書評8、「船越町史」を正す

「船越町史」は船越町が広島市と1975年に広域合併した直後に調査・編集が始まり、1981年に刊行されました。
地域の歴史を知る上で貴重な資料ですが、内容に誤りや矛盾が散見されます。
他の資料やデータと照合すれば誤りは明らかですし、記述内容の間の矛盾もわかるのですが、誤解されたまま世間に受け入れられているようです。
以下にいくつかの事例を述べておきます。
各項の中で、最も多いのは昔の地形に関する誤解・検証不足です。

ページ船越町史の記述真実
  2「当時(文化年間)は、****、現在標高3mの等高線の辺が海岸であったと考えられる。」 (町史執筆者は、この部分では「海岸」を「海岸線」の意味で使っている。)標高3mの等高線までが海岸なら、当時存在していた西新開・東新開などの新開やその付近の西国街道が満潮時の海面下に没してしまいます。
広島城下町の実例から見れば、1.5mないし2mの等高線が海岸です。
 32「当時(縄文時代)の海面が、現在よりも約6m高かった***」 1万年にわたる縄文時代の全期間を通して海面が高かったわけでなく、定説では、縄文海進と呼ばれるおよそ5千年余前の短い期間のピークに1-2m程度高かったと言われています。
 83「当時(古墳時代)の海岸の汀線は10m前後で、***」 そのような説は根拠がありません。定説は、古墳時代の汀線も現代と殆んど同じ2m程度です。
 83「船越は古くから耕地が少なく、農耕生産を主となし得ない***」 ここでは、農耕生産を主としてきたのが明らかで、それを否定する根拠はありません。農耕の可能な緩傾斜の平地が的場川・花都川流域に存在している事は現地を見れば一目瞭然です。17世紀初頭の農地30町余の存在の記録は歴然とした証拠です。
漁業や交易がかなりの役割を果たしていた事は確かだが、近世初頭の船越村の人口一人当たりの農地面積はほぼ全国平均に近く、農耕生産主体の村であったことは資料上は明らかです。
 99船越という地名が全国的に見て海岸部のみならず内陸の奥地にも数多く存在することは事実であるが***国土地理院の地形図で地名・船越の確認できる50ヶ所余のうち、内陸の奥地に存在するのはわずかに3例。圧倒的多数は海岸部または海岸に近い平地部にあります。町史の執筆者が言う「内陸の奥地にも数多く存在する」には根拠が無い。
105(田所文書に関する引用部分) 「東浦 自見乃古志者西也」原文は「東浦 自見乃古志北」となっています。7,中世の船越、を参照。
107(田所文書に関する解説部分) 「東浦・西浦はともに「見乃古志よりは西なり」とさらに注記が加えられている***原文は「見乃古志より北」と読むのが正しい。町史の執筆者は、「見乃古志」の位置を現代の「水越」の位置に同じと決め付け、その上で「東浦・西浦」を現代の「先古谷」に無理に位置づけようとしてしている。
109「この(田所文書の)堀は現在安芸区堀越町で的場川に注ぐ受田川にあたる***。***先古谷はこの川の南に位置して***」 「堀越」は南区であり安芸区ではありません。受田川は府中町の南部を流れ、川幅1m程度の小川に過ぎず、流路勾配は大きく、通常は水量も少なく、「堀」といえる代物ではありません。また、ほぼ北から南へ流れ下る受田川の南を想定するなら、そこは堀越の丘陵にぶつかります。現実には、先古谷は受田川の東に位置しています。
130(今川了俊の)紀行文「道ゆきぶり」には***、**「北の山ぎはに所々家ありて」といわれているのは船越あたりのことであろうか。了俊が逗留したのは海田湾奥・二日市付近と推定されていて、そこからは飯ノ山に隠れて船越は見えません。「北の山ぎは」は、東海田の石原・成本付近が該当します。町史執筆者の地形感覚の欠如、現地調査をしない怠慢がここの解説に現れています。
131「(中世に)、海田・船越の干潟の陸地化に伴って***海岸ルートの方が多く利用されるようになった***」 中世の段階の干潟の陸地化は海田町・蟹原附近までです。日浦山の山裾のルートは干潟の発展とは別に、中世以前のずっと昔から存在し利用されていました。このルートに点在する遺跡からも確認できます。
古代以前から、海田・船越の山裾ルートの通行に問題はありません。中世になってから海岸ルートの通行が増えたという資料も根拠も有りません。
163「宝永3年の船越村絵図にみえる新開などの位置から、中世の海岸線をおよそ10mの等高線と仮定すれば、****」 「宝永3年船越村絵図」に示す新開の位置は、東西方向はともかく、南北方向には大きくずれているので、これを基に海岸線を推定するのは不適切です。
「宝永3年船越村絵図」には、下古屋山の南の裾に道が描かれていますが、その付近の標高は約2mです。中世の海岸線はそれより南にあったことが確認できますから、中世に現在より10mも海面が高かったという事はあり得ません。執筆者は絵図の内容を理解できていません。
仮に、中世には現在よりも海面が10mも高かったら、当時の国衙があった府中北部はもとより、温品や祇園までが海面下に没します。今川了俊が海田浦に逗留したのは中世の半ばですが、彼が滞在した海田・二日市の標高は約3mです。了俊は海面下で生活していたことになる。
165「中世には海に面していたと思われる油免・鞘免も****」 油免・鞘免の標高は概ね海抜10m以上の地点にあり、寛永15年の地詰帖でもこれらの地点よりも南にかなりの広さの農地が存在していますから、ここに海が入り込んでいたという事はあり得ません。
170「***一筆ごとの田畑や屋敷の収穫高を見積もって石高を決定し、**」「年貢」は現代風に言えば固定資産税で、「石高」は土地評価額。「収穫」ではなく、諸々の生産活動による収益を見積もって土地の評価としたもの。現代の、固定資産税を算定するための土地評価額と似たようなもの。宅地も職人の作業場も対象になります。
193(海田新開は)人夫およそ1万2000人余人を動員して、***。誇張された表現であるとしても大規模な工事であった***。「人夫」というよりも、現代の視点で表現すれば(近隣の)「農民」達です。1万2000人は延べ人数だから誇張ではない。例えば、堤防に要する土砂の総体積を見積もり、必要人数と日数を見積もり、海田新開の堤防を築くのに100人が120日(4ヶ月)を費やしたとなれば、納得できる数字。堤防を築くための土砂の採取場が離れていれば作業量が増えるから、そういう点を検証して数字を評価すべきだし、他の大規模新開(仁保島東・西新開など)の事例とも比較すべき。町史執筆者の検証能力を疑う。
198 「文化二年の古図には既に海面五〇町を包む***」 正確には「惣畝数参拾町」つまり「総面積30町」と書いてあり、町史執筆者の読み間違いです。 他にも無知や資料の読み間違いによる矛盾や混乱が散見されます。
198 「御炭納屋跡新開・文化9年地詰****」 正確には「御炭納屋跡新開」ではなく「御炭納屋跡屋敷地」と書いてあります。つまり、延命湊の造成で御炭納屋が湊の傍に移設されたので跡地を屋敷地として払い下げたという事です。
201「(農業に関して)村内の土地の状況は、****天水による所が多い有様であった。」 天水の利用とは、その場所で降る雨水のみを利用することだが、この村では多くが、溜池の水と自然の湧水を網の目のように張り巡らせた灌漑用水路で配分して農業を行ってきた事が諸資料で確認されており、天水によるところは多くありません。溜池や灌漑用水路の状況を調べずに「天水による所が多い」という町史の記述は根拠が無い。
207 「古老の言伝えによれば、海田・船越の古い西国街道は次のような経路であった。(開田荘)-八幡社北ー開原ー竹浦ー大歳社南ー新宮社南ー道郷ー小峠屋ー丸山ー桝井代ー片山梅林ー稲荷社南ー八坂ー庚申社北ー的場坂ー請田ー船越峠ー(府中村) 」 お年寄りの作り話を、そのままに史実であるかのように扱っているのは、歴史としての郷土史(町史)を扱う資格がありません。
ここで述べられた経路は、集落ができ、人の行き来があれば当然にできる道路に過ぎず、「西国街道」と呼ばれたものではありません。
近世西国街道は経路も存在も確認できる資料はたくさんあるが、延喜式に定める古代山陽道はこの附近での経路を示す資料は無く、中世山陽道については、制定された事実さえもありません。

「(開田荘)-八幡社北」の経路の存在を示す資料は存在しません。

「八幡社北ー開原」から「稲荷社南ー八坂ー庚申社北」に至る経路は村内の生活道路に過ぎません。

「的場坂ー請田ー船越峠」の中の「請田」とは現・請田団地のことらしいが、昔は標高が60mを超え起伏・屈曲の多い小請田山の尾根筋だった所で、幹線路になり得ません。的場川を渡ってまっすぐ北上する現在の経路に何も障害はないのに、わざわざこんな回り道をするはずがありません。

記された経路を地図に描き、実際に歩いてみればわかるが、こんなにジグザグで、登ったり降りたりの多いコースは、どの時代であれ、「西国街道」に成り得ません。
確実な資料としての「宝永3年船越村図」などの絵図や古文書を検証し、それを基に時代を遡って経路の変遷を調べるのが歴史を語る上での基本です。



「船越町史」の冒頭、「監修のことば」の中に次の記述があります。

「***町史編集に着手してからの困難性は少なくなかった。それは地元資料の散逸というような、他の町村にもある隘路のみでなく、調査・執筆・編集・監修という、もっとも基本的なことにも問題点があったことである。」

問題点が何であったかを具体的に提示されていいませんが、監修者としての断腸の思いが上記のような「ことば」になったと思われます。単なる「調査・執筆・編集・監修の苦労」なら、わざわざ「監修のことば」の中に記すことではありません。
後世の人々は、「町史」の記述内容を鵜呑みにするのではなく、批判的な視点で読む事が必要です。



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