広島市未来都市創造財団・文化科学部・文化財課が運営するサイトに「ひろしま昔探検ネット」と題するページがあり、その中に「古路・古道歴史散歩」と題する記事があります。 その内容は、広島市および近辺の古道を紹介して、大変に興味深い内容が含まれています。 しかし、内容を丁寧に読んでみると、史実・事実に反する事も多くあり、説明不足もありますので、その一部を下記に指摘します。主なものは2011年7月に文化財課へ連絡済みですが、反論はありません。 以下、「旧山陽道Ⅱ」、「旧山陽道Ⅲ」、「旧山陽道Ⅳ」、「旧山陽道Ⅴ」と題した記述に関する事柄で、「太字」は「古路・古道歴史散歩」からの引用、その下に問題点を記します。 「旧山陽道Ⅱ」(全4ページ、畑賀から府中) ここでは、古代山陽道が畑賀から甲越峠を経由していた、という前提で語られていますが、その事自体に合理的根拠はありません。4,古代山陽道と 書評6,古代山陽道の経路に関する諸説を参照ください。 また、官道としての山陽道は、西国街道とも通称される近世山陽道と、律令制による古代山陽道しかないはずで、「旧山陽道」という表現はいつの時代のものかも曖昧です。実際に、西国街道や旧国道2号線を「旧山陽道」と称される場合があります。 「旧山陽道Ⅲ」(全7ページ、府中町内) 「ページ1、2行目、 ***最初の聚落であり***」 新表記では「集落」なのに「聚落」という表記になっているのは、執筆者が意味を理解しないまま古い書籍を丸写ししたらしい。 「ページ1、2行目~13行目、 ***旧山陽道は府中中学校の南側を通っていたと考えられる。府中中学校のある丘の西側の麓に松崎八幡宮跡がある。********。旧山陽道はこのあたりで北にその向きを変える。」 古代山陽道だったと推定される南北方向の道へ出るには、松崎八幡宮跡から西へ250m、府中中学校の南側の縁からは西へ400mあります。「このあたりで北に向きを変える」という表現はあてはまりません。 また、甲越峠から下りて来て、駅舎のあったと推定される下岡田へは山田川沿いに北西に進めば最短距離なのに、わざわざ、ここまで回り道をするのは不自然です。 「ページ3、17行目、 昔、船が沖から帰ってくるとき、猿猴川の河口に近づくと北方にこのムクノキが良く見えたと伝えられる。」 これは、ありえない話です。昔の人の作り話でしょう。 猿猴川の河口は仁保島と向洋の間にあり、そこから府中村のムクノキまでの中間点には、空城山から千代山に連なる海抜25m程度の丘陵(樹木が生い茂っているから見かけ上は海抜30mを超える稜線)が邪魔していますから、ムクノキは見えません。多家神社のある誰曾の森も邪魔になります。 「ページ4、2行目、 **そこから南東方向、榎川沿いの***」 「南東」ではなく、「南西」方向が正しい。 「ページ4、4行目、 ***古い松の並木が見られる。榎川左岸の自然堤防を利用したこの道もおそらく新しい山陽道ができると同時に作られたものと考えられる。松の数は48本である。」 「新しい山陽道」というのは近世山陽道(西国街道)のことらしいが、この道がその時に同時にできたという根拠はありません。 「自然堤防」ではなく、榎川の度々の氾濫に抗して、先人達が苦労して嵩上げしてできた人工の堤防です。両側の平地から3m以上の高さに盛り上げてありますから、この付近は天井川になっています。人工堤防としての起源は、この付近に農地が開墾された古代に遡ります。 松の数は2011年6月時点で31本、太いもので幹周り1.5m程度だから樹齢100年余。明治の中頃に、多家神社が現在地に造られた頃に植えられたものでしょう。 「ページ4、25行目、 石井城のバス停から****石灯篭がある。これは海上交通の常夜灯であったと思われる。*****西国街道からもこの灯火が見えていた、」 「海上交通」には関係ありません。常夜灯が建てられた天保年間に、海船は府中大川はもちろん猿猴川にも上がってきていません。 西国街道からは直線で1.2kmしかないから、人家が疎らだった昔は見えて当然です。 「ページ5、9行目、 下岡田遺跡****。国衙とみる説と駅館とみる説とがある。」 既に「駅館」であることが定説になっています。「古路・古道調査報告」のp4とp12の解説でも、その前提で記述されています。論旨が一貫していないのは、この項の執筆者が他の古い出版物の記述を丸写ししているから。 ついでに言えば、佐伯区三宅で確認された中垣内遺跡は古代山陽道の駅家跡と推定されています。「古路・古道歴史散歩」は、この後のページ(旧山陽道Ⅶ)でその付近の事柄を記述していながら、中垣内遺跡については全くふれていません。官道としての古代山陽道を語る上で重大な失点です。これも、「古路・古道歴史散歩」の記述が古い出版物の内容の寄せ集めで、新しい情報を配慮できていないことを示しています。 「ページ5、15行目、 府中から旧山陽道が温品を通過する道筋を「延喜式」により推定すると、船隠、金碇明神、*****、清水(温品小学校校庭)、室屋と、当時の汀線沿いであることがわかる。」 延喜式には道筋を推定できる記述は存在しません。 ここで推定された道筋が「汀線沿い」であることを示す根拠もありません。 この道筋の北端にあたる清水(温品小学校校庭)は海抜15mの地点です。古代から現代までに、清水(温品小学校校庭)附近で13mも土砂が堆積した可能性はありませんから、汀線がこの近くあった可能性はありません。 「Ⅳのページ1」で述べているように、府中の早馬立から中山へ向かう直線的道筋が定説です。この項の執筆者は、「延喜式」を確かめず、他の古い出版物の記述を部分的に流用して記述しているから、論旨が通じません。 種明かしをすれば、この項の執筆者は「安芸町誌」の記述を要約したつもりで文の途中を飛ばして引き写しているから、元の文意から離れた内容になっています。 「ページ5、22行目、 **、その北側を「船隠」と呼んでいた。**「芸藩通志」の村里の項には「**また船隠と呼ぶ地もあり。古の舟入ならんや」とあり、船隠には舟の碇泊所の意味がある。」 「芸藩通志」の記述は昔の人の作り話です。 この附近は海抜6m程度ですが、下流からこの附近までは温品川の勾配が緩いから川舟は上がれたし、後世、間所の砂入れにはこの附近まで川舟で土砂を運んだ記録が残っています。しかし、海船が碇泊する「舟入」ではありません。 「ページ5、26行目、ーーページ6、2行目、 ***を金碇と呼ぶが、「芸藩通志」の山里の項には「**東西山塞ぎ、西南の際は入海なりよし、金碇と呼ぶ地往年鉄錨を掘り出せしという**」とあり、かつてこの附近が海岸線であり、港もあったことをうかがわせる。」 ここでも、「芸藩通志」の記述は昔の人の作り話です。 寛永15年温品村地詰帖に「かないかり」という地名で記載されていますが、「金碇」はその当て字です。当て字の文字面から由来を考えるのは意味がありません。 「地名の語源(角川小事典)」によると、「いかり」は「①河段丘・谷をのぼりつめたところの小平地、山間の小河盆にある地名、②堰のある所、洪水のおこりやすい所、などとあります。金沢・神奈川の「かな」は川に関する特徴を意味するとのことです。 温品村の「かないかり」も地形に由来する名前のようです。 鉄製の錨が広島湾沿岸の舟に使われだしたのは明治に入ってからで(昔は、木の棒に石を結びつけていた)、寛永年間以前の温品村に縁がありません。 「ページ6、9行目、 **磯合(そうわ)という字名で呼ばれている地区がある。これは海の入江の意味であり、この辺りで弥生時代後期の貝塚が発見されている。海岸線がさらに谷の奥まで入っていたことがわかる。」 寛永15年温品村地詰帖には「そわい」という地名があり、「磯合」は、その当て字です。上記同様に、当て字に過ぎないものから、由来を考えるのは意味がありません。 広辞苑には「そわ」は「山の斜面、崖」としているから、「そわい」は崖の傍で湧き水のでる所と考えるのが、むしろ自然です。 実際に、ここは小さな谷筋の入り口で、「崖の傍の湧き水のでる所」に相応しい場所です。地詰帖の地目は畠であり、海抜4m-8mの緩い傾斜面の場所で、海岸からははるかに離れています。 貝塚の存在から海岸線を考えるのも意味の無いことです。「貝塚」は昔の人の生活遺跡であり、昔の海岸地形の痕跡ではありません。 「ページ6、16行目、 ***温品川の氾濫原で、今でも排水不良地である。沼所が転訛して「まどころ」となり、当て字により間所と****」 「氾濫原」とは河川が氾濫を重ねて作り出した平地を意味しますが、それだけでは「排水不良地」との因果関係が説明できていません。(旧祇園町一帯から現広島市街地までも、太田川の作り出した氾濫原です。) 執筆者は、大昔からここが排水不良地だったと思い込んでいるのでしょうが、排水不良が問題になったのは18世紀後半になってからです。 「間所」という地名が初めて文書に出るのは元禄14年(1701年)の坪付帖ですが、その段階では排水不良の問題はありません。ここは古代山陽道の駅家に近いから、「馬所」から転訛したのかもしれません。 「ページ6、21行目、 このあたり一帯はかつて藩主の鷹野であり、長い間砂入れができなかったこともその理由の一つである。」 この文章を素直に読めば、「砂入れができなかったこと」が「藩主の鷹野であったこと」の理由の一つ、という意味になりますが、因果関係から言えば奇妙です。 「このあたり一帯はかつて藩主の鷹野であったが、その事も理由の一つとなって、長い間砂入れをできなかった。」なら意味は通じます。 結局、この文章の前に遡って読み返してみても「その」が何を意味するのか不明だから、この奇妙な文章になっています。「その」ではなく「**であったこと」と具体的に表現すべきです。 「旧山陽道Ⅳ」(全2ページ、府中から戸坂) 「ページ1、3行目、 ***中山川が直角に折れるところで、その方向は府中平野に分布する条里の方向、いわゆる安芸系の方向に一致している。」 直角ではなく、半径75mほどの大きな円弧を描いて曲がっています。 条里の方向にも一致していません。約18度もずれています。 「ページ1、5行目-6行目、 ***中山川の流路は条里施行の際、人工的に固定したと思われる。それゆえに、その後天井川化がすすみ、***」 人工的に流路を固定するならわざわざS字形に大きく迂回せずに、南東方向へ直線的に矢賀の北部へ延ばせばよいはずです。自然の流路だからこそ、大きく蛇行しているのです。(人為的に流路を変えたかのように記述されているのは、昔の学者さんの根拠の無い思い込みによるものです。)戦前の航空写真でみると、この付近の農地の地割の線は複雑に曲がっており、条里地割りの痕跡もありません。「条里施行」も「人工的流路固定」も、それを裏付ける根拠はなく、執筆者(あるいは昔の学者)の空想に過ぎません。 温品村が藩政に間所砂入れの申請をした文書には、 1660年の大須新開の造成により温品川(府中大川)の流路が固定され、温品川が天井川化し、さらに中山川が天井川化し、その結果、この付近が排水不良になったと記しています。 寛永15年温品村地詰帖で間所に該当する地区の斗代は平均的な数値で悪い評価を得ていませんし、60年余後の元禄年間の評価でも変わっていません。 つまり、天井川化がすすみ、間所一帯の排水不良が問題になるのは18世紀後半であり、条里施行で中山川の流路を固定したからではありません。 この項の執筆者は歴史的な経過を確かめずに、根拠のない空想を述べています。 「ページ1、8行目、 当時(条里施行時)府中平野は浅海または干潟を形成しており、官道はその浜堤を利用した最短コースをとったのであろう。」 「浜堤」とは海岸線に沿って、海流や波の働きで砂が盛り上がった地形ですが、ここにはそのようなものは存在しません。単に、官道は当時の海岸線よりかなり陸寄りにコースをとっていただけです。 当時(条里施行時)「府中平野が浅海または干潟を形成」していた根拠もありません。「府中町史・資料編」の地層断面図、「中山村史」の地形分類図からみると、府中平野の西部は浅い潟湖または湿地だったと考えられます。 「ページ1、13行目、 芸藩通志の絵図には、この辺りに三日市の地名が載る。また、南に向かって上縄・中縄・下縄・古新開・十四割といった地名が続き、府中平野の開発の過程がうかがわれる。」 「開発の過程がうかがわれる」と、執筆者が個人的に納得しているだけで、何を意味しているのか読者にはわかりません。 「ページ1、16行目、 中世まで、この地は******瀬戸内海に至る玄関に相当する交通の要であった。」 「この地」とは「府中平野北部」のことらしいが、ここで記述されているような評価をできる根拠、例えば船着場(**津や**泊)などは「この地」に存在しません。仮に、8行目に記しているように「浅海または干潟」だったら、ここには船着場が造れるはずがありません。 「ページ1、19行目、 その後の、干拓地の造成による旧山陽道の南下、***」 「旧山陽道(律令制による官道=古代山陽道)」の経路が南寄りに変更された事実はありません。 また、「干拓地の造成」とは、近世に入ってからの広島湾沿岸の干潟干拓のことらしいが、古代山陽道とはもちろんのこと、近世山陽道(西国街道)の経路選定にも全く影響していません。西国街道は、ごく一部の短い区間を除いて、干拓地を経由していません。この項の執筆者は、干拓地の場所と古代山陽道の経路との関連を確認していません。 「ページ2、11行目、 ***太田川と古川に挟まれて輪中を形成しているが、当時の太田川はこの輪中のほぼ中央部を横切って流れ***」 「輪中」は、岐阜県南部の事例が有名なように、大河川の下流低平地で高潮や河川の増水による水害を避けるため集落の周りを高い堤防で囲んだもので、「輪中」の堤防は中世以前に起源し、堤防がなければ毎年のように浸水の被害を受けます。しかし、太田川下流部は、「太田川と古川に挟まれて」はいるけれど、100年に1回か2回程度で洪水が発生する、一般的には「氾濫原」と呼ばれる地形で、治水のために堤防が築かれたのは近代以降です。 太田川と古川に挟まれた「大きな中州」とは言えるが、「輪中」とは言えません。 「旧山陽道Ⅴ」(全5ページ、東原から大塚) 「ページ2、26行目、 ***山本街道と呼ばれる主要道が****。この道は太田川の中流域から武田山・火山の連山を権現峠で越えて、**** 山本に通じる道である。」 「太田川の中流域」から、いきなり「権現峠」へ説明が飛んでは読者には経路が理解できません。 「加計」と「可部」の中間にある「布」から安川中流の「伴」まで道のりで10km余あります。近道としてのこの経路の説明が必要です。 安芸の人々にとって、官道よりも地域の幹線道の方が重要だったのですから、もっと分かりやすく説明すべきです。 「ページ4、22行目、 中世になると***この官道ルートは次第に利用されなくなる。海運の発達にともない、全体的に海寄り道程になるが、それでも広島湾頭部はまだ中州が点在する程度で横断は不可能であった。そのため、海田浦と佐西浦を結ぶ海路も利用されはじめる。」 この官道は官使を運ぶ通信路であり、古代でも国司の赴任や年貢輸送など交通路としては海路が主であったことは延喜式の記述からも明らかです。通信路としての官道の利用度が減ったのは、中央権力が弱体化した影響があります。 中世以降に海運が発達したのではなく、古来、山陽路の輸送は海路が主体でした。 広島湾頭部(中洲)を横断できなかった、とする根拠はありません。「官使を乗せた馬が走るには困難」だっただけのことを、「交通一般が不可能」であったかのように記述しているのは論理の飛躍です。海路・陸路は目的によって使い分けていただけのことです。 いくつかの中洲ができていて、それらの間を太田川の本流・分流が流れていたのなら、太田川の河口はこれら中洲に挟まれた本流の先にあることを示し、太田川の平水時の水量からして浅瀬を伝って歩いて渡れる水深だったことになります。「中州を横断できなかった」というのは論理的に矛盾した表現です。 そもそも中洲は、瀬戸内海の島のように「点在」するものでなく、既に陸地になっている所を河川の流路が分かれて流れることによって「面」として存在します。単純に「中州が点在する程度」というのは、中世には太田川三角州を通行できなかった、という誤った思い込みが先にあって、そこから作られた虚構です 「ページ4、27行目~~ページ5、3行目、 陸路は大内越峠を越えて牛田に出て、牛田山山麓を北上して武田氏の本拠地であった山本に到っていた。「知新集」は「温品通り大内越牛田山を越し、夫より戸坂江出、爰に渉し舟ありて祇園山本へ渡り、夫より佐東楠村己斐草津江通る」と、この道程を記している。」 「知新集」の記述をそのまま読めば、温品から戸坂へは中山経由が最短コースであるのに、わざわざ「大内越から尾長へ出て、改めて海抜200mを超える牛田山を越し」だから、現実にはありえない虚構を述べていることが明らかです。 「古路・古道」の執筆者はこれを変えて、「牛田に出て、牛田山山麓を北上して***山本に到っていた」としているが、「牛田山山麓を北上」の経路が不自然かつ不明確です。尾長から己斐へ最短コースで進めない理由は存在しません。 「ページ5、6行目、 八日市一帯は、平安時代末期ごろまで太田川の河口であり、桑原郷と称された厳島神社の倉敷地であった。」 この附近が平安時代末期ごろまで太田川の河口であったことはありえません。 書評5、太田川河口位置に関する諸説を参照ください。 「ページ5、15行目、 八日市は芦田川・沼田川あるいは瀬野川における草戸千軒・本市・二日市と同様な立地のもとに成立した、港湾機能を備えた市場集落であったと考えられる。しかし、その後、太田川デルタの伸張にともない、海路と陸路それに舟運までもが遠ざかり、***」 八日市は海路に直接はつながっていなかったという点で、他の3箇所とは立地条件が異なります。 「古路・古道歴史散歩」は、元来が1992年3月に文化財課から発行された「古路・古道調査報告」と題する報告書の内容をそのままに転用されたものです。 内容は概ね、近辺の古い市町村史類からの引き写しと、付近の住民からの聞き書き、調査員自身による現況描写から構成されていますが、史実としての検証が不十分なまま掲載されています。 また、「旧山陽道」という呼称については、「古路・古道調査報告」の「第2章・総論」と「第3章・各論の1-旧山陽道」で、「古代山陽道」=「律令制による官道」=「旧山陽道」としているのに、各論では様々な「旧山陽道」が出てきて、論旨が整理されていません。 「古路・古道歴史散歩」の冒頭(メインマップ)に次の説明があります。 「ここで紹介する各街道のルートは確定されたものでなく、各説明文についても伝承・推論を含んでおります。皆さんに利用していただくと同時に、より確実性の高いルートについて議論していただく機会となれば幸いです。」 「伝承・推論」として読み取れるものが少しありますから大部分は史実・事実として記述されていることになりますが、上記に指摘したように多数の誤りが含まれています。 |