書評4、「太田川史」の描く古代海岸線

「太田川史」は、「旧・建設省中国地方建設局太田川工事事務所」から平成5年(1993年)に発行されました。
太田川流域の歴史を総括的に、簡潔に、わかりやすく解説された出版物です。一般市民の方が流域の歴史を学ぶ上で非常に役に立つ内容が記載されていますが、いくつかの疑問を感ずる内容がも含まれていますので指摘しておきます。以下、太字は「太田川史」からの引用部分です。。

「p27、左列13行目、
②下流平野の条里と河道変化
律令制の土地制度は、いわゆる公地公民制であり、班田収授法に従って各地に条里制がしかれた。太田川流域における条里遺構は、****。
条里の復元によって知られる(条里制施行)当時の太田川の流路は、図1-14に示すように矢口附近から平野中央を西流したあと、古川筋附近から南に向かって流れ、長束の河合・新川辺りで現在の流路の位置にもどっていた。
その後しばらくは、現在の古川筋を流れていたと思われるが、慶長12年(1607年)の大洪水の際に現在の流路をとるようになったといわれる。」


まず、このページに掲載されている図1-14には「出典:広島県史・原始古代編」と記入されていますが、1980年出版の「広島県史・原始古代編」には該当する図は掲載されていません。仮に、広島県史の旧版で該当の図が掲載されていたなら、1980年版では旧版の誤りに気づいて削除されたことになります。

この図の問題点は、当時の推定海岸線の位置を現・祇園大橋附近に描き、広島湾が深く入り込んでいることです。
海岸線は標高1.5-2mだったことを意味しますが、現在のこの附近は海抜5mです。条里制による地割が8世紀に行われたとして、現在までに約1200年間に3mもの土砂が堆積したことはありえません。
あるいは、8世紀に行われた条里地割が20世紀に確認されるなら、その場のその間の土砂の堆積がわずかであった事を立証しており、祇園大橋付近より下流にのみ3mもの土砂が堆積することはありえません。
「太田川史」のp74の地層断面図で、約1500年前(古墳時代)の地層が、南観音の地下、海抜-0.7mの位置に確認されています。つまり、約1500年前にすでに三角州の先端は南観音より沖にまで延びていたのです。太田川三角州上の平均地表勾配と平均流路勾配は約1000分の1ですから、1500年前の時点で既に標高1.5mの地点は相生通り付近になり、祇園大橋付近で標高4mを超えます。
この図は、古代末・中世初期の海岸線が祇園大橋付近にあったという説に基づくものですが、上記で説明したような初歩的な誤りを含んだ、杜撰とも幼稚とも表現に困るような代物です。

この項の冒頭部分に「班田収授法に従って各地に条里制がしかれた」という記述がありますが、最近の定説は、班田収授法と条里制との直接の関連は薄く、各地の条里地割りは、中世から近世初期に至って行われたものも多い事が確認されています。
太田川流域の条里遺構と呼ばれるものも、何時施行されたものか、考古学的な検証はされていません。

「p28、左列4行目、
①荘園の急増と厳島領の拡大
****8-9世紀において中央の有力寺社・貴族による山野・入会地の囲い込みがあり、初期荘園が成立する。太田川流域でも牛田荘が成立するが、8世紀後半には消滅してしまう。」


牛田荘は、「宝亀11年(780年)の西大寺流記資財帳の牛田荘図」によって8世紀後半には成立している事が確認できます。そして、建久2年(1191年)の西大寺文書の「顛倒荘々」の項目中に「牛田荘、墾田79町」の記載がありますから、12世紀末の段階で西大寺の所有から離れてはいても存在はしていたのです。「太田川史」p28の「8世紀後半には消滅してしまう。」という記述は根拠がありません。

「p28、右列3行目、
****古くから干拓が行われていた。最も古いのは正応2年(1289年)の温品村資料に「新堤」と記載されたもので、塩入りを防ぐ堤防の築造を知ることができる。」


温品村は太田川から5kmほど離れているから、太田川と無関係です。
上記、図1-14に描かれているように、温品村南部には古代条里地割りが行われ、その南側(矢賀村の北端)に古代山陽道が通っていたと推定されているのですから、温品村に正応年間に近い時代に潮止め堤防を築いて干拓されるような干潟が存在することはありえません。
正応2年の温品村資料とは田所文書の中の記述の事ですが、この中の「新堤」は、中山川下流部の流路を固定するための堤防です。「塩入りを防ぐ堤防」ではありません。中世、温品と矢賀、を参照。
これに先立つ12世紀に、田所氏はこの付近(府中北部から温品南部)で荒地の開墾を行っていますが、干潟の干拓ではありません。

「p31、右列2行目、
****年貢や貢納物は陸路および太田川の川舟によって、当時の佐東川(太田川)河口の萩原・坪井・堀立に設けられていた倉敷に集められていた。」


上記、図1-14に関して説明したように、当時の太田川河口はこの付近にはありません。また、倉敷があった萩原・坪井・堀立は太田川の支流を遡った位置にあったことも確認されています。執筆者はこれらの位置と流路を地図上で正確に確認してから記述すべきです。

「p70
海抜5mの祇園大橋附近から下流は太田川がつくった三角州であり、通称広島デルタと呼ばれる。
毛利輝元が広島築城を決意した頃は、五か浦または五か村と呼ばれ、海水に浸らない島(中洲)がいくつか形成されていた。
その中で比較的早く形成された島は、現在の三篠・楠木町がある別府および白島町がある箱島であり、海抜3m-4mの地盤高を持つ比較的高燥な土地であった。
別府と箱島の二つの島の南には広島城と城下町の建設に選ばれた在間・地家などの島、および広瀬と呼ばれていた島があった。二つとも広い面積を占めていたが地盤高は海抜1.5-3mにすぎず、いわば生成途中の三角州面であった。その南限は平和大通り附近にあった。これが広島城築城当時の海岸線ということができる」


17世紀初頭の太田川三角州の状況は、このように具体的なデータに基づいて確認できます。それより800年前の状態を太田川が運び出した土砂の量から推定すると、三角州上の中州はすでに恒久的な陸地になりつつあり、海岸線・河口は相生通り附近に達していたことになります。
p70で述べられている「別府」、「在間」、「地家」の地名の由来を追及すれば、p27に描かれているような、条里施行当時に現・祇園大橋附近に海岸・河口が位置することはありえないことがわかります。

「太田川史」のp32には「箱島の正観寺」を紹介されていますが、この中の「霊亀元年(715年)開基の由来」の記述を信用するなら、8世紀には中州としての箱島が存在しそこに正観寺が存在したのであり、その点から見ても、p27の図で条里施行時の海岸線を祇園大橋附近に描いたのは誤りだといえます。(この「由来記」に示す年代が正確ではないとしても、少なくとも8世紀には箱島が存在していたから成立する「由来記」です。)


上記に指摘したように、p27からp31までの記述は、p70、p74の内容と矛盾した辻褄の合わない内容を含んでいます。
ついでに言えば、p74に示すA-A’断面図(太田川の流路に沿った地層断面図)を読み解けば、1000年前には太田川河口は相生通り付近まで南下していたことが明らかなのに、それを読み解けていないのは奇妙なことです。
p70の冒頭で、「祇園大橋附近から下流は太田川がつくった三角州であり」と述べています。三角州の基点は氷河期が明けて海進のピークに達した頃の海岸線・河口の位置に該当します。つまり、6000年ないし7000年前に河口のあった位置が祇園大橋付近だと論じているのと同じです。古代には、当然のことですが河口ははるか南に下がっていることになります。
「太田川史」がこのように矛盾だらけの記述になっているのは、あちこちの出版物の記述を寄せ集めて切り接ぎで文章を作り上げていることを露呈しています。


参照資料: 太田川史(1993年発行)、 広島県史・原始古代編(1980年発行)、  広島新史・地理編(1983年発行)、  中山村史、  日本の地形⑥(2004年発行)、 講座日本技術の社会史⑥土木(1984年発行)、


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