事が進められるようにします。その杭打ちを実施するのですが、文化財の発掘はその杭打ち地点(とその周囲)にある遺構を立ち会って確認します。ここで確認する遺構は、ほとんどの場合石垣です(他のものもする必要があるが、すべてをしていると間に合わないため)。これらの作業はもちろん夜間です。
 ここでは、部分的にしか調査をしませんので、どこをしているのかわからないことが多く、大変でした。毎日午後10時に道路を通行止にして実施しますが、それからアスファルトを剥ぎ、掘っていきます。発掘作業は、ここで働く土木作業員にお願いします(通常の発掘と違う!)。測量の必要が生じた場合、一度真砂土で埋めてから、再度同じ箇所を掘り返して、測量をします。また、朝の通行止め解除までに間に合わせるため、3時すぎを目処に埋め戻す必要があるため、作業時間が非常に難しくなります。また、1時まで深夜バスが通ることがあり、作業に支障が出る場合もありました。
発掘の勤務体制
 発掘調査の職員は、通常は午前8時半から5時過ぎまでの勤務ですが、発掘担当者は午後8時半から5時過ぎの勤務へと12時間変更になります。また、職員も毎日夜勤では苦しいので、担当職員を入れ替えていました。通常2人で、一度に入れ替わることのないようにローテーションを組んでいました。そういうわけで、自分の現場でも、見ていない遺構とかもあったりするので、相互の連携が非常に重要になってきます。
発掘第3段階 桁設置の設置・覆工板設置の立会い
杭の打つ箇所の調査が終わると、しばらくは杭打ちの作業のため、発掘調査は中断です。杭打ちが終わると、いよいよ覆工板をかけるわけですが、そのためには杭同士を桁でつないでいく作業があります。桁をかけ、かけたところに覆工板をつけると、道路面から1Mくらい掘り起こす必要があるので、その部分に石垣がないか、を確認します。近代の石垣列?などもあったように記憶していますが、石も少しは露出していました。ここでは、調査というより、立会に近いもので、1夜に何箇所か実施するが、石がでなかったら、作業終了。しかし、表面から土を少しずつ機械で剥いで行って、石にあたったら、ストップし確認、指示が遅れると、石が動いてしまう、という非常に難しい立会です。
ここでも時間がなく、作業員もあせています。
発掘調査の工区
 このシャレオ工事は東西400Mと南北200Mですが、南北の方は遺跡がでる可能性があるにもかかわず、何も実施しませんでした。また、東西については、西側は国道、東側は県道になり、またJV(企業共同体)も違うため、管轄も違うし、工事の行程、やり方も全然違います。発掘調査といっても東西にわかれて別現場という扱いでしたので、場合によっては、各2名、合計4名がここで発掘調査をしていました。西工区より東工区の方が丁寧な発掘調査が行われたと思います。
発掘第4段階 覆工板をはずしての発掘
 覆工板は、道路に置かれた蓋なので、これをはずせば、下の土が見えるということは、上から発掘調査ができるということになります。これまで、毎日表面のアスファルトをもいでいたことを思えば時間的には5分で開け閉めができるので、10時すぎから4時過ぎくらいまでの発掘ができるようになります。
 ここの石垣は、大体道路から60CMくらいに石垣の頭が見えますので、上からの作業が可能です。この頃になると、これまでの発掘から、石垣列の延長線上など、遺構の出土地点がほぼ想定できるため、想定地点は慎重に掘っていきます。もちろん想定外の箇所から出土することもありますし、想定のところに何も残っていなかったりしますが・・・
石の場所を慎重に確認し、上や石垣面手前にある土をとっていきます。堀の土を取る場合には、そこに陶磁器などのかけらがないかも確認します。ここでは、一度とった土を埋め戻しする必要がありません。ただ、土を掘り進むと、水がたまりやすくなるので、水抜きが必要になります。
 こうやって夜間に調査をし、ある程度石垣が出てきたら、後日まとめて測量をします。
なにしてるの?
 この発掘調査地点、ご存知のように広島の繁華街。八丁堀ほどではありませんが、夜には飲み会帰りの人が多数通ります。工事の場合、あまり気にもされないのですが、この段階の発掘調査は石垣が見えていたり、いかにも調査をしているような状況だと、見学をする人が時々のぞきに来ます。「これは何ですか?何してるのですか?」の質問攻めです。広島城の外堀がこの辺りまであったことや、発掘調査をしていることを説明すると、ほとんどの人がびっくりしていました。知り合いにあったりもしました。
 一度、工事の取材でTSS(テレビ新広島・フジTV系)の神田アナが取材で来たことがあります。神田アナもびっくりしていました。「おおー毛利元就が見える」とマイクで叫んでいました(もちろん毛利輝元の誤り)。そのときの取材が「働くお父さんを励ます」とかいう企画で、チアーガールが現場で踊り、励ますとかいうものでした。後日顔がUPでテレビに映り、職場では隠し子騒動が巻き起こりました(そのときは独身)。
発掘第5段階 覆工板下での発掘
 覆工板をはずさずに、実施する作業です。道路上を車が通行しても発掘調査ができるので、夜にする必要はなく、昼に実施します。下の写真のとおりで、ここからは楽になりますが、逆に完全に閉め切っているため、土を掘削すると、空気が悪くて大変です。また、天井に近いところは、覆工板をはずさないと何もわからないため、そのときだけ夜に調査をします。もっとも、路面電車の通るところにある覆工板ははずせないため、測量ができないのですが・・・

以上で発掘調査終了、あとは苦しい報告書作成が待っています。こちらも締切前には夜間作業もあったような記憶が・・・
寒い!暑い?
 発掘は、基本的に工事の実施の有無により実施の可否が判断されますので、大雨とかの場合は実施しません。小雨決行、土日祝及びお盆・正月以外は実施します。暑い寒いの天候は関係ないので、1年半も発掘調査をしていると、いろいろな天候があります。夏の暑いのも、都心で空気が流れないので、大変ですが、やはり夜なので、大変なのはなんといっても冬!防寒着などを着こんでも寒い。作業員は作業をしていますので体を動かすのですが、こちらは基本的には立会い、指示などが中心になるので、とてもガマン出来なくなるときがありました。
広島城外堀 壱丁目口御門東櫓台

広島城のいわゆる大手門の東側櫓台。左手奥には土橋が見える。これらの遺構は西工区で発掘された。
この櫓台の西側の櫓台はあまり残りがよくなかった。ここがもっともよく残っていて、一般に説明が非常にしやすい。

このプレートは県庁前の地下街にある。詳しくはこちらへ

現在の紙屋町西交差点、この下に、上の写真の櫓台があった。ちょうど、右手に見える電停の真下辺りで、この櫓台の上に登っていると、覆工板の真上に居る人の話し声が聞こえてきた。ただし、完全に上からは遮断されているので、人は見えませんが・・・

コラム4   原爆で広島城天守閣は焼けなかった
2006.8.6 
 しろうや!広島城第8号の「教えて博士」のコーナーに、このことについて簡単にまとめていますが、紙面の都合で詳細については記載できていません。ここでは、天守閣と原爆について、より詳細に記載したいと思います。
明治維新により、役目を終えた広島城は、天守閣や中御門、二の丸表御門など主要な建物を除き取り壊され(もしくは焼けてなくなり)、城はほとんどが軍用地となり、本丸内には日清戦争の折に大本営が置かれていました。天守閣は、昭和6年に国宝に指定されていました。
戦争が激しくなると、兵舎が少なくなり、天守閣内に数週間兵隊が寝泊りしていたようです。証言や書籍によると、原爆直前の昭和20年5月ころに、天守閣に電線を引き、1−3階までを兵舎にして毛布を持ち込んで寝泊りをしたことがあったのですが、2週間で終わったのは、新しく赴任した中国軍管区司令部の松村参謀長が、天守閣が空襲の標的になりやすいとも、国宝に失礼だとも言われています。実際に寝泊りした兵隊は50−60人くらいだったらしいです。やがて8月6日を迎えます。
8月6日午前8時15分、原爆が広島に投下されます。広島城天守閣は、爆心地から1キロメートル(多分970Mくらい)の位置にあり、爆風によって主に北及び東側に倒壊し、延焼は免れました。「広島原爆戦災史」第2巻によると、城の北側の陸軍幼年学校内に分室していた軍医部に出向していた増本春男衛生上等兵は、大八車をひいて、幼年学校の校門をでたあとに閃光を浴び、30メートル吹き飛ばされ、「モウモウと舞い上がる砂塵のなかで、息のつまるような一瞬、聳え立つ5層の天守閣の崩れ落ちるもの凄い音が聞こえてきた。それはちょうど山頂から無数の材木が一度に転げ落ちてくるように、ドドドド・・・と不気味に地面に響き伝わった」と語っています。また、その他の証言などから、このときの広島城天守閣の情景として、浮き上がるようになって崩れていったと考えられています。木造の天守閣の材木は北側及び東側へ崩れ、倒壊材が散乱しました。また、北側の内堀に崩れ落ちて、また詳細は不明であるが、もっと遠くに飛ばされた(らしい)。東側に崩れ落ちている状況は、今でもいくつかの被爆写真によってその様子を知ることが出来ます(広島城天守閣ショップで100円にて販売している「お城ってなあに」にも、このうち1枚の写真を掲載しています。また、平和記念資料館で開催中の企画展でも、展示されています)。
天守閣の崩れた木材は、のちにバラック(家)の柱や、薪として復興の目的に使われたらしい。天守閣の廃材を復興の用途に使用 広島城の廃材については、その後しばらくは風雨にさらされていたが、廃材を柱にして住宅に使用したり、記念に拾ったりしたケースもあったようで、また薪に利用したりしたようである。また、「広島城400年」によると、広島城の廃材を一括して製塩業者へ売ったという話しも伝わっています。いずれにしろ、広島城旧天守閣の倒壊材は、今ほとんど残っていません。
もし残っていれば、旧材を使用して木造天守閣を復元することが出来たのですが、原爆の被害という広島での特殊な事情によって、そのようなことは出来ませんでした。現在の天守閣は、木造天守閣とほぼ同様の大きさで、広島復興のシンボルとして復元されたものです。
(おまけ)
一方、二の丸の表御門や中御門は原爆により炎上、石垣には今でもそのときの焼けた跡が残っています。大本営跡も上屋が倒壊し、広島城内の軍は、爆心地から近かったこともあって壊滅状態となりました。当時護国神社にあった中国軍管区司令部の建物も崩壊し、その前に今も残る半地下式の防空作戦室は、かろうじて崩壊を免れ、焼け残りました。


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