近世、幕藩体制の下で各村は年貢を納める事を求められていました。船越村の年貢について、年貢対象の土地面積、年貢算定基準となる村高、年貢率などと合わせて示すと、次のように推移していました。
年貢算定基準となる村高は寛永15年の地詰(検地)の結果に基づくものです。口米は年貢高の2%で、物成は年貢高と口米の合計。 寛永15年以降、小規模な開墾や農業技術の向上などによる収穫量の増加、農業外収入の増加などもあって村の総収入は増加していますが、藩政は村高を変更せずに年貢率の調整で対応する措置をとりました。このため、初期の年貢率が30%代であったものが、18世紀半ばから19世紀半ばにかけて40~45%の高率になり、その結果、貢租の総計が160石を超えるまでに至りました。 その後、18世紀の半ば、貨幣経済の浸透の実態に合わせ、年貢率を30%代に戻し、代わって銭納による貢租が増えたようです。銭納額の詳細は不明ですが、文化9年(1806年)完成した松石新開からの収穫や商工業の発展などもあり、米の石高に換算した貢租の総計では、近世末にはおよそ200石になります。 広島藩全体の年貢率は村により時代により異同・変動がありましたが、18世紀前半には平均で50%近くに上昇しています。船越村の年貢率は藩の平均よりはやや低かったようです。 明治政府の下で新たな課税システムとして地価・地租の制度が定められました。明治10年、船越村分について次のように定められています。
反当地価は「E=B×D×8.5] と計算され、地価総額は、「F=A×E」となります。 単年度収量の評価額の8年半分を地価としたもので、その2.5%を地租とされました。単年度収量に対しては、2.5×8.5=21.25%の地租(税)を払うことになります。税の安定徴収のため、実際の収穫ではなく評価高である点は、藩政時代の検地の場合と同様です。 地租総額の758.68円を米価の4.83円/石で割ると、157.08石になります。これに若干の租税を加えると、税負担総額では近世末のレベルとほぼ同じになります。 全国的には藩政時代の年貢負担率と比べて実質が同じ程度になるように定められたようですが、明治6年の地租改訂の当初は全国一律の3%のため地域によっては藩政時代の年貢負担よりも過重になり一揆が発生した所もあり、明治10年には2.5%に引き下げられました。船越村の場合、寛永15年の地詰(検地)での反当り収量評価高が、田に対しては平均1.4石、畑に対しては平均0.74石でしたから、この数字で見ても負担は軽くなっています。 しかし、翌年の明治11年に、反当収量、米価などを見直し地価は60%近く増額されました。その後も改定があり、明治24年の資料では、平均地価は田に対して51.996円/反、畑に対して34.245円/反になっています。 船越村の人口は、寛永年間が約350人で、明治初期には約1500人になりましたから、約4.3倍になっています。 この間、明治11年の地価・地租を充てて税負担の合計を米の石高に換算して比較すると約3倍になっていますから、人口一人当りでは減っていますが、地租の義務を負わない零細な層が増えた結果のようです。 また、農地面積は約3倍になっていますから反当りの税負担はほぼ同じですが、反当収量は近世初期より明治時代には向上していますから総収入に対する税負担率は下がっていると考えられます。 藩政以前の毛利氏時代の年貢率は50%でした(7、瀬野川流域の村々)。領地の経営方式が異なるので直接に数値の比較はできませんが、概ね、時代を経ても税負担率は大きく変わっていないようです。 所得税・住民税などを天引きされる現代のサラリーマンに比べて、重税感はどうだったのでしょうか? |