余禄3、浜ちどりの記


「浜ちどりの記」は、江戸時代の海田市の儒学者・加藤缶楽の妻閑子が著した文学作品ですが、当時(18世紀初め)の海田市周辺の情景や出来事を題材にし、著者自身が直接に見聞した事を記述しています。

以下、その全文を3部に分けて紹介します。赤字は本文、黒字は解説。
なお、「芸藩通志」の記載を基にして、句読点は現代式に漢字は新字体に送り仮名は文語文の通常の形にそれぞれ改め、誤写と考えられる数箇所については意の通じるように正しています。


 みるめ稀なるあまのとま屋1の、かりそめにすむとはなけれど、十とせあまりの春秋を此の所に暮らしぬ。 庭の外面は川の流れきよく、五六町川下に至り干潟広々として2海づらにつづき、昼夜の潮のみちひもめのまへに世のことわりをしめし大かたならぬながめに有りける。
 西のかたには仁保のしま、金輪島、みなみに森山、江田島も見えわたりて、霞に立つる横浜の松、遥々と矢野の浦風に帆あげたるふねおほく、釣するあまのいさり火は数もかぎらず。
 うきながらうき事もなく行きかよふさまなどいといたうやすく、庭の前には水鳥おほくうきて遊び侍る気色、さながらゑに書ける心地してながめ居ける。  

   此の浦に潮みちくれば水鳥の うきてなみよるあさなゆふなに

 うしろは日野浦の山高く聳え3、むかしがたりを聞き侍りしに、阿曽沼の何某とかや云ひしもののふの住み侍りし城山とぞ聞へし。岩をたたみあげたるに松おほく生ひしげりたれば今はただ其跡どもみえ侍らず。 猪猿おほかみなどこそつねに侍らめ、山人ならでは通ひ路もおどろおどろ敷ほどなり。
 日の浦の山につづきいひの山とてちひさき山あり4。 是は日の浦の要害の砦にやと見え侍る。 松の木所々に生ひて、大方、畑に成りぬ5。其の麓に二十丈ばかり高く平らかなる所、これを馬の背といふ。 

 わが家につたはりてあるじの園にぞ有りける。松桜の老木しげりて代々しるしの石などあり。 したの岸をかぎり藪又しげりて竹いとおほくさかえぬ。 そのうちに、しら鷺来たり集まりてねぐらしめ侍る事、年を経るに随ひいよいよ数まさりぬほどに、市に住みぬる人々むつかしくやおもひけん、鷺のねぐらをおびやかし追ひ出だしけり。誠に哀れとも浅ましともいはんかたなし。 乙巳九月十六日の夜は鷺いずくともしらず出で行けり。ほいなくおもふ事かぎりなけれどもせんかたなし。

   今宵よりねぐらはなれていずくにか うきねにや鳴くそのの白鷺

 一とせばかりいづちにや住ひけん、又の秋、八月中頃より再び帰り集まりぬ。わが園のうち住ひよく覚えけるにやと、なおひとしお愛しながめける。 あしたごとにうちむれつつ飛び行きて、又、夕暮にかへり集まるさま、中空に雪の降りけるやうに見へて羽つかひいとをかし。老木の松にうつりてやすらひ侍る。よそほひてかへる、松の花かとあやまたれける。 それより竹のうちにおりゐてねぐらし侍るを、こころあらん人にみせまほしとぞおもふ。

   色かへぬ竹をねぐらの白鷺は ちよにやちよに契るなるらむ

   あさごとにねぐら出づるもかへるにも 友うちむれていそぐ白鷺


 麓の此の里は山陽道の駅路にて、家居つきづきしうたてつづき旅人も所せきまで行きかよふさまなど、いといとまなしや。 市の中ほどに神の宮所おはしける。かけまくもかしこき新宮の森の木立うづたかくみしめひきわたしたるに、藤波のかかりてさける花のにほひも神さびて、めぐみもおろかならずおぼえ侍りて、

   咲きまじる森のけしきも神さびぬ 花にめぐみやかかる藤なみ

   藤波のかかるをりにや千はや振る 神もうれしくみそなはすらん


 新宮の御祭日九月十三日侍りける。市中神輿御幸し給ひ、一里塚の河原に御祓おはしまして還幸なり玉ふ。やぶさめ馬、年々多少ありける。 又、霜月二のさるの日をかいもち祭とていはひ祭り侍りき。是は、新宮御同殿に稲荷の神もおはしけるかけもちまつりと云へる事を、あやまりて人みなかいもち祭と云ひならはせりと、神主わたなべ氏のものがたりを聞き侍りし。

 卯月には、里人野辺に出で、けしきにぎにぎしう麦刈り荷なひ、家に入りつつほこりがほに打ちわらひうたうたひなどして、おもふ事なくののしりあへるおかし。夜も漸く更け行くままに物静かになりぬ。
 寝覚めて聞き伝ふれば山ほととぎすの初音も雲井にひびきて、いと、えんにをかしけれど、聞く人なしやとあはれに覚ゆ。

   聞けばまたなほや初音の床しきに おちかへりなけ山ほととぎす

ここまでは、海田市の情景と事柄。

冒頭で、自らの住いをみるめ稀なるあまのとま屋(海人の芦屋)と表現しているのは、謙遜を超えて虚構。加藤缶楽は海田市の庄屋も勤めたこともある大商人で、大きな屋敷に住んでいました。
他にも誇張表現が所々にみられますが、全体的には淡々とした描写が続きます。

2、この時の広々とした干潟は19世紀に干拓されて、松石新開、明神新開、鴻冶新田などになりました。
3、日浦山は標高346m、麓から頂上まで歩いて35分。
4、飯ノ山は標高120m、麓から15分。当時、日浦山から飯ノ山を結ぶ尾根筋が奥海田村と船越村の境界でした。日浦山と飯ノ山は、当時の海田市から見て隣村の情景。
5、畑に成りぬと記された所は、「寛永15年船越村地詰帖」でも「飯ノ山」の地に1町9反の畑として記録されています。明治20年までこの地は船越村の領域でした。この畑に行くために使った道を、現在は、なぜか「海田の灘道」と称しているようです。畑だった所も上の方は放置されて現在は山林です。

次に、船越へ移ります。
 北面につづき舟越の里あり。木がくれ岩間づたひ6所々に家居して、芝のいほり7のしばしのいとまもなく農業をし、男女むしろをいとよく織り侍る。山又海ありて、かかる風情おろかのこと葉に云ひつくしがたく、山深くて8巌そばだち、嶺の方はおばな柞など生ひて芝山9にぞありける、岩嶽山といふ。
 往還の道行き過ぎるほどに小坂あり、市場坂と云ふ。 潮干潟の時10に松石とて下道にかかりて磯づたい11にゆく。是は下道にはあれど12行きかよふ人多く、岸高くして波巌を砕き13、おのづからなるほら穴14などあきておもしろき道なり。
 市場坂二町ほど登りて平原山といふ所に産土神鎮座し給ふ。八幡宮、祇園、新宮、一社に崇め祭り奉りぬ。いにしへは三社三所に宮居おはしましけるを、明暦二年戌申二月十五日に三神、平原山へ遷宮ましましけり。それより此のかた祭日も六月十四日、九月十五日に神事行われけるとぞ。
 市場坂のほとりに小さき御やしろ一宇あり。此の所を引地と云へり。恵美須の石体をいはひ祭りたるなり。是は天正年中に、此の浦の海中夜ごと光有りて見へ給ひしをあやしみ侍りけるに、漁翁のつりはりにかかり給ひ光とともに海中より揚り給へるとつたへて云へり。其後、俗家へ移し置き奉りし事侍りしに家の内ことの外さはがしく、神体をけがし奉りし御たたりにや有りけん、ほどなくみなうせて家もおとろえ侍りき。かかるふしぎを目にちかく見聞き侍りける。そののち、植木氏信仰して小社一宇建立し、恵美須の石体を移し奉りき。
 そのほど過ぎて、舟越坂にて古松いよやかにして竹などしげりたる如く16雲を凌ぎて17生ひたり。旅人も夏のあつさを此の所にわすれ侍る。

 何となく書きつづるも心つきなうをかしけれど筆を続け侍る。

この「船越」の部分では、誇張や虚構と言える表現が増えます。

6、岩間づたひと記していますが、隠遁者でもないのに、岩の間や崖の上に家があったわけではありません。村人の住居はすべて平地にありました。
7、芝のいほりとは草葺きの貧弱な家の意味ですが、実際に、村人の家が卑下するようなものだったのではありません。
8、山深くてと記していますが、すぐ目の前は海に臨んでいました。しかも、岩滝山の頂上は標高192mで、麓から15分で登れる小山に過ぎません。これを「山深く」というのは、誇張を超えて虚構です。
9、芝山とは雑草の茂る山の意味でしょうか?本文中に、嶺の方はおはな(尾花=ススキ)柞など生ひてと記しているから、当時の岩滝山は樹木も疎らな荒地だったことがわかります。麓から嶺の方・・が見えるほどに小さい山です。
10、潮干潟の時にここへ来たので、冒頭2行目にある「干潟広々として2」を間近に望めました。宝永3年村図などに示されているように、満潮時でも通行できる、「下道」と呼ばれる道が存在していました。
11、磯づたいと記されていますが、ここは岩や石が連なる海岸ではなく、干潟に臨む砂浜の海岸でした。
12、「芸藩通志」には下道にはあらねどと否定形で表記していますが、下道にはあれどと肯定形にしないと文章が意味を成しません。おそらく「芸藩通志」の編者の誤写。「浜ちどりの記」全体では、他にも誤写と思える記述が数箇所あります。(下道は側道・裏道の意味で、市場坂道の本道に対し浜道は側道。)「行きかふ人多く、」ですから、季節・時間を問わず、人々の往来が多かったことがわかります。
13、波巌を砕きと記していますが、ここは干潮時には広い干潟が現れ、満潮時でも前面の海は浅く、しかも海田湾の奥深くですから、波で岩が侵食されたわけではありません。
14、ほら穴ではなく、太古の昔に花崗岩が隆起し、その割れ目が風化して出来た地形です。13と14は、地形の成り立ちを知るはずのない著者の文学的表現です。日浦山や岩滝山の山頂から南に延びる尾根の先端の岩場と同様の地形がここに表れているだけです。
16、古松いよやかと記していますが、この付近に古松と呼べるほどの老木は存在していません。また、松と竹は樹形が全く異なるから、竹などしげりたる如くの表現は奇妙です。
17、雲を凌ぎてと記していますが、松も竹も雲に届くほどに伸びることはありません。ここの一連は誇張した表現です。

「浜ちどりの記」の中で近景描写は船越の部だけですし、慣れ親しんだ和歌は1首も詠んでいません。ここでの記述は、虚構を語る意図はなく、文学的修飾のつもりだったかもしれません。
この後は、奥海田から矢野の情景に移ります。
 東は瀬野の里、大山峠を限り凡そ三里がほどや、奥海田、畑賀、中野村など云ふめり。是みな瀬野の渓にこもる18と云へり。山高くして草木しげり、いはほ所々にたたみて鳥獣の臥跡なりけり。 里々農業をいとなみ侍る。山深くすみける樵夫売炭の翁、おのがさまざま荷なひもて此の市にあきなふ。朝夕の煙たえずにぎはひ侍る。
 山住みの軒端にさける梅が枝に鶯さへづりて長閑なる春を知り、蛍とびては夏なる事をわきまへ侍る。此の瀬野の渓に生ひ出でし鶯は世に勝れ音うるはしくはなやかに香しき声聞こえけるとぞ。 過ぎにし夏の夕、中のひらの川辺にあそび侍りしに、蛍おほく集まりぬること此の河原におよぶ所なしと聞きしが、いとめづらしきながめに有りける。
 また、秋は山々の紅葉、うすく、こく色付きて椎柴に打ちまじりたるけはひ、さほ姫の錦織かくならんと見へわたりたるに、夕暮の秋風打ち戦きて、鹿の音いと物すごう聞こえ侍るを、岸か麓か聞きわかれぬほどなほざりならず身にしみて、哀れ成るものはかかる所の秋にぞ有りける。

   見る人もなくて散りぬるおく山の もみぢは夜のにしき成りけり

と、貫之のの給ひしことの葉、げにさる事よとおもひ侍りて、

   もみぢ葉によそほふ袖のなけれども あはれとぞきくさをしかの声

   紅葉ばや枕のちりとつもるらん 妻恋かねる鹿のふしどに


 たつみの方に道祖崎の山あり。是は、常磐の松のみしげりてみどり色深く、猶、万世の春にさかえぬべし。此の山につづきたるはおく海田の里なりけり。さすがにひなびたる所なれど、遣水など落して庭のいはへをかしうみるもあり。門田の稲葉に秋の風さへ薫り来て、夕暮のむしの声々いと処ふかく覚え侍る。
 むかひの出崎の森に八幡宮の御社たち給ふ。年毎に八月十五日に神事行はれ侍る。 十四日の夜は火ともし祭とて、夜半の頃、神前において神職の人ものの音吹きあはせて火をなげうちあふ御祭あり。しげ光と云ふ家よりおや火とてたいまつ一本ともし出づる。又、家々よりたいまつを手々に持ち出し、おや火をちひさきたいまつへ次第にうつし取りて、神前までは七八町ほどつづき、火をともし行きてなげあひ侍る。 森のうへ神殿の上へもなげうちあげ侍る事おびただし。されども大方打ちけしぬ。人々もうちつけ侍りつれど、其の火、外へうつりてそこなひやぶりたる事むかしより今にいたりてなき事なり。

 誠にこよひは名におふ十五夜成りけり。空のけしきいつもよりすみわたりければ、月見んとて庭の前なる汀の方にむしろ打ち敷きてまもり居たるに、東の山の端よりほのぼのと出づる月の光も、げにひときは照りまさりたる新月の色。 川瀬にうかめればこまもろこしの外までもおもひなかされ、おもしろさも、あはれさも、残らぬ気色なるを、心あらばと打ちながめ侍りて

   たぐひなき秋の半ばのひかりをば みかける月の鏡にぞみる

 南に見ゆるは矢野の里なり。 家しげく立ちつづきて、浜のかたにはあしの丸屋19の夕暮れなどめなれし事なれど、わきて五月雨の頃、かやり火のくゆる煙の棚引きたるこそ見どころおほけれ。 うしろは宝亀高山20とて屏風立てたるがごとく三峰相ならびて、末又、外山につづき、冬の景似るものなし。 山の中、半ばほどに岩のたたずまひありて筆にも及びがたくをかしうみゆるに、雪降りつもり白妙になめらかなる粧ひ、まことに香炉峰もやとおもひ出づらるる。 此の宝亀高山の城はそのかみ毛利元就へめしけるよし。その頃は、天のしたもおだやかならで、君も臣も心をなやまし玉ひ乱世にして、やすらかならずおはしけるとぞ。
 今は、かかるかしこき君の御めぐみ深く太平の御代にし有りければ、吹く風も枝をならさず国の民やすくたのしみ守る事、仰ぎても猶あまり有りける。

   ながめける宝亀高山の雪消えぬ 若菜つむべき矢野の里人

 矢野と海田、その道三十町ほど成りける沖堤、糸をはえわたしたるごとくにして、そのうちに新田百余町21ありて此の市の家業とす。四季、忙し。 秋は田面に落つる雁がね刈田にゑをはみて年を送り、春二月の末に至りて常世にいそぐ雁の幾つら名残りゆかしくて、

    おもかげを書きとどめばや霞しく 雲のまにまに帰る雁がね

    みるうちに声さへ遠く成りにけり 雲ゐのよそに帰る雁金


 年月をこの浦におくりて、かかる風情のありさまを浜行く鳥の跡ばかりも書きとどめまほしう硯にむかひ侍りつれど、あまのたくなはくり返してもつたなくみじかきこころにあまりて、いささか、え書きあらわし侍らねば、あたら気色の惜しけれど此の所に筆を止め侍る。
 さりとて、又、なにしおふ名所にしもあらぬと、わがこころの曳きかたにのみすさみて、馴れにしひなのいほり22、ちかきあたりのをかしき気色を取りあつめて書き付け侍るを見給へらん人々も、いかにかたはらいたくおほされんも、いとはづかしう口惜しけれど、なにはのよしあしをもしらで、只、かりそめの筆のさかしらのみ、ゆるし給はんこそ本意なるべし。

奥海田から矢野に至る記述でも、誇張表現が少し見られますが、全体的には海田市の部分と同様に淡々とした記述です。

18、瀬野の渓にこもるとして、奥海田から東の村々が、狭い谷間にあるかのような表現ですが、実際は、合計で500町を超える平地を持つ農村地帯です。里人の生活は、著者の関心の外にあったようです。
19、あしの丸屋とは、葦で葺いた粗末な住いの意味でしょう。実態よりも誇張しています。
20、宝亀高山は、現・発喜山。絵下山、明神山と併せて矢野の三峰。
21、新田百余町は、海田新開などの干潟干拓地。「浜ちどりの記」の中で唯一の農地の記述です。
22、ひなのいほりとは、田舎の貧弱な住いの意味でしょう。同様の誇張表現ですが、冒頭で自らの屋敷をあまのとま屋と表現したことに合わせています。


「浜ちどりの記」は、散文と13首の和歌とで構成されています。古今集や新古今集などの和歌の世界に親しんできた著者が、田舎の情景を題材に、自らも文を書き和歌を詠んだものです。
実体験を基にしていますが、見たままの描写でなく文学的誇張・虚構を含んだ記述です。
本文中にある「乙巳」の年は、西暦1725年です。


注記:
「芸藩通志」は19世紀前半、頼杏坪などにより編集された広島藩の地誌です。
活字印刷による「芸藩通志」が初めに刊行されたのは明治43年から大正7年にかけてですが、それに先行する明治33年(1900年)に小学校令施行規則により平仮名が統一されています。活字印刷を進めるにあたって、原文の変体仮名で書かれていた部分を、規則に基ずく平仮名の活字に替えて植字したようです。現在閲覧できる復刻版は、初めの刊行版から写真製版で復刻されたものです。(変体仮名の原文を読み誤って平仮名に替えたと思われる箇所があります。) 


参照資料: 海田町史・資料編、芸藩通志(復刻版)、
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