書評6、古代山陽道の経路に関する諸説


古代山陽道の荒山駅と安芸駅との間の経路については、海田・船越コース説と畑賀・甲越峠コース説とがあります。以下、その概要を紹介します。

1、海田・船越コース説

「新修広島市史・第1巻(p239)」と「瀬野川町史(p61)」は、「(木綿駅、大山駅、荒山駅、安芸駅までの)この間は後世の山陽道あるいは西国街道とほとんど変わっていないと思われる。」と記し、また、
「古代交通の考古地理(p126)」は、「**駅路については瀬野川の渓谷に沿って西南走するJR山陽本線・国道2号に踏襲された路線とすることにほぼ異論はない」と記し、いずれも曖昧ですが、海田・船越コース説で総括しています。

つまり、木綿駅(旧・西条町)から大山駅、荒山駅までの経路は、旧中野村の西端までを含めて、わざわざ説明するまでもなく明白です。わずかに、荒山駅を過ぎた後の安芸駅までの経路についてのみ選択肢があるのですから、上記の3氏の真意は、海田・船越コース説になりそうです。

図に描かれたものとしては、「広島新史・地理編(p106の図)」と「古代交通の考古地理(p122の図=右図)」と「瀬野川町史(p60の図)」が海田・船越コース説で描いています。

安芸駅跡と推定される下岡田の西の脇から南下して浜田に至る直線状の道が、古くから存在しています。これは古代山陽道の跡だと考えられます。西国街道と古代山陽道が分かれるのは、この現・浜田本町付近です。

2、畑賀・甲越峠コース説

1例目が「古代日本の交通路Ⅲ」で、「河口付近の沖積化が進んでいなかったため、海岸沿いを迂回せず中野より、甲越峠を越えて府中へ抜けた***(p115)」として古代の海田湾北岸地形を誤解し、「荒山駅の位置を示す地名は現存していない(p115)」として、中世に実在した荒山村(世能荒山荘)が近世の中野村に該当することを理解していません。
また、p118の第6図(=右図)には、船越峠を通る経路の存在を無視して揚倉山・岩滝山の山裾の位置を実際より1km以上も西寄りに描き、荒山駅の位置を(府中・下岡田から道のりで5kmほどしかない)為角附近に描き、荒山駅と安芸駅の間の経路を、本文の説明とは異なり、甲越峠よりもはるか北にある標高250mの笹ヶ峠を通る経路で描いています。付近の地形・地理を理解していません。

2例目は「広島県史原始・古代編(p312)」ですが、「荒山駅からは、****旧畑賀村を通り、安芸駅に向かったのであろう。距離的にもその方が平均値に近いが、古代には海岸に沿っていた海田・船越の国道もきわめて自然な古道というべきであろう。」としているから、海田・船越コースの存在は認めながら、わずかな道のりの差を標高差150mの峠の障害より優先しているようです。
西の方では標高200mの己斐峠を避けて10kmも北へ迂回する安川沿いの経路をとっているのに、東ではわずか1km余の道のりを短縮するために標高195mの甲越峠を通ったというのは論理的に矛盾しています。 3例目は「古路・古道調査報告(p19-p22)」で、上記「古代日本の交通路Ⅲ」と「広島県史原始・古代編」に従っているだけで、自らは何の検討もしていません。上記で説明したように、「古代日本の交通路Ⅲ」の説は取り上げるに値しないのに、「広島県史原始・古代編」と併せて紹介しています。
「古路・古道調査報告」のp3で、「***、中央の行政命令の伝達や役人の往来、地方からの調庸の輸送の用いられた。」と記しているが、播磨以西の西国に関しては「役人の往来、地方からの調庸の輸送」に用いられなかったことは、続日本紀などの記述から明らかです。
また、「古路・古道調査報告」のp9では「***各駅には駅馬すなわち早馬が常備されていた。」と延べ、p11では「駅使の行程は、急使は一日10駅以上、普通は一日8駅以上とされ、**」と述べているから、馬を走らせることが前提であるのに、甲越峠を走って越える事など出来ないことを理解していません。

4例目は「安芸町誌・上巻(1973年刊、p550)」ですが、地形・海岸線を理由にしているから、1例目に同じ。

広島県矢野町史(1958年、p51)が、「山陽道は、***瀬野・中野より畑賀を経て甲越峠を通り府中に至り、***。***中野以南の平野が当時入海であったからである。」と記しているのが、昔の学者さんの地形に関する無知・誤解の典型例です。JR安芸中野駅の少し南にある貫道橋付近の平地でも標高9mです。古代はもちろん5000年前に遡っても、この付近まで海が入っていたなどと言うことはありえません。このように、昔の学者さんは古代の地形を誤解しています。

他にも畑賀・甲越峠コース説を記す出版物はいくつかありますが、昔の学者さんの誤解が踏襲されています。
もっと古く、19世紀の始めに広島藩が編集した地誌「芸藩通史・巻37」では、「官道。古は瀬野、畑賀より古府に出る。」と記していますが、根拠は不明。
仮に甲越峠を通るなら、峠を越えて西へ下り安芸駅に至る最短経路は北西方向に山田川沿いに下るはずです。
ところが、「古路・古道歴史散歩」は、右・最下段の図に示されるように、上記の海田・船越コースで説明した浜田から北へ直進する道と甲越峠を結ぶために、甲越峠から真西に下り八幡川沿いに西進してから直角に北へ曲がるという、不自然な遠回りで解説しています。

とはいえ、甲越峠が古代・中世はもちろん近世にも重要なを経路であったことは確かですから、上記に紹介した「広島県史」の記述に倣えば、「古代山陽道は、荒山駅からは海田・船越を通り安芸駅に向かったのであろう。早馬を走らせるにはその方が便利だが、古代には甲越峠を越える道もきわめて自然な古道というべきであろう。」ということになります。


参照資料:   古路・古道調査報告(1992年)、 広島県史・原始古代編(1980年)、 古代日本の交通路Ⅲ(1978年)、 広島新史・地理編(1983年)、 瀬野川町史(1980年)、 新修広島市史第1巻(1961年)、 古代交通の考古地理(1995年)、


表紙 & 目次、←← 書評5,太田川河口の諸説、← 書評6,古代山陽道の諸説、→ 書評7,新修広島市史、