船越にも古くからの小社(おやしろ)が多数あり、公民館が編集した「船越の社」という資料に社名、位置、祭神、由緒などが詳しく紹介されています。 その資料を参考に、歴史的な視点からこれら小社の意味を考えてみます。 古代は、仏教の影響を受けつつ、自然神崇拝から人格神崇拝へ変わっていき、各地で神社が造営された時代です。その中で、朝廷が認めた神社は一村一社、一郷一社を超えるものではなかったようですが、中世以降、各地の民衆の活動が活発になり、村の有力者が自力で勧請した神社が多数造営されました。 船越の小社も下記のように10社を超えますが、これら小社の造営の歴史は地域の発展を示す証の一つです。 ①、花都、八幡社・恵比須社 八幡社の祭神は応神天皇で、武神とも地域の守り神ともいわれます。天長3年(826年)には、下記の新宮社、祇園社と共に奉祀されていたと伝えられており、その頃すでに小さくとも社を造営し維持できる規模の集落があったことになります。 中世には、飯ノ山に城を築きこの附近を支配した有力者が崇めたと推測され、立地からみて飯ノ山の麓を拠点に西は的場川、東は奥ノ谷川の流域までを支配していた可能性があります。 現在、社殿のある地点は船越と海田の境界線の傍にあり、参拝するには海田町を経由しないと行けないので奇妙な感じですが、明治20年までは、ここの南側の広い範囲が船越村の村域でした。海田市宿・新町屋敷で説明。 恵比須社は海運の神で、中世の後期には海を生業の場とした村人も増えてきたようです。 ②、新宮社 祭神は稚日女(ワカヒルメ)尊とされていますが、同一敷地にある古墳自体を祀った小社が起源とも考えられます。 同じく稚日女尊を祀る神戸の生田神社の場合は、祈雨・鎮疫の神とされているので、船越の新宮社も同様の願いから勧請されたのかも知れません。この地域に溜池が多数あることでわかるように、村人にとって旱魃は重大な問題でした。 紀州の熊野新宮とは祭神が違うので他の系統の新宮のようです。 寛永15年の地詰帖には、新宮社の傍で、「宮のまえ」、「宮のわき」、「宮のわきの下」という地名の合計6反(6000m2)の面積が記載されていますから、村人にとって大きな位置づけがあったかもしれません。 ③、片山、稲荷社 祭神は農耕の神で、鳥居川流域の農民が祀ったものです。小社の位置は、元来は鳥居川をはさんで東側の丘(平原山)にあったのが、嘉永年間(1850年頃)に現在地に遷座したと伝えられています。 鳥居川の名前も稲荷社の鳥居に由来すると考えられます。 現在の社殿のある附近で、土器など弥生時代の遺物が発見されていますから(船越町史=p62)、この地域の歴史が弥生時代に始まることの証です。 ④、祇園社、黄幡社 祭神はスサノオの尊で地域の守り神でもあり農耕神でもあります。中世もかなり始めの頃に勧請されたようです。 明治始めの神仏分離令で仏教の影響を受けた祇園社・牛頭天王社という社名は変更を求められ、全国の該当神社の多くはその土地の名を付けた社名に変えられました。現在の黄幡社も、元の祇園社から名を変えたものです。 大本の京都の祇園神社も八坂神社に変わっています。 寛永15年の地詰帖に、「大ばんかいち」と「天王かいち」という地名が記載されているのは、この小社の建っていた地点のようです。 ⑤、庚申社 祭神の猿田彦は道祖神として道路の分岐点や集落の外れに祀られます。中世までのこの地点は、海田から府中へ抜ける幹線から西の堀越・向洋へ向かう道の分岐点で、中世の集落の中心が祇園社附近にあったと考えれば庚申社の立地を納得できます。 ⑥、水分社 各地にある水分神社と同様に、的場川の水源を祀る小社ですが、川のみでなく水を生み出す山塊全体も含めて対象とされています。祇園社と同様に中世の始めの頃に勧請されたようです。 以上の小社は、中世またはそれ以前に造営されたと伝えられます。近世の始め、寛永年間(1630年頃)の船越村の総人口がようやく350人ですから、それぞれの小社が造営された時点では、それをお守りする個々の集落の人口は100人未満だったと思われます。昔の村人の信仰心の篤さがうかがえます。 また、全体としての立地をみると、花都川流域の八幡社と的場川流域の祇園社の二つが並立して地域の中核だったと推測できます。 以下は近世以降の勧請・造営です。、 ⑦、竹浦、大歳社・稲荷社 祭神はいずれも農耕の神で、岩滝山の南東山麓の農民に祀られたものです。 この小社の前に、「従大年社 往還迄 長百五十六間 巾六尺五寸」と刻んだ明治8年建立の道塚があります。通いなれた村人にとって道標(みちしるべ)は必要ありませんから、これは大歳社から往還道までの道を拡幅した(または開通した)記念のようです。 156間(280m)の長さは現在も変わりませんが、6尺5寸(2m)の巾は、現在は車が通れる3m程度に拡げられています。 ⑧、引地、恵美須社・荒神社 祭神は漁業・海運の神で、近世(江戸時代)に海運・商業に従事する村人が増えてから勧請されました。 ⑨、岩滝神社、天満宮 岩滝神社は明暦2年(1656年)に八幡社、新宮社、祇園社の3社を合祀して造営されたと伝えられています。 祭神は八幡社の応神天皇と祇園社のスサノオの尊に加え、仲哀天皇、神功皇后、イザナギの尊が祀られていますが、新宮社のワカヒルメの尊は含まれないので、実際は2社の合祀です。 広島藩は、花都川流域と的場川流域とを融合させ、一村一社の総社を創り、支配体制の一助としたようです。 参道に建つ常夜燈は3対あり、鳥居のすぐ北にあるのが最も古く明治12年の建立、他の2対は昭和43年と昭和49年。村にとってさほど大きな存在ではなかった事が窺われます。鳥居は大正4年。 天満宮は享保14年(1719年)の勧請で、(現代は学問の神として崇められますが)当時は自然災害防除祈願のためだったようです。 |