文化年間(1810年代)に測量・作成された伊能忠敬の全国沿海地図は有名ですが、そこには広島湾周辺も含まれています。 伊能図は海岸の地形を重点に描かれていますが、現代の技術から見ても精度の高いものとして評価されています。 そこで、現代の地形図の上に、伊能図の中の海岸線と既に存在していた新開の土手を書き込んでみました。 現代の地形図では海岸線は一般的には満潮時の汀線ですが、伊能図の場合は海抜1m程度の等高線が海岸線になっているようです。伊能図では、大潮ではなく中潮の満潮時の汀線だとすれば納得できます。なお、伊能図では海として描かれていますが、海田湾の北東側の大部分は干潮時には地表が現れる干潟でした。 伊能忠敬による測量から間もなく、この地区には松石新開が造成されますが、その大部分がまだ満潮時には海面下に没する状態ですが、一方、西方の堀越側では、既に陸地化が先に進んでいたことがわかります。 補足、堀越の水路で説明したように、この附近は堀越の水路を通じて西から流れ込んだ土砂が堆積していたことを示す証です。 伊能図が作成されるよりわずか20数年前の安永年間に、仁保島村(堀越)と船越村との間に「潟争い」が生じています。藩の裁定により設定された境界線が現在の的場川の流路になっています。もし伊能図が正しいならば、藩の裁定は極端に船越村に有利なものだったことになります。 |
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