書評2-1、「古路・古道歴史散歩」の中の海田・船越

広島市未来都市創造財団・文化科学部・文化財課が運営するサイトに「ひろしま昔探検ネット」と題するページがあり、その中に「古路・古道歴史散歩」と題する記事があります。
その内容は、広島市および近辺の古道を紹介して、大変に興味深い内容が含まれています。
しかし、内容を丁寧に読んでみると、史実・事実に反する事も多くあり、説明不足もありますので、その一部を下記に指摘します。
主なものは2011年6月に文化財課へ連絡済みですが、反論はありません。

以下、「西国街道Ⅰ、海田から船越まで(全8ページ)」と題する記述に関するもので、「太字」は「古路・古道歴史散歩」からの引用、その下に問題点を記します。

「ページ1、1行目ー2行目
瀬野川と海田の境、畑賀川にかかる砂走橋、***この橋を渡ると旧奥海田村に入る。」


瀬野川町と海田町の境界のつもりらしいが、瀬野川町は、1956年に成立し1973年に広島市に編入されて消滅した、短期間の呼称に過ぎません。ここの説明に使うのは不適切です。
旧中野村から旧奥海田村に入る村境は、この橋から東へ100mの地点で、橋(川)が村境ではなく日浦山から東へ延びる尾根筋の先が村境です。事実を確かめずに、根拠の無い思い込みから記述されている例です。「歴史散歩」のタイトルを付けながら、瀬野川町の歴史を調べていない事がわかります。

「ページ1、3行目
春日神社の参道入口に立派な常夜燈が二対、もうひとつが道路の左手にあり、」


参道の坂を登って行くと、入口の近くにだけ二対あるわけでなく、少し入った所の一対を始め、50m程先の境内の入口までに合計で五対の常夜灯があります。街道脇には、参道の反対側にも立派な常夜灯が一基あります。

「ページ1、9行目
春日神社に隣接する日浦山の南東山麓部には、***畝観音免第1号および第2号古墳がある。」


日浦山の南東山麓部が春日神社に隣接しているのでなく、日浦山の南東山麓部の一角に春日神社もあるのです。
「日浦山の南東山麓部には、春日神社に隣接して***畝観音免第1号および第2号古墳がある。」と記すべきです。

「ページ2、1行目ー3行目
海田市の前身、中世の港津集落である二日市が栄えていたところである。 ここは寛文元年に瀬野川の流路を変更する以前、西国往還と南側瀬野川河口にはさまれる******」


最初に「瀬野川は二日市の南側を流れていたが、寛文元年に付け替えて現在の流路になった」事を説明しないと、位置関係がわかりにくい。
「はさまれる」という表現は狭い場所を連想しますが、日浦山の山裾から当時の河口(現・蟹原浄水場の南側)まで400m以上あり、二日市の部分も幅200mを超える広い場所でした。そのうち、かなりの部分が現・瀬野川河川敷の下に隠れています。

「ページ2、7行目
海岸線にはここから東側へ蟹原・浜・磯田辺りへと干潟が続き**」


記述されている中世の時点で蟹原・浜・磯田はすでに陸地であり、干潮時に地面が現れる干潟はこの付近から南西へ約2km(現・海田警察署・海田高校付近)まで広がっていました。

「ページ2、8行目
北側日浦山山麓の石原・畝にはすでに民家が存在していた。」


記述されている中世の時点で「すでに民家が存在していた」のは、わざわざ述べるまでもない当然のことです。畝観音免古墳の存在から明らかなように、古墳時代から既に多くの人々が住んでいました。

「ページ2、10行目
二日市と瀬野川をへだてた西隣に***石原常本貝塚がある。」


中世の景観を説明している文章の中に、川幅100mの「現代の瀬野川」が割り込んできて実態が伝わりません。中世には二日市の西北側に石原、常本、脇之内が「隣接」していました。「川をへだてて」ではありません。

「ページ2、15行目
「 二日市はその後、瀬野川の流路変更と新開の築調によって衰え、その機能はしだいに海田市に移っていった。」


二日市が消滅したのは「瀬野川の流路変更と新開の築調」によるものでなく、広島藩による宿駅制によって宿場として海田市が制定されたためです。二日市を利用していた商人達は、「瀬野川の流路変更と新開の築調」の前に、海田市へ移っています。

「ページ2、20-23行目、
家の建て方に注目すると、敷居の線が道に平行でなく、片方が道路にせり出している。このような建て方は宿場町の特徴であり、大名行列が見えなくなるまで土下座を強いられた庶民の知恵とされる。」


「大名行列」と「土下座」をキーワードにインターネットで検索すると、「大名行列が通るとき、庶民が土下座したというのは誤解である」旨の解説がたくさんみつかります。大名行列を描いた浮世絵でも、庶民は立って見物しています。 時代考証の確かな最近の時代劇ドラマでも、庶民は立って眺めています。
敷居の線が道に平行でないのは、元々が農地であった所を宿場町にしたから農地の地割の影響が残っただけです。現代でも農地を宅地や商業地に転換した所は建物の前面が道路に平行になっていないのが通例です。
「古路・古道歴史散歩」の記述は近くの人の作り話にすぎません。「作り話」が「伝承」にされていく典型例です。
実際にも、新町から上市まで、現在の県道沿いに歩いて確認すると、敷居の線が道に平行である方が圧倒的に多く、平行でないのはごく少数です。

「ページ2、24行目
大名行列に粗相をして打ち首***」


これも根拠の無い作り話です。
上の20-23行目の記述と共に、これも馬鹿げた作り話です。

「ページ3、1行目、
当初東海田から船越へ通じる道は背後の山手にある古い道であった。」


「背後の山手」は、海田市宿の北に迫る山塊のように解せますが、これは隣の船越村と奥海田村の村域でした。文化度国郡志・船越村の部分には「奥海田村之義山続道筋無御座隣村ニ御座候」とされ、船越から奥海田(=東海田)へ山を経由する道はないと記述されています。
「当初」がいつの事かを含め、根拠に基づいて説明すべきです。
ここは、沿岸沿いに行き来できる道が昔から存在していたから、「背後の山」を通る必要はありませんでした。新町の部分も含め、海田市宿の町割が行われた範囲全体が、近世の初めに突然隆起して陸地になったわけではありません。

「海田市旧記」に「当村山手に古しへの灘道**」と記しているように、当時(文化年間)の海田村の村域内に灘道がありました。「背後の山」に作り変えた話は、昔の村域を誤解して戦後になって作られたものです。

「ページ4、25行目
新町は浅野藩が宝暦年間に漁業者を集住させた***」


新町屋敷は寛文元年(1661年)以前に成立しており当初から海運・漁業を主な生業とする人たちの居住地でした。宝暦年間(1751~1763年)に造られたものではありません。

「ページ5、4-5行目、
花都川を少しさかのぼると竹浦がある。かつて山陽道は山沿いのこのあたりを通っており、」


この部分の前後の説明から推測すると、「このあたり」というのは畑賀へ向かう道の途中。いつの時代の山陽道を説明しているか不明ですが、そのような事実はありません。昔の村人の生活道路であったものを、山陽道だったという話に誰かが作り変えたものでしょう。掲載する以上は真偽を確かめるべきなのに、基本的な手続きを怠っています。
そもそも、別のページで「旧山陽道」を畑賀・甲越峠コースとして、長々と解説していながら、ここの「山陽道」が何を意味するかを説明できていないのだから、論理に一貫性が無い。

「ページ5、7-8行目、
この道は大歳神社の手前で左に折れるが、曲がらずに花都川に沿って行く道は船越中学校の前を通り****」


大歳神社は「この道」から直線距離で西へ約100m離れた所にあります。「この道」は、大歳神社の手前を通らず、このまま花都川沿いに直進して中学校の方へ向かいます。その途中で左へ分かれて入る幅が1mほどの細い道を進むと大歳神社の前へ辿れます。「古路・古道」の執筆者は実際にこの経路を歩いて確かめたのではなく、下の県道(西国街道)で近くの人から聞いた道筋を誤解して記録しているようです。
(この後の10行目で)明治8年に建てられた大歳神社前の道塚を紹介しているのは、その当時、山陽道が大歳神社前を通っていたと言いたいのでしょうか?せっかく紹介する以上は、その意味を解説すべきです。重要な歴史資料です。単に「こんなものがあります。」では、「歴史」にも「調査」にも値しません。

「ページ5、15行目、
道路がカギ型に曲がっている。これは海田市のところで述べたように道に対して家の敷居が斜めに突き出す形で建てられたものと同じ理由による。」


上記、「ページ2、20-23行目」の場合と同様、誤解に基づく話、または根拠のない作り話です。

「ページ5、19-20行目、
この辺りは木船と呼ばれ、古くは着船とも書かれ、その昔、菅原道真が西遷の際、船が着けられたところという。」


寛永15年の地詰帖では「木舟」であり、「着船」という表記は明治になってから現れるから「菅原道真***」の話は明治になってからの作り話です。
「服を着る」から「船が着く」に結びつけたのは、こじ付けである事が歴然としています。

「ページ5、23行目、
正徳・享保のころ(18世紀初頭)まではこの道が街道であった。」


正徳・享保のころに市場坂を登る「この道」から、街道の経路を替えた記録はありません。
「ページ6、5行目」に、「下道が正式の西国街道になったのは文化5年以後」と記していることと矛盾しています。

「ページ5、24行目、
潮干潟になった時は、南側の松石鼻という所から「下道にかかりて磯づたいに行く。*****」


ここで、干潮時にのみ下道が通れたかのように記述されていますが、まったく史実に反します。「宝永3年船越村図」と「中国行程記」の絵図では、満潮時でも通行できる道が描かれています。古絵図・古文書を大切にすべきです。

「ページ6、1-2行目、
この辺りは引地と呼ばれる。引地とは「潮が引く地」という意味であり、附近一帯は漁師の網引場であったともいわれる。」


各地に「引地」という地名はいくつもあり、近い所では、府中町、旧音戸町、旧西条町の東部にありますが、いずれも高地、あるいは海岸から離れた地点です。 潮にも漁にも関係はなく、地形に由来する地名と考えるのが妥当です。
「引地」の位置は、記述されているような海岸沿いの場所ではなく、「寛永15年地詰帖」に記載されているのは、恵美須社付近、木船山の山裾にありました。
「引地」を「潮が引く地」にこじつけた話は、明治になってから作られたものです。

「ページ6、15-16行目、
***小路が続く。付近の古老がかつての街道であったというので、しばらく進んでみるが、行き止まりとなる。」


車社会になってから使われていないので雑草が生い茂っていますが、昔の村人の生活道路で、かつての町道(合併後も、名目上は市道)です。「かつての街道」というのは作り話です。これも、掲載する以上は真偽を確かめるべきなのに、基本的な手続きを怠っています。

「ページ6、19-21行目、
***大きな銀杏の木がある。宝永3年の船越村絵図にある街道脇の「大木」がこれにあたるのではないか:::。とするならば、西国街道は当時、この経路をとっていた***。」


現在の銀杏の木の幹周りは約2.5mで、さほどの大木ではありません。宝永3年船越村図の大木がそのまま残っているなら現在の樹齢は500年以上になり、もっと大きくなりそうです。各地の銀杏の大木の例を調べると、樹齢300-400年で、幹周り4-5mです。こういう、不確かな話を載せるのは不適切です。
ただし、正専寺の建っている地の「字名」が「大木ノ下」ですから、ここの境内もしくは隣接地に「宝永3年船越村図」の大木があったことは確かで、従って西国街道がここを通っていたことも確かです。そのような事も知らないのが、ここで「古老」と呼ばれた人です。
正専寺の境内から市場坂下へ至るほぼ直線で平地を行く経路があったことを、現在の道路を辿って確認できます。

「ページ6、23行目、
***、市場坂を反対方向へ下る。かつての下道と再び合流する。その合流点に***」


「かつての下道(松石鼻の下の道)」がここまで続いていた根拠はありません。「宝永3年船越村図」に描かれている「下道」は、もっと東寄りの地点で合流しています。

「ページ6、24行目、
その合流点にあるウエノ洋品店の隣に岩滝神社があり、そこには高さ5mくらいの立派な常夜燈が一基ある。」


現在も常夜灯はありますが、30年前に遡っても、ウエノ洋品店も隣に岩滝神社もありません。 洋品店はともかくも、岩滝山の山腹にある岩滝神社が昔はここにあったという事実はありません。ここでも、執筆者は現地を確かめることなく、他の話と混同して記しています。おそらく、別の資料の文章を丸写しした際、途中の部分がそっくり抜け落ちたから辻褄の合わない内容になっています。
実際の岩滝神社がこの常夜燈から500m余も離れている事自体が不思議な事ですから、この地点に常夜燈があることの歴史的意味を調査すべきです。

「ページ7、1行目、
荷場、すなわち魚の置き場」


「魚の置き場」という根拠は存在しません。 文化度国郡志・船越村の記述では、ここでは貝、牡蠣、海草は採っていたようですが、魚の記述がなく、魚を扱っていた、という確かな証拠はありません。
明治以前にはここに「市場」という地名があったのに、それを知らない人の作り話です。寛永15年船越村地詰帖には「市場」という地名が出ています。市場があれば様々な商品(荷物)を置いた場所もあったでしょう。明治の始めまで使われていた「市場」の地名さえ知らないのが、ここの「古老」と呼ばれた人の実態です。

「ページ7、2行目ー7行目
***小さな橋を通る。この橋を鼓橋という。この橋は元は花崗岩でつくられた橋で、それまでの山陽道が山の中腹をとおっていたのを平地に変えた時、畑賀・海田・中野方面の人々が船越峠を越えて広島方面に出るとき、大変役に立ったといわれ、この橋をかけた寺尾友次氏の功績碑が岩滝神社のすぐ北西寄りにある。***」


1、文化度国郡志(船越村)の中に、「飛渡り、鳥井川、渡り一間***」と記しているのが、後に鼓橋の架けられた川です。
当時、村内の他の川には全て橋が架けられているのに、鳥井川のみは「飛渡り」です。つまり、川の中に置いた石を伝って渡れる程度に川幅も狭くて浅かったのです。しかも、出溝川と畦地川は既に石橋が架かっていましたから、小さな川に石橋は当然です。
花崗岩で作った石板を載せれば便利になったことは確かでしょうが、「大変役に立った」というほどのものではありません。
2、見えるはずがないのに「小さい橋を通る」と記述しているのは奇妙で、誰かに聞いたことを真に受けて、あるいは古い資料の記述を取り込んで、そのまま記述していることが歴然としています。現在、「橋」と言えるものは無く、幅が1m程のコンクリート製の暗渠が道路下に隠れているだけです。
3、寺尾友次氏は鴻冶新田の改良事業に尽力された方と伝えられており、それなら功績碑に値しますが、小さい橋は功績碑に値しません。
4、「船越町郷土誌」には、鼓橋を架けるために寄付金を得た相手として、奥海田村・海田村など近隣の数ヶ村、村内の有志10人の名が金額と共に記載されています。ここには寺尾氏の名はありません。「寺尾友次氏が橋をかけた」ということ自体が作り話だとわかります。
5、現・県道の経路上に鼓橋があるという前提で記述されているが、橋を架けた位置がここである確かな根拠はありません。
6、いつの時代の山陽道かは不明ですが、時代を遡って、山陽道が山の中腹を通っていたという記録は存在しません。
7、船越峠下から市場坂下まで平地を通っていた西国街道の経路が、何時、現・県道の経路に替えられたのかを示す確かな情報はありません。
8、橋について語るなら、もっと重要な的場川橋・花都川橋があるのに、それらに触れていないのは奇妙。

上記、「ページ5、4-5行目、」の場合と同様に、不確かな情報が羅列されています。

「ページ7、9-11行目、
鼓橋からおよそ50メートル、道路の左端にかつて街道松があった。 少なくとも昭和48年頃までは2本残っており、60年ぐらい前には5本あったという。」


「古路・古道調査報告」が記された1992年を起点にすれば、60年前は1932年(昭和7年)頃。この付近の情景を写した大正9年(1920年)頃の写真によれば、写っている松の樹高は7-8m程度で樹齢は30-40年程度。樹齢5年程度の若木を植えたとすれば、植えたのは1890年(明治23年)頃になります。明治9年以降は、「街道」ではなく「国道」になりますが、この道が初期の国道として明治20年代に造られたことを推定させる根拠になります。単に「街道松があった」という記述は、17世紀以来の西国街道がここを通っていたかのような誤解を生じます。

「ページ7、14-17行目、
的場橋を渡ると三叉路となり、広い方の道は大きく右に曲がっており、船越峠へとつづく。この峠は「新だお」と呼ばれ、明治20年以降つくられたようである。それまでの道は北へ直進する狭い道であった。「新だお」ができてからは「古だお」と呼ばれるようになる。
「新だお」が建設されたのは、今の小請田の鉢山付近に、陸軍の演習場があり、そのために必要であったからであろう。現在は柳ヶ丘団地が造成され、古だおへの道は途中で消え***」


(1)、陸軍の演習場が近くにあったことはなく、船越峠が明治20年以降につくられたと推測させる記録も存在しません。この話は近くの老人の作り話です。

(2)、的場橋から北へ直進する道を「古だお」とし、これが明治20年頃までの西国街道だと推定しているが、それは、ありえません。この道は、明治32年から昭和初期までの国土地理院地形図に描かれていません。この道が現れるのは、昭和以降のようです。
「古だお」と推定するコースは小請田山の尾根筋を通るが、「享保2年船越村・山帖」によると、小請田山は全体が腰林(私有林)となっていますから、西国街道がここを通るはずもありません。
芸藩通史の府中村図・船越村図、宝永3年船越村図、中国行程記(絵図)、いずれをみても西国街道の経路は現・船越峠を経由しています。

(3)、「小請田」地区の範囲に、「鉢山」という名の山は存在しません。

(4)、「柳ヶ丘団地」は隣の府中町・鹿篭山に造成されたもので、船越の「小請田」と無関係です。地理的にありえない作り話を記しています。

(5)、そもそも、「新だお」と「古だお」の意味と位置を誤解されているから、「古路・古道調査報告」が記す奇妙な作り話が生まれたのです。正しくは、「現在の的場橋を渡って船越峠へ向かう坂道」が「新だお」で、6ページの21行目で推測された街道の先の坂道が「古だお」です。元来、「たお」の意味は「とうげ」ではなく「坂道」です。

「ページ8、3行目
右の道は古く、左は比較的新しい。左の道路が整備されたのはおそらく大須新開の土手が完成した万治3年(1660年)ころのことと思われる。」


ここの記述では、「古く」と「新しい」は何を判断基準にしているのか不明、大須新開の土手と左の道路がどのように関係しているかも不明で、左の道路が整備された時期を万治3年とする根拠も示していません。

確認できている情報をつなげば、西国街道の制定が寛永10年(1633年)で、海田市の町割も寛永10年に行われています。元和年間(1615-1619年)作成と伝えられる安南郡地図には、矢賀の岩鼻から府中の茂陰を経て東へ向かう道が描かれています。従って、大須新開の土手の完成(1660年)よりもはるかに早く左の道路(西国街道)は出来ています。

右の道は古代山陽道以来の(大道と称される)古来の幹線道路につながります。


「古路・古道歴史散歩」は、元来が1992年3月に発行された「古路・古道調査報告」と題する報告書の内容をそのままに転用されたものです。
この報告書は、近辺の町史からの部分的な引き写し、住民からの聞き書き、調査員による現況描写などから構成されています。

冒頭(メインマップ)の解説で、「調査の結果、交通路の変遷を含め、当時の道筋の概要が明らかになるとともに***」と述べられていますが、内容を読むと、新たに明らかになったものはなく、調査以前の通説と伝承、根拠の無い推論や作り話、執筆者による現状描写、これらを経路沿いに並べたもので、様々なレベルの誤りが含まれています。ここには、史実を追求する姿勢はありません。
伝承ならば「いつごろから伝わっているか」を、推論もしくは史実ならば「その根拠・理由」を、それぞれに明確にされるべきですが、古い出版物の記述や近隣の住民の話を、検証することもなく取り込まれています。
「古路・古道」をタイトルに謳われているからには、古絵図・古文書を可能な限り活用すべきなのに殆んど扱われておらず、逆に、信頼性に疑問の多い「人の話」、大部分が戦後の作り話、を多量に取り込んでいます。

「古路・古道歴史散歩」の冒頭(メインマップ)に次の説明があります。

「ここで紹介する各街道のルートは確定されたものでなく、各説明文についても伝承・推論を含んでおります。皆さんに利用していただくと同時に、より確実性の高いルートについて議論していただく機会となれば幸いです。」

「伝承・推論」と読み取れるものが少しありますから大部分は史実・事実として記述されていることになりますが、そこに上記に指摘したような誤りが多数含まれています。
「文化財課」の方々は、広島城遺跡発掘調査などで科学的分析・思考力を示されているのですから、それに反するような情報を流してはいけません。


参照資料: 古路・古道調査報告、 船越町史、 海田町史、 

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