広島城と原爆

1945年8月6日午前8時15分、一発の原子爆弾が広島の町を一瞬のうちに破壊しました。広島城も例外ではなく、江戸時代から残っていた建物や、広島城内にあった軍関係の諸施設はほとんどが跡形もなく破壊しつくされたのです。
ここにある銅版は、広島市内の各所に設置されている原爆関連のプレートですが、ここにあるのは広島城関係のものです。城内及び周辺にあります。

広 島 城 陸軍第五師団兵営跡 中国軍管区司令部の地下通信室
内堀の外、北東隅にあります。 二の丸表御門を出て、右手にあります。 中国軍管区司令部地下通信室の入り口にあります。
爆心地から約1000m 爆心地から400〜1200m 爆心地から700m
(説明版の記載)
 毛利輝元が1589年(天正17)築城以来、350余年広島の歴史とともに歩んできた広島城は、1945年(昭和20)8月6日午前8時15分原爆の一閃により、五層楼の天守閣も跡形なく崩れ落ち石垣だけが残った。城内の樹齢数百年の老杉は全滅し、濠一面に生えていたハスの葉も焼けただれた。また、炎から逃れてきた人々がこの濠で多数死亡した。

(説明版の記載)
 広島城天守閣を取り囲むように並んでいた司令部や各部隊の木造2階建兵舎など、すべての建物は1945年(昭和20)8月6日原爆により瞬時に崩壊し、火炎に包まれて灰燼に帰した。
 倒壊した建物の廃材が散乱した中に兵士や軍馬が投げだされ司令部をはじめ歩兵・砲兵・輜重(しちょう)隊の約1万人の兵士が死傷した。



(説明版の記載)
 広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の作戦指令室、通信室が設けられていた。この通信室では、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女生徒たちも働いていた。
 原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。  詳細は 中国軍管区司令部防空作戦室のページへ 

これ以外に、広島城内の原爆関係については、広島城の近代のページに少し触れられています。詳しくは こちら



江戸時代から残る広島城の建物の中で、原爆投下でなくなったと考えられる建物

建物 説明
天守閣 爆風によって、東側に倒壊しました。よく原爆によって焼失したと書かれていますが、間違いです。倒壊している様子の写真は、平和文化センター寄託品なので、このページでは紹介できないのは残念ですが、広島城で販売している「お城ってなあに?」の中に掲載されています。また、平和資料館で実施していた企画展にも天守閣の崩れた部分を背景にした写真も展示されていました。
中御門 原爆まで残っており、現在でも写真が門の入り口に掲示されています。原爆で焼けたため、門の両端の石垣が赤くなっています。右の写真のとおりです。
裏御門 櫓台同士を結ぶ上の部分はなく、下の門の部分だけが残っていたようです。被爆直前の航空写真で確認されていますし、昭和2年の中国新聞に写真が載っているようです。
「広島城の400年」による
表御門 原爆で焼けたため、門の両端の石垣が赤くなりましたが、現在の建物を復元するときに、強度が保てないため、新しい石垣に取り替えられたため、現在は残っていません。なお、戦前には大本営の立て札が立てられていたことが写真に残っています。また、原爆直前は、建物は江戸時代のものを改造していたそうで、復元するときには江戸時代の状態に戻したそうです。
平 櫓 残っていたようですが、新しく建てかえた建物かもしれません。詳しくは分かりません。
多聞櫓 残っていたようですが、戦前は途中で分断されていたそうです。被爆直前の航空写真で確認されていますし、被爆証言でもそのような記載があります。
太鼓櫓 残っていたようです。絵葉書などが残っています。



中国新聞の記事から
2月21日朝刊 「広島城に被爆の記憶」
という記事が声の欄に載っています。広島城の城跡が荒廃し、瓦が露出している。広島は瓦礫の上に立っている町であり、そのことを通して被爆や戦争の記憶を忘れてはならない、というような論調の内容です。なかなかよい投書でした。

広島城の史跡公園には、確かに地面にわずかに露出しているのですが、
絶対に発掘するとか、地面から掘りおこさないで下さい
(文化財保護法違反になります)
それはともかく、広島城は石垣も被爆していますし、大本営も被爆して台座を残すのみになっています。被爆樹木も大本営の横にあります。 
確かに、かつて私は、担当者の一人として、本丸の中央部を史跡確認調査で発掘をしたことがありますが、多くの瓦が出てきています。陶磁器や鉄製品などの遺物(発掘によって出て来た物体)もありました。

しかし、被爆によって表面がザラザラになった瓦(平和記念資料館にあるようなもの)は、それほどあったようには記憶していません。露出している瓦が被爆したものかははっきり断定できるわけではありません。しかし、広島城の本丸は、江戸時代にあった御殿の跡に新しい建物を建てており、その建物が崩れています。遺跡は、そうした建物の跡の上からも瓦が出てきているので、被爆の可能性はあると思います。

ただ、表土(表面の土)に撹乱(土がグチャグチャになっている)された状態なので、いつの時代のものか、よく分からなくなっています。ただ、瓦の生産年代から、推定する方法もありますが、これについては、本丸に「菊間」という名前の入った瓦が沢山出てきました。菊間とは、愛媛県の高縄半島にある町ですが、瓦の産地です(今でも瓦の博物館がある)。江戸時代の記録にも、すでにここの瓦を広島城に使用している例があるらしく、また分析によるとこの瓦は江戸時代から明治以降にまたがっているそうです(本丸の発掘調査報告書による)。平瓦はわかりませんが、模様の入っている軒平瓦は、時代が特定できます。報告書によると、遺構に関連したところでは江戸時代のものが、表土からはもっと新しいものが出てきているようです。
そう考えると、現在露出しているものは、古い瓦であるとは言いづらいのではないでしょうか。

被爆樹木については、
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