2、海田湾周辺の古墳

古墳時代は、河内に多くの巨大古墳が築かれた5世紀前半を中心に、3世紀から7世紀にわたる時代ですが、これらの巨大古墳を築いたヤマト王権の影響を受けて各地で古墳が築かれます。
古墳の築造はヤマト王権の文化が広まったということになりますし、その地域の生産力を象徴します。

安芸と備後でも多くの古墳が築造されていますが、図ーAに示すように、備後地方に圧倒的に多く安芸地方には少ししか確認されていません。(安芸の中では太田川中流域と賀茂台地に大きな古墳が確認されています。)



そのうち、海田湾周辺の主な古墳を下記と(当時の地形をシミュレーションした)図ーBに示します。 いずれも古墳時代中・後期の5世紀から7世紀にかけて築造されたもので、小規模のものですが、古墳の位置は交通の要衝に近いことを、その規模や副葬品は被葬者一族の権力や財力を示しますので、当時のこの附近の人々の活動の一端を想像できます。

海田湾周辺の古墳 ①矢野・西崎古墳
②温品・須賀谷古墳
③矢野・西尾古墳
④矢野・丸子古墳
⑤矢野・狐ヶ城古墳
⑥海田・小請山古墳
⑦船越・新宮古墳
⑧矢野・北尾古墳
⑨矢野・千古古墳
⑩府中・上岡田古墳
⑪府中・道隆寺古墳
⑫海田・畝観音免古墳
⑬海田・西谷古墳
⑭船越・岩滝山古墳
⑮畑賀・中須賀古墳
⑯畑賀・こもり塚古墳

古墳の立地点は、その附近にかなりの広さの平地があり、農耕を基本とした相応の規模の集落が存在していたと推定されます。これは、弥生時代以来の集落が、耕地化の容易な小河川の扇状地から開拓されていった結果です。

既に破壊されていて詳細不明ですが、府中町の八幡と鹿篭にも古墳が遺っていたようです。図ーBに八幡と鹿篭の該当地点も加えると、海田湾から府中湾に連なる交流圏を想像できます。
瀬野川流域には、図-Bの範囲を外れてもっと東に、中野・成岡古墳、中野・大師堂裏古墳、上瀬野・坊山古墳群もありました。

海岸近くに位置する「矢野」と「船越」の場合は、農耕以外に海と陸を仲介する交易の拠点だった事が推定できます。 すなわち、「矢野」の場合は矢野川を上って「熊野」の広い農業地帯への、「船越」の場合は瀬野川流域への交通の結節点です。

船越・新宮古墳については、1978年に調査の結果、副葬品の多くは既に盗掘されていましたが、硬玉(ヒスイ)製勾玉や銀環など他に例の少ない装身具や須恵器が確認され、「この古墳の被葬者は特殊な地位をもって共同体を統括した族長であった(船越町史)」と推定されています。副葬品から推測される財力だけでなく、大きな石室を築造するために専門工人を招き多くの村人を動員できる権力も持っていたことが言えます。(見方を変えれば、瀬野川流域を支配圏とする有力者にとって「船越」は海への出口・窓口だったかもしれません。)
新宮古墳の被葬者の交易圏は瀬野川流域だけでなく府中・温品方面まで及んだかもしれません。「船越」からの道のりは、北東の畑賀川までと北西の榎川までとがほぼ同じです。

井口村史(1992年)は次のように紹介しています。
「こうした豊富な副葬品を持つ古墳がこの時期可耕地の少ない広島湾東岸一帯に集中するのは海を背景とした勢力を持つ集団の存在を想起させるものであり、中でも新宮古墳はこれらの集団を統治する***」


なお、広島市域全体の古墳分布については、広島市未来都市創造財団文化科学部文化財課ーひろしま昔探検ネットを参照してください。

参照資料:  広島県史(1980年)、海田町史(1985年)、府中町史(1979年)、矢野町史、船越町史(1981年)、史跡で読む日本の歴史②、井口村史(1992年) 、
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