書評1、瀬野川お散歩マップ、瀬野川の歴史、船越地区

広島市安芸区役所のホームページの中に「瀬野川お散歩マップ」(2012年春改訂)と題する記事があります。
「瀬野川の歴史」と「瀬野川の自然」との二部構成となっています。

前者については街道沿いのポイント毎に関連する写真と簡単な説明文で、後者については生態系の多様な生物個々について写真と説明文で構成されています。
全体的に大変興味深く、その中でも「瀬野川の自然」の内容はスペースを十分に活用して分かりやすく丁寧な記述になっています。
ところが、「瀬野川の歴史」の部分では説明不足で、特に船越地区の部分には史実を離れた誤りや不適切な記述が多々あります。

下記はその例で、「太字」の部分が「瀬野川の歴史」の記述からの引用、その下が問題点です。ご担当の課へは指摘済みですが、反論はありません。


①.船越峠
「昭和32年の船越峠。明治20年以降整備された峠だが、西国街道の雰囲気を持っている。」


(1)、明治20年以降、現代までのいつ頃整備され、具体的にどんな工事をしたのか説明されていません。
実際には、付近の県道と同様に、20世紀のある時期に拡幅工事と舗装工事が行われたもので、わざわざ語る価値の無い事柄です。曖昧な説明は意味がありません。

(2)、昭和32年のこの写真には、道路沿いに瓦葺の大きな家が建ち並び、中景には正専寺の大屋根が見え、右手前には畑が写っています。いずれも、西国街道と呼ばれた江戸時代とは無縁です。
モノクロ写真を見て遠い昔の江戸時代の情景を空想するのは自由ですが、それをここの説明に使ったら偽装です。
根拠のない推測や空想でなく、写真の内容に即した解説文が必要です。

(3)、「瀬野川の歴史」の地図の左上にあるの記号は、船越峠ではなく、新幹線・府中トンネルの西口の位置にあります。

②.常夜燈
「「明治5年に建立された岩滝神社の常夜燈。今は、正月や祭りの際に灯がともる。」」


写真に写っている常夜燈は県道沿いにありますが、市場坂を登って岩滝神社まで行く参道の途中、鳥居の先にも三対の常夜燈があり、一番手前の一対が明治12年の建立で、奥にある大きな二対は昭和の建立です。岩滝神社の常夜燈としては、 明治5年建立の一基より、明治12年建立の一対(二基)の方が重要です。
県道沿いの常夜灯としては、むしろ海田市の熊野神社と東海田の春日神社の常夜燈がそれぞれ文化・文政年間の建立で、しかも大きいのですから、岩滝神社の常夜燈は紹介するほどの価値はありません。

④.松石の鼻
「干拓前は、ここまで浪が打ち寄せていた。前を通る新街道は1808年松石新開の干拓で西国街道となった。」


干拓の行われるはるか以前、宝永3年船越村図にも、同時代の中国行程記の絵図にも、松石鼻の下には明確に道が描かれています。中国行程記の絵図の中に「海岸道を為す」の記述があります。浪が打ち寄せている所には道が成立しません。新街道よりも海側に昔の海岸線があったことは絵図で確認できます。現代の地理データでも、海岸線の目安となる標高1.5mの等高線は現・県道の南側にあります。浪が打ち寄せていたという話は根拠の無い作り話・フィクションです。

⑤.市場坂
「西国街道の旧道で、尾根付近は胸突き八丁となる。松石新開完成後は岩滝神社専用の参道となった。」


西国街道ではなくなった後も村内の生活道路として使われていました。下道へ遠回りするよりもこちらが近道で便利な地域があります。合併前の町道です。「専用の参道」なら、町道に指定されるはずもありません。

⑥.カギ型の道
「カギ型の特徴ある街道。突き当りを右に行けば”市場坂”、左のカギ状に進む道が新街道である 。」


カギ型と言っても、道が4m程度食い違っていて45度ほど曲がってつながっているだけ。わざわざ紹介する価値はありません。30度ないし45度の急角度で曲がっている道は他の地区にも多数あり、「特徴」とは言えません。

⑧.代官所跡
「歴代公共の建物があった。代官所・郡役所・鼓浦尋常高等小学校・役場と変り今は児童公園である。」


児童公園ではなく、 広島市水道局、商工会、児童館、シルバー人材センター、広島市下水道公社、区役所別館などが入っています。

⑨.新宮社と新宮古墳
「船越最古のお社と古墳が隣合せである。市の指定史跡新宮古墳からは翡翠製勾玉付首飾りが出土した。」


お社と古墳は、それぞれ何世紀頃のものか説明が必要です。歴史を語る上での重要ポイントです。

⑩.ジグザグの家並み
「このあたりから上市にかけて街道に対して軒や敷石が斜めになるジグザグの家並みが続く。」


「ジグザグの家並みが続く」という表現は誇張を超えて虚構です。実際には、中央児童公園前から花都川橋までのおよそ300mの間には、県道沿いの両側に合わせて約40軒の家が並んでいて、そのうち、道路に対して家の正面が斜めになっているのはわずかに5軒です。掲載されている写真の中では、一番手前の1軒のみ少し斜めになっていて、その先の5、6軒はすべて道路に平行です。(一番手前の家が道路に対して斜めになっているのは、ここから手前の方へ道路の縁が少し右へ曲がっているからです。)
Google Mapの航空写真で見ると、南北方向に細長い地割が確認でき、その制約のために家の正面が道路と平行にできなかったことがわかります。
海田市宿の家並みも含めて、斜めになった理由は単純で、そこが元は農地であったことを示すだけで格別の理由はありませんから、これを紹介する価値はありません。実際に歩いてみれば、海田地区においても「ジグザグの家並みが続く」は虚構であることがわかります。

⑪.旧瀬野川河口
「明治6年鴻治新田の完成まで、瀬野川の河口は、“さかえ橋”の近くにあったと言われている。」


「瀬野川お散歩マップ」の表紙に掲載されている「明治初年海田新開絵図」に描かれているように、明治5年以前の瀬野川河口の形はラッパ状に広がっていて、かなりの幅と広さをもつ範囲が河口であり、特定の地点を河口として示すことはできません。この絵図では、花都川が瀬野川本流に合流する位置は、河口よりも奥に描かれている事が確かめられます。
折角ですから、ここで「明治初年海田新開絵図」と関連付けて説明すべきです。他にも、明治5年以前の瀬野川河口の形を示す確実な絵図や文書がいくつもあります。「言われている」というような無責任な表現をしないで、明治5年以前の瀬野川両岸の位置を地図で確認して説明すべきです。

⑫.八幡社
「八幡社は船越で最も古いお社の1つ。小高い丘の上にあり境内から素晴らしい眺めが楽しめる。」


何世紀頃あるいは何時代に建立されたのか説明が必要です。歴史を語る上での重要ポイントです。

⑬.潜水艇ドック
「第二次大戦中、日本製鋼所が製造した“潜水艇”のドック。 今は漁船の船だまりになっている。」


「瀬野川の歴史」の中で語られている全68項目のうち、唯一これが20世紀の痕跡です。瀬野川流域の歴史を語る上で、このドックは不要です。1企業の1時期の小さな活動は、紹介する価値がありません。


上記で指摘した項目のいくつかを削除しても、船越地区には他にも歴史的に重要なものは多数あります。

水分社、庚申社、黄幡社は中世に建立され、今も遺こる小社です。
的場川上流の溜池群は中世に築かれ、近世から近代まで灌漑用水を供給してきました。
稲荷社の傍では弥生時代の土器が発見されています。
市場山と下古屋山は、中世山城のあった所。
大歳社前の道塚は、明治初年の里道(現代の町村道)整備記念碑。
19世紀に干拓された松石新開と鴻冶新田については、大正時代の写真が残されています。


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