余禄1、和歌の中の「せの山」と大山峠、


ここは都と大宰府を陸路で結ぶ古来の幹線道路が通っていますから、様々な人が行き来して感慨を記しています。
それら古文書や古歌に記す「せの山」や「せのの大山」という言葉は、現・曾場ヶ城山を主峰とする山並みを意味し、旅に関わる場合は現・大山峠を指します。この山並みの北に古代の大山郷、西に中世の世能村が開発されました。
(曾場ヶ城山の名は、戦国時代の山城の名に由来します。)

万葉集にある次の歌(291番)は、大山峠を越えた時の情景です。作者の名は小田事(をだのつかふ)。
    真木の葉の しなふせの山 偲はずて わが越え行けば 木の葉知りけむ   真木=大きく成長した木
枝が撓むほどに葉の茂った木々の景色を観賞するゆとりもなく急いでせの山を越えて来たが、私の心を木の葉はわかってくれたようです。坂を下りた所で小休止し、通り過ぎた山中の新緑の景色を思っています。「偲はずて」と詠いながら、実は木の葉をしっかりと眼に留めています。


もう一つ、万葉集の歌(1676番)。作者不詳。
    せの山に もみち常しく 神丘の 山のもみちは 今日か散るらむ 
せの山には盛りを過ぎたもみちの葉が散り続いています。神丘の山のもみちは今は散っているでしょうか。はるばる遠く離れた地に来ている、という思いはひとしおです。

上記2首が詠われたのは7世紀後半です。

平安時代(9世紀)の歌人、在原業平に次の歌があります。
    おぼつかな 天のみ川の 流れかや 瀬のという名を 山に聞くとぞ
浅い流れを意味する「瀬」という名を山の名に聞くのは不思議なことだ。ここには天(空)にのみ川が流れているのだろうか? 麓から見上げると尾根まで500m近い標高差に「天の川」を思い浮かべたようです。また、「天の川の瀬」を詠った歌は万葉集に多数あり、それを踏まえての業平の歌とも解せます。これは一種のユーモアですが、当時は「せの山」という山名は存在したが、麓に「せの」の地名が無かった事を示しています。「せの」の地名が初めて文書に現れるのは、12世紀の「世能荒山荘」に関する文書です。

平安時代(10世紀)に地方官を歴任した源重之には、次の歌2首があります。
    横川の 瀬のの大山 水上に 立ちくる浪や 風のまにまに   水上(みなかみ)=上流
横川の谷口に立ち山並を見上げると、風が吹くままに木の枝が揺れ動いて、まるで波が立っているように見えます。「川」と「瀬」に「水上」と「浪」を続け、川の情景に喩えて山の情景を詠っています。
横川は「瀬のの大山」から流れ下って瀬野川本流に入る細い支流。
芸藩通志には上瀬野の八幡宮(平山神社)では横川の水を汲んで酒を醸したと伝えており、「瀬のの大山」を御神体として崇める大山姫宮以来の習わしのようです。


    花やかに 同じ夕べか 安芸の国 せのの大峰 十八色の山   十八色(とやいろ)=注記4を参照
安芸の国、瀬野の大山に来て見ると、木々の黄葉が濃淡や色相を様々に今を盛りと色付いて、花やかに夕日に映え、同じ日本の中の秋の夕景色とは思えないほどです。「安芸」には「秋」の意を含み、「大峰」は見上げる山の高さを印象付けます。
枕草子には、「秋は夕暮、夕日花やかにさして山際いと近くなりたるに・・・」という描写がありますが、それと対比できます。源重之は清少納言と同時代の人。
都のもみじは楓が主体の赤い紅葉ですが、この地では様々な樹種が黄、赤、茶と色相を変え、濃淡を変えて色付いています。


時代も作者も定かでありませんが、さらに2首。
    里までと まづはそそらん 旅人の のぼるもくだる せのの大山
大山峠を上り下りする旅人が一休みして、次の里までともかく頑張ろう、と心を奮い立たせています。歌の作者自身も旅人のようです。

    言の葉を 松に残して 散り失せぬ ためし変わるな せのの大山  ためし=例
瀬野の大山に来て見れば、木々の葉は全て散り果てて、わずかに松に残るだけ。語る言葉もありません。運悪く冬枯れの季節にここを通ったのが残念ですが、次の春にはまた来るから、例年のように変わることなく葉を茂らせてくれよ。



室町時代、武将で文人としても名高い今川了俊が、応安四年(1371年)に九州探題としての下向時にここを通り、その紀行文「道行きぶり」の中で次のように情景を記しています。

はづきの廿九日・・・  ・・・今夜は高谷(たかや)というさとにとどまりぬ。
又の日は、おほ山といふ山ぢこえ侍るに、紅葉かつがつ色付きわたりてははそ、柏などうつろひたり。日影だにもらぬ山中に谷川かなたこなたにながれめぐりて岩たたく音こころすずし。ふし木などのよこたはりつつ谷ふかき上をさながらみちにする所も侍り。

  紅葉ばのあけのいがきにしるきかな おほ山ひめの秋の宮ゐは

此山ぢこえすぎて瀬野というさとあり。ここもみな山あいのほそみちなり。駿河の宇津の山の面影ぞうかめる。
晦日(三十日)はかいたとかやいう浦に付きぬ。

[ 又の日=翌日、 かつがつ=早くも、 ははそ(柞)=コナラ、クヌギ類の総称、 日影=日差し、 ふし木=倒木、 あけのいがき=朱塗りの斎垣、 しるき(著き)=明確な ]

この年の陰暦8月30日は現在の暦で10月中旬ですから、ここの山中の紅葉は色付き始めています。「もみじ」を「紅葉」と書いていますが、ここでは赤いもみじが主ではありません。
了俊の描いた山路は大山峠を越えて瀬野の里へ出るまでの道筋で、道路整備のされていない時代ですが険路ではありません。古代山陽道・近世西国街道の経路です。峠から坂道を下りきった所にある平地で休憩し、「紅葉かつがつ・・」から「・・秋の宮ゐは」まで、散文では動的な、和歌では静的な秋の情景を記しています。
「谷川・・ 流れ巡りて岩たたく音心涼し」ですから、瀬野川の岸近くへ下りて水の流れる音が涼やかに聞こえています。
「伏木などの横たわり・・ 」は、暴風または土砂崩れで押し倒された木々が崖の上まで散らばっているのをそのままに脇を通る道。
「大山姫の宮」は集落にある朱塗りの斎垣を持つ小さな神社で、その周りには色付いた紅葉が映えています。
 (ここには少なくとも20町の農地を作れる緩い勾配の平地が瀬野川に面して広がっていましたが、了俊が辿った頃から現代までに、南および東側山地斜面からの土砂崩れに流され耕地は大きく失われています。一部は70年代に整地されて住宅団地になっています。また、大山姫宮は後に上瀬野の平山神社に合祀されたと伝えられています。)
了俊が紅葉の情景を描いた所から瀬野の里までは、狭い谷沿いの山路を辿って3km余あります。
「駿河の宇津」は、近世東海道の鞠子宿と岡部宿の間にあり、現在も国道1号線沿いに街並があり道の駅が設けられています。万葉集から新古今集まで、宇津の山を詠った歌がいくつもあることを了俊は思い出しています。対する「安芸の瀬野」は国道2号線沿い。

高屋から海田に至る30km余の行路で情景描写がここにしか無いのは、他の所がいかに平坦で平凡であったかを示しているのか、あるいは、ここが都にも知られた名所だったのかもしれません。

注記:

1、「道行きぶり」の中で、この日から21日後の陰暦9月21日には佐西から大野へ抜ける山中で紅葉が色濃くなった様子を、37日後の陰暦10月8日には周防の香河で紅葉の終わりを描いています。了俊は山陽路の西部で紅葉の始まりから終わりまでを観察しています。

2、既存の出版物の中には、了俊の和歌の中の第2句を「朱(あけ)の籬(まがき)に」と記し、「赤く色付いた紅葉が籬のように廻っている情景」と解説している例がありますが、この地のこの季節の情景としては不自然です。冒頭に、「柞、柏など移ろいたり」と記されているように、ここの紅葉は黄色や淡い茶色が主であり、赤色はわずかです。誤写・誤記・誤解により「いがき」が「まがき」にされています。こんな山中に神社があるはずがない、という都人の偏見による誤りです。たとえ小さな神社であっても籬はありえず、朱塗りの斎垣が通例です。最も原文に近い写本では、この部分を「ゐがき」と記されています。斎垣の本来の読みは「いがき」ですが、「道行きぶり」の中には「い、ひ、ゐ」や「お、ほ、を」などの同音異字の混用がいくつもあり「いがき」とすべきを「ゐがき」と書いています。意味の上からは「いがき」と解するべきなのに、くずれた書体では「ゐ」と「ま」は似ているため、「まがき」と読まれたようです。

3、近世初期に大山姫宮が合祀された上瀬野の平山神社の社記には、大山姫宮は大同元年(806年)の創祀と伝えています。そうすると、古代山陽道がここを通り大山駅が置かれた頃に大山姫宮は建てられたことになります。日本後紀によると、大同元年には山陽道の各駅舎の修理が指示されています。12世紀に記された安芸国神名帳には、厳島神社に合祀されている神々の中に大山度姫明神を載せており、それは、ここの大山姫宮から分祀されたことになります。

4、上記5首目の歌を文化度国郡志は、「花さかり おなしゆふへか 安芸の国の せのの大峯 十八いろの山」と伝えています。「十八いろ」は、もみじを意味する「栬」の文字を分解して「十八色(とやいろ)」とし、もみじの色の多彩さを、クイズのような形で表現したようです。しかし、「花盛り」は春の桜の情景で内容が矛盾しますから、「花やかに」の誤読・誤写のようです。以前使われた変体仮名の中には「さ」と「や」、「り」と「に」が似ているものがあります。
「木」を「十八」に分解して「松」を「十八公」と書いた例もあります。


上記に紹介した古代から中世にかけて記された8首の歌に共通するのは、峠から下りた所の平地で一休みして詠われていることです。峠からの下り坂を歩きながら歌を書き留めることはないでしょうから。単に平地があるだけでなく、小さな集落があり建造物もあったことを想像できます。また、古代から中世にかけてのこの地の情景は、近世以降、現代までの情景とかなり異なる事をこれらの歌は示しています。

また、この山は、麓に住む人達からは単に「大山」と呼ばれ、旅人からは「せの山」、「せのの大山」と呼ばれていたと考えられます。「せの山」と言う場合は(立山、箱根山、鈴鹿山が、それぞれ特定の頂上を持つ山の名前でなく山並みの総称であるように)、付近の山並みの総称で、「せのの大山」は主峰の曾場ヶ城山を指すようです。10世紀に記された「倭名類聚抄」と「延喜式」で、それぞれ「大山郷」と「大山駅」の名が記されます。大山峠と賀茂台地をご覧ください。

なお、万葉集と「道行きぶり」の中の歌を除く5首は、文化度国郡志または芸藩通志の上瀬野村の部に記載されていますが、元々の出典は不明です。業平には厳島を題材にした歌があるので、同時期の作かもしれません。重之の場合は、任地の筑紫と都の間を行き来する間に、この地で歌を残した可能性があります。重之の歌集「源重之集」には上記の歌は載っていませんが、題材と表現には通じるものがあります。


参照資料: 瀬野川町歴史探訪(1980年)、中世紀行文学選(1995年)、広島県神社誌(1994年)、日本の古典・万葉集(1985年)、源重之集(1988年)


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