余禄2、 今川了俊の紀行文、「道行きぶり」の中の海田


室町時代の武将で文人としても名高い今川了俊は、応安四年(1371年)に九州探題として下向した際、「道行きぶり」と題する紀行文を残していますが、その途中、安芸の国の海田浦に逗留した時の事を次のように記しています。(宿所の位置は、当時の瀬野川河口の近くの海田湾北岸だったと推定されています。)

・・・・。
晦日は海田とかやいふ浦に着きぬ。南には深山重なりたり、麓に入海の干潟はるばると見え、北の山際に所々家あり。 ここに廿日ばかりとどまりて、長月の十九日の有明の月に出でて潮干の浜を行くほど、なにとなくおもしろし。
さて、佐西の浦に着きぬ。廿日は厳島に詣で・・・・


前半の部分で海田湾周辺の情景を簡潔に描いていますが、ここでは、後半の「長月の十九日・・・」の記述から考えてみます。

「有明の月」とは陰暦20日頃の月ですが、ここでは「夜が明けた後に西空に残っている月」の意味です。「有明の月に出でて」は早朝に宿所を発った事の文学的表現で、間接的に、この朝は晴れている事も表しています。
応安四年の長月の十九日(陰暦の9月19日)は、現代の暦では11月5日で、この時節の広島地方の日の出は午前6時半頃ですから、午前7時頃に発ったとすれば、後方(東方)の瀬野の山並みからようやく朝日が顔をのぞかせる時刻になります。
また、陰暦の9月19日は、午前5時頃が広島湾付近の干潮のピークですから、眼前には広い干潟が望めました。

了俊の記述は散文ですが、「有明の月(天)」に「潮干の浜(地)」を対比して興趣の深い情景だと述べています。前半の「南には深山重なりたり、麓に入海の干潟はるばると見え」という記述が伏線になっていて、到着した陰暦8月30日は夕方が大潮の干潮のピークです。到着時の「入海の干潟はるばる」に対応して、出発時の「潮干の浜を行く」という情景描写があります。

了俊が「なにとなくおもしろし」と記したのは、到着時の夕方に見た干潟の上、逗留中は毎日2回の満潮時には海水に覆われていた場所、そこが出発時の朝には干潟になった上を進んで行く感慨からです。

さて、潮干の浜を過ぎた後、了俊はどこを経て佐西へ着いたのでしょうか。

諸説の多くは単純に「陸路を採った」、と決め付けていますが、それには多くの疑問があり、海路(船)で行った、と考えるのが妥当です。

1、海田浦での逗留中に九州からの武将も参集し、現地情勢の報告や九州での作戦の打ち合わせをしています。彼らは海田浦を発った翌日の厳島神社の参詣に了俊に同行し、翌々日に一足先に大船で九州へ戻って行きます。海田浦から佐西浦への移動には、京から来た了俊ら主従も船に同乗した、と考えるのが自然です。彼らの乗ってきた大船が海田湾の沖に停泊しているから、それに乗るためには、艀を出せる所まで干潟を歩いて行くことになります。あるいは、干潟の先端付近に大船を泊めていて、干潟から直接乗り込み、潮が満ちてきて船底が海底から離れたら出航したかもしれません。近世末に渕明湊が造られた向洋島の東側が適地です。

2、「道行きぶり」を、都を発ったところからつぶさに読むと、陸路については、たとえ簡潔にでも、了俊は何らかの情景描写をしています。しかし、海田浦の干潟を過ぎた後は、いきなり佐西浦に飛びます。これは、陸路を通っていないことの傍証になります。「さて」という場面転換の接続詞を挿入しているのは、海田浦の干潟と佐西浦とが情景として断絶していることを示します。

3、「道行きぶり」に記す経路をたどると、少なくとも3箇所で了俊は海を渡っています。しかし、船上からの記述は、厳島神社参詣後、舎利を船上から奉納した事と、そこを離れる時の潮流の複雑さを述べた部分のみで、特別の意味があった所です。「道行きぶり」の中では、単なる船路は語るに値しないものだったようです。

4、仮に陸路を行くとすれば、了俊たち武将は馬で移動しますから、海田・船越の固い地盤の平地を西へ進めばよい訳で、わざわざ軟弱な干潟へ下りる必要はありません。

注記:

(1)「道行きぶり」の中で「有明の月」という表現は、2日後の9月21日に佐西浦を発って地御前から大野へ抜ける途中の中山峠付近の記述で再び出てきます。宿所からの道のりは5ないし6kmと推定されるので、宿所を発った時刻が海田浦と同様に午前7時頃とすれば、海田浦で見た月と中山峠で見た月は西空のほぼ同じ高さに見えたことになります。一方、中山峠では「所狭き紅葉の色濃く見渡されたる中に」という描写があり、当然のことですが、既に日は高く上っていることがわかります。
(2)厳島神社参詣後、了俊は対岸の大野浦ではなく、わざわざ佐西浦へ戻っています。これは、九州の武将達が乗る大船が厳島に接岸できず佐西浦の湊に停泊していたからです。そこまで彼らと同行している了俊が、海田浦から佐西浦へも同行したと考えるのが自然です。
佐西浦を発って陸路で大野浦へ出たところで沖を見て、次のように記しています。
**今朝佐西の浦を出でつる友の大船どもも、今ぞ追風に帆影も見ゆるめる。船なる人もこなたをゆかしと見おこすめり。
海田浦での逗留中から佐西浦を発つまで、ずっと行動を共にしていたことを窺わせる表現です。
(3)「道行きぶり」の中で「潮干の浜」の情景は、10月7日に周防の国府(現・防府市)を早朝に発って、すぐ西に広がる佐波川河口の干潟を行く所にも記されています。この場合、近道を取るために干潟を進んでいます。国府を発って8km余先(現・防府市台道岩淵付近)で潮が満ちて来たために山際にコースをとりますが、その間、島々、入江入江など、干潟の浜から見える景色を描いています。他にも干潟の浜を記した地点は数箇所あり、それぞれに景色や次へ向かう経路などを記しています。読み比べてみると、海田から佐西浦の間に情景描写の無い事が対照的で、この間は陸路を進んでいないことが明らかです。
(4)「有明の月に出でて」という表現を、「月の出と共に出でて」の文学的表現とし、了俊は深夜に発ったとする解釈がありますが、この季節の海田湾の干潮の時間帯に合わず、了俊が深夜に出発する必然性もありませんから、間違った解釈です。無理にこじつければ、海田を午前0時頃の月の出に発ち、満潮の海田湾を横目に月明りの下に陸路を進むと、海田湾から太田川河口まで10km程度ですから所要時間2時間、そこで潮が引くまでわざわざ待ったことになり、「道行きぶり」の簡潔な情景描写と合いません。
この場合、昼前には次の宿泊地の佐西浦へ着けますから、翌日に厳島参詣を予定していながら、奇妙な時間帯の移動だとも言えます。



異説について

諸説は、「了俊は陸路を行ったはずだ」という思い込みに捉われて、そこから抜け出せずに無理な解説をしていることが歴然としています。

「広島県史・中世編」は、「海浜を通って佐西に到着」と解説し、「新修広島市史①、p265」も同様に、「潮干の浜伝いに進んで太田川を渡渉し」と解説していますが、広島湾の沿岸地形からみれば、それはあり得ません。「潮干の浜」は、干潮時には表れ満潮時には水没するのですから、海田浦から佐西浦(廿日市)まで30km近い行程を浜伝いに行くことは不可能です。途中には入江も岩場もあります。「潮干の浜を行く」を「浜伝いに進む」と読み替えては、了俊が「なにとなくおもしろし」と結んだ感動が台無しです。

「新修広島市史②、p73」が、了俊の海田逗留に関して、「これによって広島湾頭が了俊にとっても大切な策源根拠地であったことが知られる。」と述べているのは、海田が広島湾頭にあると誤解していることの表れです。当時の海岸線は現・平和大通り付近にありましたから、広島湾の東部は比冶島付近までです。広島湾と海田湾は向洋の丘陵と仁保島で隔てられているのに、それを認識していないのです。海田が広島湾頭にあると誤解しているから、了俊が海田を発った時の「潮干の浜」は太田川三角州だという誤解が生まれます。

「広島市文化財団、広島城(広報紙・しろうや! 広島城・No.22)」の解説では、「道行きぶり」に記す干潟は太田川三角州の干潟の事だと述べています。この当時の太田川三角州の海岸線は現・平和大通り附近にあったのですから、了俊は海田・船越の海岸を過ぎ、鹿篭山を越え、茂陰から矢賀の岩鼻に至り、そこから二葉山の南麓を経て比冶島の脇を通りわざわざ太田川の干潟まで大きく南下する事になります。しかも、太田川を渡る頃には潮が満ちています。仮に陸路を通ったとしても、太田川三角州の干潟を通る事はあり得ない話です。「広島市文化財団、広島城」の解説者も、海田浦が広島湾の東岸、比冶島の南部にあると思い込んでいるのかもしれません。
「潮干の浜」が海田浦から遠く離れた太田川三角州の干潟であっては、「有明の月に出でて潮干の浜を行く」という情景描写が成立しません。

「晦日は海田とかやいふ浦に着きぬ」から「なにとなくおもしろし」までが海田浦を舞台にした一区切りの記述です。「潮干の浜」が瀬野川三角州ではなく、10kmも先の太田川三角州にあるのでは、情景がつながりません。

陸路説の執筆者は、歴史上の背景を調べず、地形についても潮の干満についても理解せず、文章の意味を素直に解することもせず、具体的な経路を検証することもなく、最初の思い込みに捉われたまま記述しています。
呉娑々宇山山系が向洋まで連なっているし、向洋と仁保島の間の入海は北へ深く入り込んでいます。これらの執筆者は、中学校教科書の日本地図を基に、海田浦は太田川の河口の傍にある、と誤解して記述しているようです。

了俊は歩きながら情景を書き付けているのではなく、宿泊または休息した所で付近の情景や直前の状況を記しています。「道行きぶり」の記述はそのような視点から読み解く必要があります。


参照資料:  中世日記紀行集(1994年)、  海田町史(1985年)、  新修広島市史(1961年)、  広島県史(1980年)、
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