3、古代山陽道と船越・海田、


古代山陽道 古代の律令制の下で駅伝制と呼ばれる通信・交通制度を定めています。元来は、駅制は情報を伝える通信路、伝制が国司などの官吏の移動のための交通路でしたが、混用や制度の疲弊などで実態は不完全なものだったようです。

庶民にとっては縁の薄い存在ですが、その経路は当時の地理を考える上で参考になります。駅制の最も重要な目的は急使の馬を走らせることでしたから経路沿いの地形条件は重要です。 各駅家には常時20匹の馬を待機させ、そこで馬を交替させて次の駅まで走らせました。 急使は1日に10駅、距離にして100km以上は走ったようです。

近代以前、西国から畿内への通常の人と物資の輸送は、陸路よりも瀬戸内海を利用した海路が圧倒的に便利だったのですが、速いことが求められる急使は馬を走らせるのが唯一の手段でした。(8世紀に編纂された万葉集でも、安芸国の瀬戸内海沿岸や島を題材にした歌は10首ほどありますが、陸地での歌はわずかに2首しか確認できません。人の移動には海路が主であったからです。)

この駅伝制は10世紀始めに延喜式によって整理されていますが、そこに記す地名から駅家の位置が推定され、一部は発掘により確定されています。駅家をつないでその経路も様々に推定されています。
この付近にあった駅家の位置としては、「安芸駅」が府中町の「下岡田遺跡」と確認され、その東の「荒山駅」は旧中野村にあった「荒山」だろうと考えられています。

さて、「安芸駅」と「荒山駅」の間は、どの経路をとったのでしょうか?
基本的には2案考えられます。入手できる資料では「荒山駅」の位置が特定できませんが、仮に「JR中野駅付近」として経路を比較してみました。

経路Aは標高195mの甲越峠から畑賀を経由するもので、経路Bは船越・海田を経由するものです。

古代山陽道 国土地理院の地形図(大正14年測図)を基に、それぞれの経路を赤線で描き、経路の断面図も加えました。(峠の最高点の海抜は、古代には現代よりも数m程度は高かったと思われますが、比較の上では影響しないので現代の海抜高度で表記しています。)

経路Aの方は道のりで約6.8km、短いけれど、途中にある標高195mの甲越峠が問題です。谷筋・尾根筋を辿る山道ですから起伏・屈曲が多く、しかも木が茂った急坂ですから、走ることはもちろん歩くにも難渋します。峠の上り下りに時間を要するでしょうから、平坦部分を走ったとしても、この間の所要時間は1時間近く要します。天候と季節、時間帯によっては、この峠道はさらに通りづらい経路になります。坂道の急勾配なだけでなく、人口の希薄なこの時代に、繁茂した草木を刈って人馬の行き来に支障の無いように維持する事も大変な負担です。この経路は人跡疎らなところが長いのです。

経路Bの道のりは約7.9kmですが、大部分が平坦地で馬を走らせることができるので30分程度で到着できます。この経路沿いには弥生時代・古墳時代の遺跡が点在していて古くから人々が活動していたことが確認でき、点在する集落をつないでいるので保守が容易です。
(官使を乗せた馬の走る速さを時速20kmとし急坂は歩くと想定していますが、実態は、縮尺の大きな地図や車道の整備された現代の地図で比較しては違いがわかりません。)

比較して明らかなように、急使の目的からして古代の山陽道は船越・海田を経由するのが合理的です。

荷物を負って歩いて行き来する場合でも、標高差200m近い峠の上り下りは、同じ道のりの平坦地を行くのに比べ15分程度は余計に時間を要しますから、平坦な経路Bの7.9kmと経路Aの6.8kmとは、所要時間はほぼ同じです。
現在も昔の経路から多少は外れながら舗装した道がつながっていますので、実際に手ぶらで歩いてみると、いずれも所要時間は約100分で、ほぼ同じことが確認できます。
歩いての所要時間が同じで、走り易い経路Bが駅制の経路として有利です。

「古代山陽道は畑賀・甲越峠を通っていた」と述べる説をよく見かけますが、合理的な根拠はありません。
おそらく、甲越峠の険しさの無知・軽視により単純に道のりの短い方を選択されたのでしょう。「古代山陽道」は、人や物資が行き交う運送路ではなく、急使を走らす通信路だったのですから、そういう視点から経路を考えるべきです。
「安芸駅」の跡と推定される「下岡田遺跡」以外には駅舎の遺跡が確認されていないのも、古代山陽道の各駅の実態が、馬の乗り継ぎ以上の機能を持っていなかったからです。

注記:
荒山駅と安芸駅との間の経路に関する諸説は、書評6古代山陽道の経路に関する諸説を、
船越峠と市場坂の間の経路は西国街道の図をご覧ください。


安芸駅(府中)から西へ向かう経路が大きく北へ回り道をし、太田川を渡って安川の谷筋を辿っていますが、その理由は単純です。

安芸駅から伴部・大町を経て種箆(へら)までは、道のりで約30kmですから馬で走れば約2時間です。
一方、沿岸沿いに行くと道のりとしては20km弱ですが、矢賀を経て尾長までと皆賀(五日市)以西は走れるけれど、その間の10数kmは走れないので、所要時間は全体で約3時間になります。太田川三角州上には未開墾の荒地が連なり、草津と井口付近は海岸地形が険しかったからです。古代山陽道の主要目的が早馬を走らせることだったから、北へ迂回したのです。
西へ向かうもう一つの経路としては、標高200mの己斐峠を越える経路があります。この場合も、北回りの安川沿いより10kmほども道のりが短くなりますが、馬が走れないから所要時間は長くなります。平面図で見れば、東の甲越峠コースの場合よりもはるかに大きな利点がありそうなのに、ここを通っていません。この点も考えれば、甲越峠コース説の不自然さがわかります。

以下は、19,古代山陽道と広島湾、をご覧ください。


運送路としての古代山陽道の利用度が高かったのは、畿内から近くて地形も平坦な所の多い播磨までです。
延喜式でも、新任の国司が任地に赴く際、播磨より西の国へは通常は海路を利用する旨記しています。国司より下級の官吏の場合は、それ以前より海路が通例でした。
延喜式の別の項目では、西国各地から租庸調を都へ届ける際の公定料金とも言えるものを定めていますが、圧倒的に海路が安く、通常は海路を利用していたはずです。

日本後紀によると、大同元年(806年)に下記の内容の勅が出されています。
「備後、安芸、周防、長門等国駅館、本備蕃客、瓦葺粉壁、頃年百姓疲弊、修造難堪。或蕃客入朝者、便従海路。其破損者、農閑修理。」
当時の官衙類は掘立柱構造でしたから、2,30年ごとに建替えが必要でした。「修造」とは「建替」することです。これらの4カ国では、百姓疲弊のため建替ができず、通常の破損修理さえ農閑期にしかできません。
このため、海外からの賓客の移動には海路を取るように指令されていますから、当時の山陽道は通信路としての役割以上のものではありません。10世紀始めに延喜式が公布された時点で崩壊過程にあったようです。

こういう実態から、駅馬20匹、駅子120人という令の規定はあっても完全実行されていたかは疑わしく、通信路としては、最低でも急使を効率よく走らせるために、走り易い経路の選択と、バランスの取れた駅間距離(駅舎位置の選定)が必須の条件だったはずです。

また、8世紀に編纂された万葉集でも、瀬戸内海沿岸や島を題材にした歌が多数載せられていますが陸路を描いたものはごくわずかです。これは、都と太宰府を行き来する官使・歌人はほとんどが海路を利用していたからで、陸路を利用したのは特に急ぐ使者の場合に限られていたことを示しています。


参照資料:
広島県史・原始古代編(1980年)、広島県史・古代中世資料編(1976年)、広島新史・地理編(1983年)、新修広島市史第1巻(1961年)、古代交通の考古地理(1995年)、芸藩通志、
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