本丸上段部分

本丸上段は、かつて本丸御殿がありました。ここでは、藩主が生活する屋敷(北側)と広島藩の政治を行なうところとして機能していました。天守閣は、本丸上段の北西隅にあります。

北東から南西に向かってみた様子。中央に大本営の礎石が見える。

南東から北西に向かってみた様子。天守閣が見える。

 本丸御殿は、1874年(明治7年)に火事で焼けてしまい、現在は何も残っていません。史跡整備の関係の発掘調査で、その一部と見られる遺構(建物などの痕跡)が見つかったが詳細は不明です。ただし、本丸御殿の絵図は何枚も残されており、本丸の様子をコンピューターグラフィック(CG)で復元した書籍も発売されています。

溝状の土盛り(中央辺り) 方形状の土盛り(正面木手前)

平成8年度から、毎年1月(年によっては2月)から3月に、合計7年間にかけて、広島城の本丸の発掘調査を行いました(詳細は発掘調査報告書が出ています。ちなみに私もその担当の一人だった)。残っていた遺構は、壊さず、保護しながら埋め戻しています。そのため、埋め戻したところが、やや盛り上がっている箇所が本丸内に何箇所かあります。左のような溝状の掘り方は、発掘調査で遺構を確認するために実施しますが、トレンチと言います。余談ですが、トレンチコートは、第1次世界大戦の時に、トレンチ(塹壕)で着た服が語源となっています。


小天守台   

天守閣については 広島城の建物 へ

東小天守

天守閣第5層から見た東小天守台(写真奥)

花見シーズンはこのとおり
左に少し天守閣が見える。東小天守台は右手に当たる 手前の広がっているところが小天守台
南小天守
右に少し天守閣と渡り櫓の一部が見える。南小天守台は左手に当たる 天守閣第5層から見た南小天守台(写真中央、人が立っているあたり奥)
この場所についての説明は、広島城で今後発行予定の「しろうや!8号」で記載されています。
露出している礎石

広島城は、現在残る天守閣(大天守閣)の東と南に小天守閣がありました。大天守閣と小天守閣の間をつなぐ渡り廊下があり、現在残る天守閣の受付はその名残です。明治初年に小天守閣は取り壊れましたが、天守台も残っており、また一部では礎石が露出しています。


礎石

天守閣の下にある礎石ですが、実際にこの場所にあったものではなく、天守閣を復元するときに、移築したものです。 天守台に残っていた礎石を一部移築して露出展示しているものです。

大本営跡

大本営は、日清戦争が行なわれた折に大本営が設置されたところで、原爆で倒壊するまで残っていました。大きさは東西約33m×南北約11mあります。左の写真奥に写っているのは天守閣です。
北西から。時々芝刈りをしていて、昼で途中で中断したため、ぼうぼうのところも残っている。 大本営東に、付属していた建物がある。
正面にあった礎石で、入り口の柱を支えていた 建物の内部も礎石が残っている。部屋の配置図も明らかになっている。

昭憲皇太后御座所跡

北東から 北西から
左の写真は正面から見たものに
なります。
(南から北へ撮影)

 大本営はよく知られていますが、ここはあまり知られていません。何も案内板がないので、事前に調べておかないと、何も分かりませんのでご注意ください(このサイトをごらんになった方はラッキーです!!!)。先に述べた大本営から南西にいったところに同じような礎石があります。昭憲皇太后は、明治天皇の后で、日清戦争の折に滞在した場所です。大きさは東西約26m×南北約10mあります。大本営と同じく、原爆で倒壊するまで残っていました。


クロガネモチ

大本営の近くに、被爆樹木があります。詳しくは 広島城の植物 へ


本丸下段部分 へ


内堀の中に残る広島城の痕跡 へ戻る

トップページへ