番外1-2、地名の由来、その他


地域の歴史を語るものとして、古くからの「地名」は有力な情報の一部です。その中のいくつかについて考えてみます。
始めに、「寛永15年(1638年)船越村地詰帳」に記載されている地名を全て、記載されている順に記します。
①から④のグループ分けは11、地名と地割①に準じます。
これらの地名の大部分は現在使われていませんが、由来の推測できるものについて、その下に記してみます。
当該地の位置については、11、地名と地割①12、地名と地割②をご覧ください。
地詰帳の中で、3筆以上にまたがる地名に他の地名が割り込んで並んでいる場合は一つにまとめていますが、二つのグループにまたがる場合はそれぞれのグループに記しています。グループ分けは当時の村内の主要道に拠っていて、例えば、「竹うら」はグループ①と②の境となる道を挟んで広がっていました。

①、石ほとけ、そり、はま1、あかはね、中のかいち、そり、ついじ、代田、竹うら、石田、がわた、うしろさこ2、すまるさこ3、かやはら4、とうのうね、神田5、はなと6、水渡し7、はま8、ひら、岩崎9、いつもさこ10、ひかしひら、こもめん11、飯ノ山12

②、竹うら、あかはね、弐百め13、といのわき、木舟、あせち、あせちさこ14、さこ15、あせち広前、宮のまえ16、宮のわき17、宮のわきの下18、出水、かり畠、かげいた、いのこかいち、いのこかいち神田19、といしば、しげみつ、かんどり、ささはら、まきかつほ、ひるた、天上、かんよう、かり山、かり畠、

③、どい20、引地21、城の下とぎや、木舟城の下、城の下22、木舟23、とうの尾、城のどい、下こや、城のほり、竹のひや、市場24、すな*た、ひがしさこ25、片山26、ため松、門前、中そね、萬町27、林の下、さこた28、藤ノ木、寺さこ29、油免30、いやかさこ31、所、つちとり、寺のとい、かみかいち32、横畠、大さこ33

④、浜出口34、はま35、たいしろ、藤ノ木、おしおへり、宮のわき36、蔵もと、西こや、西のくほしり、天王かいち37、道はまみ、大ばんかいち38、 **町、西のくほ39、さやめん40、西こや、かたひら、みのこし41、こうけた42、まとば43、たお44、池のさこ45、道の下、はき原、ほそだ46、たお道の下、あかさこ47、竹の後、竹之内、石田、大前、荒神48



以下、推測による地名の由来。

「はま1」、「はま8」、「浜出口33」、「はま34」、

「はま」という地名は、花都川の河口付近と鳥居川の河口付近と2ケ所にあり、文字通り海岸に近い所ですが、波しぶきのかかる所では農地は成立しませんから、実際の海岸線から少なくとも数十メートルは離れていたようです。

「うしろさこ2」、「すまるさこ3」、「いつもさこ10」、「あせちさこ14」、「さこ15」、「ひがしさこ25」、「さこた28」、「寺さこ29」、「いやかさこ31」、「大さこ33」、「池のさこ45」、「あかさこ47」、

「さこ」の付く地名は船越村地詰帖には全部で12箇所あります。いずれも谷筋を開墾した所です。

「かやはら4

現在は「開原」と表記されていますが、元は茅の生い茂る土地だったようです。

「神田5」、「こもめん11」、「いのこかいち神田19」、「油免30」、「さやめん40」、

いずれも、神社へ収益を納めることで年貢を免除されていた所。収益を納めた先は、安芸一宮の厳島神社か国府総社のいずれか。「さやめん」は「さかめん(酒免)」の誤写のようです。

はなと6

日浦山から南西に延びる尾根がいくつかに分かれた先端にあり、地形による地名。

「水渡し7

花都川の河口付近で川を渡った所。近世西国街道の橋もこの付近に架けたようです。

「岩崎9

これも日浦山から南西に延びる尾根の先端の崖になった所にあり、地形による地名。

「飯ノ山12

中世山城のあった飯ノ山の山腹を開墾した所で、すべて畠でした。

「弐百め13

中世の年貢高を表すのに、銭貨を使った名残りです。弐百め=200文目。

「宮のまえ16」、「宮のわき17」、「宮のわきの下18」、

これらは「新宮社」に隣接した所で、それに由来した地名。

「どい20

地詰の行われた当時の庄屋の屋敷がありました。「どい」は中世土豪屋敷の「土居」に由来するようです。この地は近世船越村のほぼ中央に位置します。

「引地21

県内各地に「引地」という地名がありますが、いずれも山裾にあり、地形に由来する名です。ここでは木船山の山裾に広がる地です。

城の下22

中世の山城のあった木船山の麓にあります。

「木船23

近世以前の海岸沿いの地。おそらく、「来船」に由来し、船着場があった所。

「市場24

ここに中世以前の交易の拠点があったようです。

明治になって地籍整理後、地詰帳で隣接する所が合併して地名としては消え、代わって「荷場」が現れます。事情は不明ですが、近年の町村合併で、新しく生まれた町の名を、合併前のいずれの町村にも無い名を選んだようなものです。「市場」があれば、商品を置くための「荷場」があったのも当然です。

片山26

片山は山の半分、つまり山裾の傾斜面を表します。

萬町27

「よろづまち」と読むようです。これに使われているのは当て字で、「よろ」は「弱」の意味で崩れやすい所、「つま」は「妻」の意味で崖・急斜面のある所。この場所は、岩滝山の頂上からほぼ真西に下る谷筋の延長で、古い時代の断層の名残の破砕帯に当たる場所。ここから西に向かうと、南流していた的場川が西向きに方向を変えるのにつながりますが、破砕帯に当たって的場川の流路が曲げられたものです。

「かみかいち32」、「天王かいち37」、「大ばんかいち38

「かいち」は漢字で「垣内」と書き、「垣で囲んだ区域」という意味で中世に起源する地名。「上垣内」のすぐ南に隣接して「大ばんかいち」と「天王かいち」があります。

「宮のわき36

祇園社(黄幡社)の傍の土地。

「西ノくほ39

明治になってからの地籍図には、松石新開の北西側を「西久保」と表記しています。
宝永3年村図の西新開が造成される前に、その北側にあった小字名のようです。「くほ」は「窪地」の意味でしょうから、排水の悪い低地があったようです。

みのこし41

中世の田所文書には「見之古志より北に東浦と西浦がある」という意味の記述があるので、元来は、今の西古谷地区を東西方向に水路があったことに由来してできた地名のようです。近代になって、「水越」と書かれます。

「こうけた42

漢字で「小請田」と表記しますが、安芸国内の古文書には「こうけた」という地名があちこちにみつかります。これは水持ちの悪い田を意味したようです。地詰帳によると反当り収量が平均の半分程度しかありません。地形的には破砕帯にできた川筋にあります。現在の船越墓地の南。

「まとば43

的場は弓・銃の試射場です。
中世はもちろん近世でも鹿などを捕獲するために農民は弓・銃を常備し、当然、試射場が各村・集落にありました。
とはいえ、農地の中や道路沿いに設けることはあり得ません。現在は住宅団地となっている、かつての「的場山」の上が平坦ですから、ここを的場として使ったようです。
ただし、地詰帳に載っている「まとば」は的場山の麓にあった農地と考えられます。

「たお44

広島県・山口県には「峠」や「垰」と書いて「たお」と読む地名が多数残っています。
現代語の「とうげ」は「たおこえ(越え)」が転訛したものと言われています。つまり、「たお」が現代語の「坂」の意味で、「こえ」が現代語の「峠(とうげ)」の意味だったと考えられます。芸藩通史の各村図や文化度国郡志にも多数の「**峠」や「**垰」の表記がありますが、その中に「坂」を意味している場合があります。
船越村地詰帳に載っている「たお」は、的場川を渡って府中へ向かう上り坂の傍らの土地と考えられます。
また、「文化度国郡史」にある「的場峠」は、「芸藩通史・船越村図」の「マトバ坂」と同じものです。

他村の例では、船越峠を府中村側に下る坂道を「芸藩通史・府中村図」では「比丘尼峠」と記しています。
さらに、「文化度国郡志」の「中野村」の部分で、往還筋に権現垰、井原垰、姫ヶ垰と記し、「奥海田村」の往還筋に畝垰と記しているのは、いずれも標高差20m以下、道のり300m以下の緩い坂道の例です。
他には、旧祇園町・山本地区の山本川を遡る坂の途中に、3箇所の「峠(たお)」という地名がありました。これも、現代語の「峠(とうげ)」ではなく、「坂」を意味する地名です。

「ほそだ46

地詰帳でみると反収が低い土地なので、「ほそ」は「乾す」に由来するかもしれません。


「荒神48

現在の「庚申社」のある付近。「荒神」と「庚申」は元来は別種の神ですが、音が似ているので転用されたのかもしれません。




地名以外では、次のような例があります。

(A)「岩滝山」 

資料によって、呼び方・表記が次のように変化しています。
1、岩たけ山  (船越町史・宝永3年船越村図)1706年
2、岩瀧山   (船越町郷土誌・宝永3年船越村図)1706年
3、岩嵩山   (享保2年・船越村山帖)1717年
4、岩嶽山   (浜ちどりの記)1725年頃
5、イワタケ山 (寛保・道中図)1740年代
6、岩瀧山   (文化度国郡志)1810年代

明治以降は「岩瀧山」が一般的で、現代は新字体の「岩滝山」。
元来は「いわたけ」であったものが、ある時期から「いわたき」に変わったようで、そのきっかけが「船越町郷土誌」に掲載されている「宝永3年船越村図」にあるようです。 

(B)「鳥居川」 

村内の川の名は、多くが地名から採っているのに対し、これは「稲荷社」の鳥居に由来します。稲荷社は、かつては現在地よりはるか東の、平原山の山腹にありました。

(C)「市場山」と「木船山」

同じ山ですが、西から見て市場山、東から見て木船山と呼ばれ、旅程の目印になります。ここは中世山城の築かれた所ですが、現在は平坦になって住宅団地。


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