書評7、「新修広島市史」に記す古代・中世の太田川

新修広島市史・全7巻は昭和36年(1961年)に発行されました。
広域合併後の1981年から1986年に発行された広島新史・全13巻が合併後の情報に重点をおいて編纂されているために、それ以前の地域の歴史を理解するためには、この新修広島市史の各巻が重要な役割を果たしています。
現在の視点からみれば検証不十分な内容もかなりあるのは止むを得ないのですが、若干の問題点を指摘しておきます。以下の説明では「市史」と略称します。

第一巻・総説編
ページ「市史」の記述評価
75(桑原郷の四至として)限東江 限南大河 限西大峰 ***というのである。この大河というのは太田川をさす****。江というのはこれよりずっと小さな川あるいは溝を意味するのであろう。****。東に安川があり南に太田川がある*****。その時、祇園のすぐ東を流れる太田川は祇園の北で安川をあわせていた。太田川の流向がややあわないが、谷の中を水流が曲流している場合を考えればよいであろう。 「東に安川、南に太田川」の部分はそのまま素直に解釈すればよいのに、「太田川は祇園のすぐ東を流れていた」に変えて、無理に苦しいこじ付けをしています。当時の太田川は祇園の東をかなり離れて南方へ流れ、緩い曲線で南西方向に転じ、そこで安川が合流し、祇園の南を南西に流れていたから、桑原郷の四至の記述が成立するのです。太田川ほどの水流・水勢を持つ川は、執筆者が空想するような曲流をすることはありえません。四至の記述は、倉敷が河口・海岸から離れていることを示しているのに、市史の執筆者はそれを誤解して解説しています。
当時の地理については、は、中世の広島湾の図を参照。
201-203 (太田川放水路遺跡から)小貝塚と井戸の遺構が発見された。***現地表下1.5m****。**井戸の深さは2m**。遺跡は当時(鎌倉時代)の太田川河口に近い自然堤防の上に位置したもので、同様な遺物をともなう小貝塚が新庄橋の西北から西南にかけて分布しており、遺物をともなわない自然的な貝の堆積層もみられるので、この附近が当時の海岸線ではないかという有力な根拠となっている。 太田川放水路遺跡の内容は、鎌倉時代にはこの附近が海岸・河口の近くではなく、むしろ遠くにあったことを立証するものです。
海岸や河口に近ければ井戸水に塩水が混入して使用に耐えません。遺跡付近の現地表面が標高5m、井戸の平均水面が2.5m、地下水位が南へ1200分の1の勾配で下るので、0mになるのが相生通り付近、当時の海岸線・河口がさらに南にあったことを立証しています。
貝塚の位置と貝の採取場所とが離れているのが通例で、貝塚を以って海岸が近かった理由にできません。貝塚は昔の人のゴミ捨て場の跡であり、近くに人が住んでいたことの根拠にはできるが、海岸線の根拠にはなりません。
貝塚以外に、井戸遺構の西方に貝殻が散らばった層が確認されているのは、ゴミ捨て場から洪水で流された跡です。自然の貝層なら、かなりの厚みの土砂層の中に貝が散在します。
203 遺跡附近の現在の標高が約5mで、遺跡の発見された地点が表土下1.5mであるから、***現在まで1.5mの土砂の堆積を受け、約700年間における太田川の運び出した砂の量について一つの手がかりをあたえるものであろう。 太田川の運び出した砂の量を、流路の変遷の激しい所の局地的な土砂堆積高さから推測するのは不合理です。太田川三角州上の多くの地点でボーリングによる地盤データが出ていて、そこから三角州全体の土砂の堆積量、すなわち太田川が運び出した土砂の量が算定できます。この遺跡のあった付近は、芦田川の河原にあった草戸千軒遺跡のように、鎌倉時代には広い川幅の太田川の河原にできた市場だったかもしれません。その後、何回かの大洪水で累積1mを越える土砂が堆積し流路も変わったものです。
203 新庄橋附近に当時の海岸線が存在したものとすれば、遺跡の標高より2mから3m前後の地盤の上昇が推定され、****
***新庄橋付近以南に、弥生時代から古墳時代の遺跡も耕地なども存在しなかったことは指摘されるであろう。
鎌倉時代以降、現在まで、局地的にも広域的にも地盤が2mも上昇(隆起)するような事件(天変地異)は確認されていません。 そのような天変地異を想定しないと成立しない仮説は妄想にすぎず、新庄橋附近に当時の海岸線があった根拠は無いということです。そのような天変地異ではなく、当時の海岸線・河口がここから3km以上も南にあった、と考えるのが合理的思考です。
中世の厳島神社参詣記を読むと、満潮時には回廊の下まで潮が上がってくる情景が記されていて、現代とほぼ同じです。この点だけから見ても、「新庄橋付近に当時の海岸線が存在した」という説は成立しません。
「弥生時代から古墳時代の遺跡も耕地なども存在しなかったこと」は海岸線の位置と関係なく、三角州上の開墾や定住が困難だったことによるか、逆に、継続して人々が利用していたから遺跡に類するものが残らなかったかもしれません。静岡県の登呂遺跡が安倍川の三角州にあることを例外として、弥生時代・古墳時代の耕地の殆んどが小河川の扇状地や丘陵上に作られています。登呂遺跡の場合も、洪水のために埋もれて放棄されたもので、短期間しか使用されていません。
この部分の執筆者は、実質的に、鎌倉時代の海岸線が新庄橋付近にあったという説には根拠が無い事を証明しています。
237--238 **太田川を展望する時、戸坂、東原等にわたって***条里遺構がのこっている。****。太田川の西側では***の遺構があり**** ここでは、旧・祇園町付近一帯に条里遺構があることを解説されています。(p68--p69でも同趣旨の解説があります。)
条里地割が行われたのは8世紀ですから、これら遺構が20世紀の現代にも確認されたのなら、8世紀から20世紀まで、この付近には条里地割を隠すほどには土砂の堆積が無かったことを意味します。そのことは、河口・海岸の位置は、毛利氏が広島に築城した16世紀時点から8世紀に遡っても殆んど同じであることも意味します。
条里遺構の存在と、中世初期の河口が新庄付近にあることとは両立しないことです。
市史の執筆者は、このような矛盾した解説をしていますが、真実は、古代・中世において既に太田川河口・海岸は相生通り付近まで南下していて、それ以降の太田川下流域の土砂の堆積は厚くないのです。
240 (古代山陽道が山地の安川沿いを迂回している理由は)官馬による通行を主眼とするゆえに幅の広く流れの不安定な川の渡渉はできるだけ避けようとしたこと、山地は不便なようでも往復できる幅員をもつだけで事が足りる*** 理由としては成立しません。
太田川を渡るのは、祇園附近で渡っても牛田以南で渡っても基本的には同じことです。むしろ、下流の方が川幅が広く、水深は浅く、流れは緩いから渡り易いといえます。
「渡渉」とは川を渉る意味ですが、上記p203の記述とは異なり、新庄橋より南に幅の広い川が流れていた、従って、河口ははるか南にあることを認めていることになります。
247-248 荘園では年貢を中央の領主に送るため海岸に倉敷を設け、ここから大船に積載して輸送した。***海辺に臨まない荘園はできるだけ河の水路を利用して小舟に年貢を積んで海岸に出るようにし、その河口に倉敷を設定した。 倉敷が大河の河口・海岸の近くにあることは、絶対的立地条件ではありません。
太田川下流部の志道原荘の倉敷は伊福郷に設けられたが、荘園領主は厳島神社であり、年貢は厳島神社へ送るものだから小舟で充分です。

第二巻・政治史編
ページ「市史」の記述評価
1(旧広島市域は、)はるかな原始・古代のころには、ときに相交わる河海の水におおわれた海底の一角であって、***、江波・比治・仁保の山々にいたるまで、瑠璃一碧の広島湾上に碁布する島々であったと想像される。 古代はもとより、遺跡の確認される縄文・弥生時代において、旧広島市域の太田川三角州は広い範囲で陸地になっていて、海底の一角ということはありえません。第一巻・総説編のp160で、縄文時代後期から晩期にかけて営まれた比治山貝塚について解説されています。貝を採取するには、かなりの長時間、かなりの広さで干潟が現れている必要があります。これから類推すれば、旧広島市域の北部は縄文時代後期において既に陸地化し、中央部以南も干潮時には地表の現れる干潟になっているのです。
18,弥生時代の太田川三角州を参照ください。
11 この図は、古代の郷名・郡名・駅名の分布を示すものですが、当時の海岸線についての市史執筆者の理解内容を現しています。
図で赤丸を付けた所は、八幡川、太田川、瀬野川の河口位置を示しています。八幡川と瀬野川の河口位置は、現代の地形図に当てはめてみると標高3m付近にあり妥当な判断です。ところが、太田川の河口は現在の標高が15m近い安佐南区八木付近に描かれていますが、そのようなことはありえません。古代の太田川の河口も、現代の地形図で標高3mの相生通り付近(赤線付近)にありました。
19,古代山陽道と広島湾および、補足2、太田川三角州の発達の図を参照ください。
さらに、比治島・仁保島の位置を、実際の位置よりも遥かに西へずらして陸から離れた海上に浮かんでいるように描いているのも、上記p1の「広島湾上に碁布する島々」のイメージを表すための偽装です。これは、地理を誤解しているのではなく、意図的な偽装です。真面目に既存の地図を基に忠実に描けば、島の位置が大きくずれることなどありえません。
17国府・郡家の所在地や郷里の命名は、交通の便に富む集落地域によるのが原則であったらしいのであるが、駅家もまた同様であって、「大宝令」の三十里(今の五里)ごとという法規的原則よりも、この実際的な原則の方が一般に行われていたらしい。 国府・郡家、郷里についてはその通りですが、駅家にはそのような原則はありません。駅家の位置が確認されている所には、大きな集落の無かった所も多くあります。古代山陽道に関しては、平坦地では概ね15km、山間地では概ね10km間隔で、所要時間や現地負担が均等になるよう駅間距離を配分して駅家の位置を決めており、その事こそが実際的な判断だったと言えます。19,古代山陽道と広島湾と、33,古代山陽道と賀茂台地を参照ください。
28**建久二年の記録ではあるが、「牛田庄墾田七十九町」と記されているから、****。太田川口に近い牛田は奈良時代低湿地であった。 牛田は低湿地ではなく、また河口の近くでもありません。古代に遡っても三方の山並みから下る川により作られた傾斜地や扇状地であって、標高が4mから40に至る緩傾斜の水はけのよい平地です。18,弥生時代の太田川三角州と、20,牛田荘と五箇浦を参照ください。
築城前は、牛田と箱島(白島)の間を流れる神田川(京橋川)の川岸でも標高2.5m-3mです。平水時は河原が広がり、一部には葦などが生えている状態でした。この付近の流路勾配は約1000分の1で、滞留すること無く流れていましたから湿地ではありません。七十九町の面積を実際に地図上に当てはめてみれば、湿地などあり得ないことは一目瞭然です。
62 安芸の政治の中心は太田川口左岸の府中から右岸に移ったが*** 太田川本流から府中までは約5kmも離れています。府中は左岸ではありません。
73 (了俊は)海田浦を出発して海岸沿いに進み、太田川を渡渉し佐西郡に入っているが、***。 了俊が海岸沿いに進んだ、ということに合理的根拠はありません。
余禄3、「道行きぶり」中の海田、を参照ください。
73 古代の官道は海田から山手に入って国府越峠を越えて府中に通じ、さらに太田川の河口より少し上を渉って*** 海田まで下ってきて山手に入るなら船越峠を越えます。 甲越峠を越えるつもりなら海田のはるか手前の中野から畑賀へ入ることになります。どちらのコースを主張したいのかわかりません。
また、この場合の官道は太田川の河口より遠く離れて通っていました。19,古代山陽道と広島湾を参照ください。
102 五ヶ村デルタの干拓を活発に行い*** 干拓とは湿地干拓または干潟干拓のことです。五ヶ村は中世には湿地でも干潟でもなく安定した陸地になっていましたから、干拓が行われたのではありません。
119 この地の治水と干拓事業が***。潮止めの堤防を築かせ***干拓を奨励*** 潮止め堤防ではなく、太田川出水時の冠水を防ぐための堤防です。治水のための堤防であって、干拓のための堤防ではありません。
121 **長年にわたり五か村の干拓を進めさせている土木技術の経験が、あえてこの低湿地に城郭を築こうとする自信をいだかせたのであろう。 上記、p102・p119の場合と同様の誤りです。また、築城地点は標高2m~3mの高燥地であり低湿地ではありません。当時の太田川本流は現・放水路の経路付近を流れていたので、出水時にも洪水の直撃を受けないだろうと予測されたこともあって築城地点として選ばれました。しかし、後に流路が変わって頻繁に城下が浸水の被害を受けています。
279 天正17年広島築城の以前から、五ヶ村デルタの干拓が盛んに行われていたことは、*** 上記、p102・p119の場合と同じ執筆者による誤りです。この部分の執筆者は広島県史・総説編(1984年)でも同趣旨の記述をしています。1980年頃には充分な資料も揃っているのに!!

第三巻・社会経済史編
ページ「市史」の記述評価
31--32佐東川下流域の低湿地は***倉敷地が設けられたころ、すでに堤防が整備され干拓が進められていたと思われる。しかし、ときどき洪水がおこってせっかくできた水田も一時荒廃することがあった。
**佐東郡上耕町の水田は永仁3年の洪水によって荒廃して河成となっている。****灌漑用水として佐東川から水をひいていたものであろう。
ここの記述から、市史の執筆者が、満潮時の海水流入を止めるために潮止め堤防を築く干潟の干拓と、洪水から守るために治水堤防を築く氾濫原の開墾とを混同していることが明瞭にわかります。前者は海岸・河口よりも沖側で行われる活動であり、後者は河口よりも上流側で行われます。
そもそも、倉敷近くの佐東川(太田川の古称)下流部に堤防が整備されたという確かな資料は存在しませんし、ここに低湿地があったという証拠もありません。
太田川の平水時の水面は両岸の土地より低いので灌漑用水として利用することは困難です。近世になって八木用水ができるまで、この付近が水不足に悩んでいたことも執筆者はご存知ないようです。

第四巻・文化風俗史編
ページ「市史」の記述評価
1原始時代から古代にかけて、現在の広島市域の大部分は海底であり、周辺部の海岸と比治山・仁保・宇品・江波などの小島が、わずかに陸地として存在していたにすぎない*****。 第二巻冒頭の記述と同様に、「市史」の記述は、確かな根拠に基づくものでなく、執筆者の空想に過ぎません。



全体を通して言えることは、新修広島市史が執筆された1960年頃に科学的データが無かったのではなく、執筆者に科学的思考力が欠けていたということです。 ここには、確かな資料に基づいて歴史的真実を追究しようとする姿勢は無く、根拠の乏しい思い込みから抜け出せない状況が見て取れます。

総説編のp51~57(第1編の2、広島の地形)で、広島市街地部における太田川三角州形成が解説されていますが、縄文海進のピークのころに新庄橋付近まで陸地化し、8世紀よりはるか昔に新庄以南の市街地まで陸地化していたことを示しています。さらに、総説編のp160で解説されている比治山貝塚の状況から、およそ3000年前には既に比治島の周りが浅い干潟になっていたことを示しています。
ところが、古代・中世史の執筆者はそれを理解していないようです。川・海岸線・道・地割りなどを描いた平面的地理は理解できるが、これに高さ・深さを加えた立体的地形は理解できない、あるいは、ご自分の専門分野に特化した単眼視的発想しかできないようです。


参照資料:   新修広島市史・全7巻(1959--1961年)、広島新史・地理編(1983年)、中山村史(1991年)、戸坂村史(1991年)、講座日本技術の社会史⑥土木(1984年)、新修倉敷市史・第2巻(1999年)、


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