1、温品村 中世国衙役人として国府(現・府中町)に居た田所氏の所領を示した正応2年(1289年)の文書(沙弥某譲状)の中に、次のような内容が記されています。 (表記と配列は原文書から変えています。) 温品村田畠・10町 小内・6反、船木口・8反、江良田・5反、黒谷・2反、天*・3反(*の文字は林の下に木)、手箱・6反、新堤・7町、 現在の温品地区には昔に遡ってもこれらの地名は無いのですが、一方、中山地区には、文化度国郡志(中山村)の地名の中に「船木」、「黒谷」、「よら田」のあることが確認できます。「よら田」は「江良田」が転じたものと考えられます(中山村史p94)。小内(おうち)は、中山から尾長へ抜ける大内越(おうちご)の名に残っています。1枚の文書に記されるのは一区切りの地域ですから、この文書に示す10町は近世の中山村とそれに隣接する狭い範囲にあるものと考えられ、中世の温品村は、近世の中山村まで含んでいたようです。 新堤(7町)は、1区画としては特別に広いので平坦地にあったと考えられます。一方、他の6地点は1区画の面積が小さく、場所を推定できた4地点はいずれも中山川の谷筋に沿った地点なので、6地点の全てが谷筋にあったと考えられます。 中山川は谷筋を急勾配で南流した後、現・中山小学校の西側から平地に出ますが、そこからはS字状に蛇行しています。このS字状の流路付近の平地は、中山川が出水の度に氾濫し、農地があれば被害を受け易い地点です。また、頻繁に流路を変えていたようです。(中山川が下流部で蛇行しているのは周辺の地形の影響によるもので、人工的に蛇行させたものではありません。) そこで、中山川下流部の流路を固定し、安定した耕地にするために堤防を築いたのが、上記文書の「新堤」で、その恩恵を受ける農地が7町あったと考えられます。 現代の地図は道路と建物が輻輳していてわかりにくくなるので明治26年の地形図を基に、右図のように書き込んでみました。 図でAは中山小学校付近で現・中山東1丁目、Bが中山東2丁目。 Cは新幹線車輌基地北部で現・中山南2丁目、Dは新幹線車輌基地南部で現・矢賀6丁目。 中山川がS字状に蛇行する部分に「新堤」の堤防を築いたとすれば、この堤防の恩恵を受ける区域は、これらA,B,C,Dの範囲内のどこかで、その7町の面積が田所氏の所領だったということになります。 地図でみるとわかりにくいのですが、1947年のこの付近の航空写真でみると、中山川下流部平地の地割りの線は流路変遷の影響を受けて輻輳していることがわかります。 文政年間に編集された「芸藩通史」の村図には、右図のCに該当する地点の中に「三日市」と記されています。「三日市」は中世の市場ですが、中世の市場の多くは河川の中洲や河原に設けられました。それは氾濫のリスクがあるため耕作を避けた空き地があったからでした。この地点も、元来は中山川の氾濫の被害を受けやすい地点だったようです。 また、「芸藩通史」の村図には「八反田」という地名が、CとDに当たる地域に記されています。田所文書の新堤(7町)に関係ある場所かもしれません。 なお、 中世の温品村については、別の田所文書(国衙領注進状)で田畑63町8反が記載されていますが、これが近世の温品村と中山村の基盤になったようです。 補足: (1)、文化度国郡志(中山村)の中に次の記述があります。 「当村大橋より沖手已然ハ水窪の由、それ已来川堤通りも相替候様承伝申候得共いつ頃より相替儀相知レ不申候」 つまり、「中山川下流域一帯は排水の悪い場所であった。川の堤防を付け替えたと伝えられているが、いつ頃の事かわからない。」とのことです。ここで言う「川堤」が田所文書の中の「新堤」に該当するようです。 (2)、正応2年(1289年)に先行する建久9年(1198年)に、田所氏は府中北部から温品南部にかけての3箇所(右図の小円で囲んだ付近)の荒地の開発を申請し認められています(新開発田解状目代裁判書)。 この場合の荒地開発は、草木の伐採と水路の整備が基本でした。流路を決め、川底を浚え、浚えた土砂で土手を固めて、安定した耕地を作っていったのです。また、12世紀の時点で、府中平地北部の開発がここまで進んでいたこともわかりますが、塩を含む海水の海ではなく、淡水の湖に面していたことも示しています。。 (3)、冒頭に記した「小内(おうち)」の地名は、後世「大内」に変わって中山から尾長へ抜ける峠道の「大内越または大内子(おうちご)」の名に残ったもののようです。(周防の大内氏の軍勢が府中を攻めた16世紀よりはるか以前の13世紀に小内(おうち)の地名があったのですから、この地名は大内氏とは無関係です。さらに、大内氏は鹿籠に陣を構えて南から府中を攻めた記録はありますが、尾長から中山を経て北から府中を攻めた記録はありません。) 2、矢賀村 正応2年の田所氏の文書には、さらに下記の記述があります。 「一所畠2反、 矢加村 件畠者、***、依為船津所望之間、預之畢。*********」 田所氏の所領となった経緯を細かく記述してある部分は省略しましたが、船津(船着場)を造るためにこの地を所望したと記しています。 現代の矢賀地区は近世(江戸時代)の矢賀村の範囲を受け継いでいますが、ここの東端は府中大川を挟んで府中町(近世の府中村)に隣接しています。 しかし、田所氏が国衙に居た中世には、矢賀村の範囲は広島湾東北部の沿岸に細長く延びていて、西は近世の尾長村の地域を含み、東は茂陰山・千代山麓の沿岸部まで延びていたようです。 船着場を設けるに適した地点として考えると、岩鼻付近より西の海岸は満潮時の短時間には海水に覆われても、大部分の時間は地表が現れる干潟で船着場を設けるに適していません。 一方、千代山付近の海岸なら一日の過半は海水に覆われていますから舟の出入りができたはずで、この付近に船津を造ることを考えたようです。この付近ならば、砂州を通じて東西の陸路交通は便利であり、国衙にも近いのです。 この地は近世に入ってから、右図のE点とF点の入り江が、それぞれ、出潮新開(1674年)、本灘新開(1685年)として干拓されています。大須新開(1660年)、仁保島東新開(1663年)より遅れて干拓され、上流側から年数を経て土砂の堆積が進んできたことを示しています。 広島湾東岸の新開造成をご覧ください。 補足: 11世紀、12世紀は地球規模の温暖期で、日本列島でも洪水が頻発した時期でした。また、田所文書に示す「新堤」に先行して「古堤」もあったはずで、田所氏が行った12世紀末の開墾は、そのような治水対策としての「堤」の築造と併せて行われたものと考えられます。 |