広島城の金箔瓦について

情報が増えましたので、独立させました。

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広島城の金箔瓦について 発見速報
2009.3.5    
2009.3.18追加 
広島城の金箔鯱瓦が出土したというニュースが3月5日に報道されました。この発掘については、私も直接関わっているわけではなく、発掘については少し知っている程度で詳細のコメントはできませんが、あくまで一般論を中心に広島城の金箔瓦について少し説明をしたいと思います。
(1)広島城での金箔瓦の出土事例とは
これまで、広島城の発掘調査では、つい数年前まではわずかに金箔の残る、小規模での金箔瓦しか見つかっていませんでした。
しかし、平成15年に発掘された太田川河川事務所地点では、これまでの広島城での調査事例をはるかにしのぐ量の金箔瓦が見つかりました。
そこでは、軒丸・軒平瓦が主で、紋は松皮菱紋の軒丸瓦と桐紋のしかでていません。また、鯉の形の瓦もでてきていますが、これは1点のみです。
この太田川河川事務所地点、実は、広島城の外堀の京口門に近い場所に位置し、天守閣から非常に離れている場所にあります。調査担当者である福原茂樹氏は、本丸などでは出土例がないにもかかわらず、かつて講演(詳細は こちら )で、城のはずれで金箔瓦が出土した理由について疑問を呈するとともに、いくつかの推測をしています。
ちなみにその瓦の一部は、3月22日まで「甦る広島の遺跡」と題して広島県立歴史民俗資料館で展示されていました。HPでは画像をみることもできます。くわしくはこちら
(2)今回の場所と発掘調査について
広島城の発掘調査は、かつては広島市もしくはその外郭団体、広島県などが行っていましたが、今回は民間の団体(株式会社パスコ)が実施しています。今回の発掘地点の隣の司法書士会館地点(現地説明会は こちら) も同じ民間の団体が実施しました。ここでは、近世の遺構はあまり発掘されておらず、中堀や土杭、溝や井戸の遺構が見つかりました。この東側が今回の発掘調査区域で、合同庁舎へ入る正面の道路の西側になります(中国新聞の位置はやや東すぎ)。ここは近代は歩兵第十一連隊の敷地で、発掘調査区域のちょうど中央を旧広島城の中堀が通っており、想定どおり堀跡が発掘されたようです。井戸は中堀の外側(つまり東側)にあり、この井戸の中からでてきたのが、金箔の鬼瓦及び金箔の鯱瓦です。
(3)今回の発掘と瓦について
今回は、他の遺物や現場は見ましたが、金箔の瓦は直接見たわけではないので、何ともコメントしようが無いのですが、@井戸から一緒に出てきた出土品は古そうなものが多かったこと、A広島城と同じ時期に作られた全国の城から、同じような金箔の瓦が出土していることなどから、毛利氏時代と考えもよいのではないでしょうか。鯱瓦については出土例は少なく、また鬼瓦も含めて今後分析の必要があります。井戸から見つかったということで、どこで使用されていたのか(本丸櫓?二の丸・三の丸櫓?)、井戸から見つかった意味(儀式的?埋納?)についても検討する必要があります。
(3)金箔瓦の研究と織豊期城郭研究会の考え方
豊臣秀吉と金箔瓦について少し記載しましょう
織豊期城郭の研究では、共通点としては、「発達した枡形や馬出、虎口」「高い石垣のある城の縄張」「金箔瓦を葺いた礎石建物」などがあり、こうした金箔瓦は、豊臣氏が許可したものであるという見解が主です。広島城の場合、この研究会によれば秀吉が支配下の大名に金箔瓦が葺かれることを命令もしくは認めるという考えが成り立ちます。また、築城に関しても秀吉の影響力を大きくみるところに特徴があります。ちなみに、金箔瓦の出土例は40城ほどあり、その共通点は徳川家康に対する金箔瓦包囲網であること、岡山城、広島城、金沢城、会津若松城は豊臣中枢の城として軒丸・軒平瓦まで金箔であるようです。今回もそうした織豊期城郭のなかで広島城の研究が進むかもしれません。その第一人者が、本日新聞に載っている中井均さんです。ちなみに三浦正幸先生は城郭建築の第一人者で、先生の研究はいろいろな示唆を与えてくれます。3月18日の中国新聞13面の文化欄には、三浦先生の見解が述べられています。興味のある方はぜひご覧になってください。
参考織豊期城郭
 織田信長と豊臣秀吉の城を、織田の「織」と、豊臣の「豊」をとって、織豊(しょくほう)系城郭(あるい織豊期城郭)はなどということがります。昔はこの時代のことを織豊期と呼んでいたようですが、一般的に教科書などで知られている安土桃山時代(安土は織田信長の、桃山=伏見は豊臣秀吉の城)と同じ意味になります。
終わりに
今回もこうした発見により、今までにない広島城、とくに毛利氏の姿を検討しなければなりません。井戸、それもかなり大型の井戸で発見されたこと、井戸からでた意味、金箔のほかの事例、など今後調べていくことは山のようにあります。すぐに決め付けず、いろいろな研究との比較対照が必要でしょう。今後の研究を期待しています。


広島城の金箔瓦について 発見から報告会まで
2009.5.30    
2009.6.18   
2009.11.12追加 
追加
5月30日1面付け中国新聞に、これからの動きが紹介されています。前回もそうでしたが、中国新聞が先駆けて取材をしているようで、保存修復者のコメントも載っています。
くわしくは、記事を読んでいただいたらわかりますが、いくつかの工程に沿って慎重に保存処理を行ってます。一流の保存処理能力をもつ研究機関によって十分な修復がなされることでしょう。あわてずに待ちましょう。広島城でも公開の場所や時期などについてよく取材がありますが、正直何もわかっていません。(2009.5.30)
追加2
6月10日のTSSの報道では、「広島の宝」・歴史ロマンといった表現で紹介されていました。
以下、TVの報道をもとに紹介します。

・調査を行ったパスコ主任調査員の伊藤さんのインタビューで、1月26日に発掘されたときの状況を再現(過去のVTRを編集のよう)
・現在の保管状況を紹介、京都科学(文化財修復会社)の映像が流れ、水につかっている資料を紹介。
・広島市が文化財保護法にもとづき、透明樹脂で資料を保存し復元する。復元作業終了後広島で公開
・安土城考古博物館を取材、安土城の最初の金箔瓦を紹介
・広島大学の三浦教授にインタビュー、毛利輝元がつくり、福島正則が屋根から下ろしてしばらく野ざらしにしていたものを浅野長晟が生めた、と説明
・広島のものは(安土城のものが完全ではないので)完全に残っているものとしては日本最古
・金箔瓦は、織田信長が始めた天下統一の思想が広まっていることを象徴する、きわめて政治的にも歴史的にも重要な価値のあるもの
・伊藤さんによれば、(水につかっていて残っていた)漆の赤はカープのチームカラー 燃える赤を連想する とのこと
鯱瓦の構造・公開について
中国新聞2009年11月12日朝刊によると、金箔鯱瓦は4分割構造であることがわかったと書かれ、「過去の鯱瓦は上下2分割であること」「初期の鯱瓦を知る手がかり」などといった三浦先生のコメントなども載っています。また、ここでは、「金箔瓦は秀吉が大阪城に使い、支配下大名もが認可制で使用を求めた」という一説が通説とされています。
また、公開の日程について、11月30日〜12月6日まで広島城で公開されます。 詳しくは公式HPまで

また、公民館などに配布されているチラシによると、発掘調査成果報告会を行います。申し込みは往復はがき・11月21日締め切り、申し込み先は株式会社パスコ(発掘調査を行った会社)の広島支店で、パスコのHPでも申し込みができます(終了)。

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広島城の金箔瓦について 報告会から展示
2009.11.30
報告会
昨日、11月29日日曜日、中央公民館において報告会がありました。詳しくは中国新聞2009年11月30日朝刊にも載っていますが、私の途中からですが、(仕事で)見に行きましたが、全体的な印象として「(発掘調査報告刊行前の)現段階でいえることをわかりやすく紹介した」報告会でした。鯱の詳細を分析すると、製作方法が異なることが分かり、地元の職人が作った可能性があると指摘していました(⇒そのため「広島産」とタイトルがある)。なお、新聞の紹介記事には城主が埋納したと紹介されていますが、報告会ではそうしたコメントはありませんでした。詳しくはまた紹介します。
なお、報告会では雌雄一対のうち雌(あごは今回は展示しない)と、板屋貝がデザインされた鬼板の2点を見学できました。本日11月30日から12月6日まで広島城で特別公開します。
(2009.11.30)
展示が始まり、新聞社・テレビ局が沢山取材がありました。
30日昼から夕方にかけてテレビが、新聞は朝刊に掲載されています(すべて確認しているわけではありませんのであしからず)。ネット記事でもいくつか見ることができます。
(2009.12.1)

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広島城の金箔瓦について 展示終了後
2009.12.25
中国新聞の12月25日朝刊の「中国地方2009年回顧歴史・文化財」の代表的な「貴重出土」の1つとして、金箔瓦が紹介されています。「広島城の瓦は地元の制作と見られることから、輝元が豊臣政権に服従しながら、自らの権力誇示を意図したとの見方も浮かぶ」と表現しています。(2009.12.25)

(※注)発掘担当者は、報告会において一対の鯱は制作方法が異なることから、片方は地元産ではないかと発言していました。
2010.1.29
広島市中区の広島東南ロータリークラブ(RC)が、金箔鯱瓦の雌雄1対のレプリカを広島市に寄贈するという話が中国新聞に掲載されています。
2010.2.2
2月1日、中区のホテルであった広島東南ロータリークラブの創立50周年記念式典でレプリカを披露し、秋葉広島市長に目録を贈った。記事などによれば、市は実物とともに、広島城に常設展示すると書かれています。レプリカは高さが雄約75センチ、雌約70センチの実物大。プラスチックにアクリルで着色、質感や汚れなどを実物以上に忠実に再現したということらしいです。製作費は、一緒に出土したイタヤ貝の飾りが付いた鬼瓦のレプリカと合わせ1千万円。会長さんは「実物に迫る出来栄え」と話しているそうです。
2010.2
ひろしま市議会だより230号に金箔瓦に関係して、12月定例会・本会議の一般質問で掲載された情報が掲載されています。市議会議員の質問内容としては、「金箔瓦は貴重な出土品なので、鯱瓦とあわせて広島城を創建した毛利輝元や次の城主福島正則など歴史上の偉人を顕彰し観光客を呼び込んでは」というもので、それに対する答弁が書かれています。
2010.3.17(情報更新は5月)
「金箔鯱瓦11月公開」と中国新聞広島市民版に掲載されています。新聞記事には5月後半公開の情報書かれてなく、11月までに公開しないとも書かれていませんが、11月まで公開しないと思ってしまうような内容でしたので、このHPでは内容をあえて伝えていませんでした。ただ、今内容をよく読むと「雌雄そろっての展示は初」と言った誤り(実際の初公開は5月29日から6月6日まで)もあります。
また、11月公開というのは、広島城の公式HPにも出ている通り、平成22年11月13日から12月12日までに開催される広島城の企画展「金箔瓦の系譜(仮称)」のことです。また企画展の借用先がこの記事には書かれています。企画展開催半年以上前に具体的に出ていること、また借用物を展示するではなく「飾る」という表現からしていることなど、記事の記載内容が通常とは異なります。

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広島城の金箔瓦 展示
2010.5.13
金箔瓦及びレプリカを5月29日から公開します。今回は雌雄両方展示するということ、レプリカをあわせて展示するということが初です。展示は6月6日までの期間限定です。13日の中国新聞には掲載されていませんが、初日は広島城メモリアルデーというイベントが行われており、イベント開催中(10時から4時まで)はガイドが予定されています。
5月12日の広島市のプレスリリース(広島市のHPで公開)でも同様の情報が出ています。
2010.5.30
広島城メモリアルデーの金箔瓦の展示がはじまり、10時から16時には解説にボランティアの協力を得て行い、大盛況で、本日の中国新聞にもその様子が紹介されています。そのほか、いくつかのマスコミ報道がありました。なお、6月6日の最終日には午前11時から午後2時から展示解説があります。
2010.5.30
金箔瓦の展示が昨日から始まりました。発掘からしばらく時間がかかったのは保存のための化学処理と調査研究(発掘調査執筆など)を終えたためで、今回公開する金箔瓦等は金箔鯱瓦雌雄・鬼瓦の3点とそれぞれのレプリカ、金箔のない鯱瓦です。
以下展示キャプションの内容を中心に紹介します。金箔鯱瓦はそれぞれ胴体・上あご・左右の下あごの4つの部品による組合せ式 で、Aが牙の数が多いからオス、Bをメスを表現していると考えられているそうです。作り方や金箔の特徴から、毛利氏の時代に作られたと考えられていると紹介しています。また、広島地方産の粘土を使っていることがわかり、地元産と考えられるとしています(11月では可能性と言及していたので一歩前進)。また、鬼板瓦(鬼瓦)は板屋貝という貝がかたどられています。鬼瓦は、金箔のはげ具合から、鯱瓦とセットで屋根に吹かれていたと考えられます。 この三点には、レプリカが初公開で展示されています。広島東南ロータリークラブの寄贈によるものですが、当初の形と色彩に復元されており、実物と様子がかなり異なります。また、金箔を施されていない鯱瓦C・Dは金箔鯱瓦よりやや小ぶりですが、(分割ではなく)一体形成で作られています。こちらも牙の有無から、Cが阿吽の 「阿」でオス、Dは阿吽の「吽」でメスとしています。金箔瓦と同様に毛利氏の時代のものであること、広島の粘土を作ったと考えられいます。実物の展示は以上ですが、写真パネルが紹介され、@井戸跡、A金箔瓦出土状況B同じ・背中合わせでAB出土C鯱瓦出土状況D井戸跡の様子の発掘調査中の写真が紹介されています。井戸枠に使われていた竹製のクサビを分析した結果、この井戸は1610年頃に作られたことがわかったとしています。


広島城の金箔瓦について 展示終了後
2010.6.7
展示終了後、広島城ではレプリカを展示しています。(2010.6.7)


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