書評3、「広島市文化財団 広島城」の語る広島湾

「財団法人広島市文化財団(2011年4月より広島市未来都市創造財団に衣替え) 広島城」(以下、(財団)広島城と略記します。)は、展示や出版物などを通じて、広島城に関わる様々な情報を発信しています。地元の市民はもとより、広島城自体や広島城下町、中世・近世の歴史に関心を持つ各地の人々にとって貴重な活動をされています。

その中の出版物については、長期的にあるいは繰り返し目に触れる機会が多いだけに大切な存在です。 その記述は、当然に史実や検証データに基づいたものであり、特に、広島城築城以降のことがらについては信頼に足るものであろうと考えられます。

ところが、築城以前のことがらについては、信頼に欠ける記述が若干ありますので、以下に指摘をしておきます。

(以下、(財団)広島城の編集・出版物名と、そこからの引用は太字で表します)

1、平安時代末の太田川河口部

毛利輝元と二つの城(ページ24)、広島城と毛利氏の居城(ページ32)および広島城・総合案内(ページ6)には、いずれも、「平安時代末頃、当時の河口部と推定される佐東(安佐南区祇園一帯)には、**」と述べています。

また、しろうや! 広島城(広報紙,No.22)でも、「11-12世紀の頃になると太田川上流の内陸部に置かれた荘園からの年貢を領主の元へ海上輸送するため、年貢を集積し船に積み込むための倉敷地が河口付近に設けられます。***掘立江や桑原郷の倉敷地がそれで、瀬戸内海を航行する船がこの付近まで遡上していたようです。」と述べています。

これら出版物の別項でも述べているように、16世紀末には広島湾頭の海岸線・太田川の河口は現・平和大通り付近にあったことが確認されています。現在の平和大通り付近の地盤高は概ね2mですから、人工的な堤防のない自然の地形では、この付近に海岸線・河口のあったと考えるのは妥当です。

一方、旧祇園町長束付近の現在の地盤高は概ね海抜5mですが、この付近に、平安時代末(例えば12世紀)から、わずか400年で3mも土砂が堆積することはありえません。

太田川河口は平安時代に既に平和大通り付近にあったはずです。

広島湾頭をめぐる歴史群像(ページ28)で、「(志道原荘倉敷地、壬生荘倉敷地)の両倉敷地とも、その境界(傍示)を示す文献資料に入り江を意味する「江」という文字が含まれることから、当時は倉敷地付近に太田川河口部が存在した、と考えられる。」と述べています。

しかし、古語辞典によると、「江」の意味は「①入り海または湾②川、湖、海、人工的に掘削した水路」となっており、「入り江を意味する「江」という文字が」という断定は成立しません。

この場合の「江」は太田川の支流の意味です。
「江」が小河川を意味する例は多数ありますが、例えば、旧吉田町の「入江」は、可愛川に支流が合流する所で、戸坂の「出江」は戸坂川が谷間から平地に出る所です。
また、各地に古代の荘園図や中世の荘園絵図が多数遺されていて、その中に「**江」という表記がありますが、例外なく「小川」もしくは「堀」です。

桑原郷の倉敷に関して厳島文書は「東は江、南は大河、西は山峰を限る」と記述しており、「江」は太田川の支流、「大河」は太田川の本流と考えれば当時の地形から見た立地が明らかで、河口の近くではありません。東に「入り海」と解釈し、南に「大河」では、太田川の流路が成立しません。広島湾頭をめぐる歴史群像の執筆者は地形を具体的に思い浮かべることもせず、文字面だけで語っています。22、牛田荘と五箇浦と倉敷を参照ください。

さらに、両倉敷地の領主は厳島神社ですから、年貢類の多くは厳島神社まで運ばれたのですから大船は不要です。厳島神社前が中世において大きな交易拠点でした。

広島湾 広島湾頭をめぐる歴史群像(ページ29)の右下図で中世の海岸線が描かれています。この図で瀬野川河口は現・海田町蟹原付近にあり、ここは現在の標高が2m程度ですから妥当な位置です。ところが、大田川の河口は現・横川付近になっています。ここは現在の標高が4m近いのに、毛利氏築城までの数百年で2mも土砂が堆積することはありえません。中世の太田川河口は既に平和大通り付近にあったはずです。

また、ページ28で「倉敷地付近に太田川河口部が存在した」と記述していながら、ページ29の図では倉敷のあったと主張する地点より3kmも南の現・横川付近に河口を描いていることは矛盾しています。
これらの出版物の編集者は、既存の様々な出版物の内容をバラバラに集めて、内容を理解せずに、つぎはぎで編集したことを露呈しています。

2、 古代山陽道

広島城・総合案内(ページ6)で、「**、古代山陽道が通っており、役人の移動、租税の輸送等に利用されました。」と述べています。

安芸国内にいくつかの駅家が設置されていたことが様々な資料で確認されていますが、これは馬の乗り継ぎ・交換のための施設であり、急使の馬を走らせたことは確かですが、役人の移動、租税の輸送にどの程度利用されたかは確かではありません。 少なくとも年貢については、備後以西の西国から近畿への運送には主に海路を利用していました。山陽道について定めた延喜式でも、陸路と海路の公定運賃に類するものが定められていて(広島県史・古代編p320)、海路の方が陸路の4分の1、5分の1の安さですし、荘園が広まった中世には瀬戸内海航路の船はさらに増え大きくもなって、陸路を利用した記録はありません。陸送の割合が大きいのは、平坦地が多く、山陰や内陸の物資の集まる播磨以東から都への輸送です。

広島湾頭をめぐる歴史群像(ページ27)で、 「山陽道は現在の広島デルタの北側を大きく迂回するルートを取っていたと想定されているが、これは古代の海岸線が現在よりもかなり北に入り込んでいたことを反映していると考えられる。安芸郡府中町の安芸国府推定地は。現在海から4.5km程離れているが、周辺には海に関係する地名(「合磯」、「鶴江」)が見られ、古代の海岸線は「大道」近くまで入り込み、入り江のような状態になっていたと考えられる。」と述べています。

「古代の海岸線が現在よりもかなり北に入り込んでいた」という事に根拠はありませんから、「山陽道が現在の広島デルタの北側を大きく迂回していた」理由にはなりません。

「磯合」の近くには古代条里制遺構、すなわち古代の農地のあったと推定されています。もし、この付近に海が入り込んでいたら地中に塩分が浸透し農業は成立しませんから、条里制遺構の存在は古代に遡ってもこの付近に海が入り込んでいなかった事を証明しています。 後世の当て字に過ぎない「磯合」という地名の文字面から由来を推定すること自体が無意味です。「磯合」は「そわい」と読みますが、国語辞書によると「そわ」は「崖」の意味ですから、「そわい」は「崖の傍の湧き水が出る所」と考える方が付近の地形から見て合理的です。

「鶴江」に関して「鶴が飛来したところ」という話が地元に伝えられています。藩政時代には鷹狩場があったそうです。鶴は淡水性の湿地や沼の生物を餌にしていますから、この場所は海水の入らない(海岸から離れた)湿地や沼であったことを証明しています。古代の府中町平地を参照。 「江」は海につながらないことは上記のとおりで、「鶴江」は温品川の古称だと考えられます。

上記で引用した「役人の移動、租税の輸送」に戻れば、ある程度は陸路の利用はあったでしょうが、そのためには馬を利用したのは確かです。古代山陽道が北に大きく迂回していた理由を「海岸が北に入り込んでいたから」とするのは単純に過ぎる発想で、当時の広島湾岸付近の地形を検証して、馬の通行に支障のあった理由を確認すべきです。

古代の海岸線を古代山陽道のルートから推測する、というのは全く非科学的な考えで、地理学・地質学の資料やデータがたくさんあるから、そこから推測すべきです。

3、16世紀までの干拓

毛利輝元と二つの城(ページ25)で、 「五ヶには三角州以外に堤防を築いて干拓された土地が存在した」と述べ、 広島城と毛利氏の居城(ページ32)でも 「堤防に囲まれた干拓地***の存在が確認され」 と述べています。

この記述は、「潮止めのための干拓堤防」と「河川の洪水を防ぐための治水堤防」とを混同し、干拓地の構造を理解していないことを示しています。

「五ヶ村」と紹介された地域の現在の地盤高は概ね海抜2mから4mくらいにあり、干潟には該当しませんから、ここの堤防は干拓のためではなく、洪水対策といえます。江戸時代になって城下の南や東の広い干潟に潮止め堤防を築いたのが干拓で、その辺りは現在でも地盤高は海抜2m以下で、ゼロメートル地帯も広く分布しています。干潟に築かれた***新開と呼ばれた地域の堤防と、中州に造られた城下町の堤防は主目的も構造も異なります。

「五ヶ」には三角州以外に堤防を築いて干拓された土地が存在した」と述べていますが、この記述に根拠はありません。「五ヶ村」自体が太田川三角州の一部であり、洪水対策の堤防を築いて農地や居住地を護っていたのです。干拓されたものではありません。

4、今川了俊が辿ったコース

しろうや! 広島城(広報紙,No.22)では、次のように紹介しています。

「今川了俊は紀行文「道ゆきぶり」を著します。その中に「****、長月の十九日の有明の月に出でて潮干の浜を行くほど、なにとなく面白し。」の一文があります。了俊がこの日たどった確かなコースは分かりませんが、****、海田から廿日市まで全行程20kmと考えられます。所要時間は5時間ほどの距離となります」としています。

全行程20kmは現在の国道2号線の道のりで、了俊の辿った経路を具体的に描かずに「全行程20km***。所要時間は5時間**」の記述は無責任です。

また、「長月の十九日は新暦で11月5日に当たります。***満潮は、***海抜331cmまで潮が満ちます。干潮は当日早朝の午前4時40分で海抜1cmまで潮が引き」と述べています。

これは、潮位と海抜とを混同した記述です。第6管区海上保安本部の資料によると広島湾の場合、潮位184cmが海抜0cmに相当します。従って、満潮時の潮位331cmが海抜147cmで、干潮時の潮位1cmが海抜マイナス183cmです。執筆者は、潮の干満について調べもせずに記述しています。

さらに、「有明とは月がまだ西に沈んでいない状態をいいますから、了俊は早朝に出発し月明かりを頼りに潮の引いていく浜伝いに西に向かい、最も潮の引いた頃を見計らって太田川を渡河し、佐西の浦に至ったものと考えられます。」と続けています。

「有明の月」は旧暦20日頃の月で、多くの場合、「夜が明けてなお西空に残る月」の意味です。しろうや! 広島城の説明は「夜が明けて」を無視し、無理に「月明かりに」了俊を出発させています。当日は佐西浦泊まりで、翌日に厳島神社参詣を予定していて、早朝暗いうちに出発する理由はありません。

仮に広島湾頭をめぐる歴史群像(ページ29)の右下図に示す海岸線が正しいとして、海田浦から太田川まででも浜伝いの道のりは約20kmあります。これを月明かりに辿ることなど、空想の世界の話です。

また、干潮のピークの午前5時前に大田川を渡るつもりなら、午前0時には宿所を発つ必要がありますが、それは早朝ではなく深夜です。九州探題という高位の武将である了俊が深夜を選んで発つはずがありません。しろうや! 広島城の記述は、了俊に大田川の干潟を渡らせるために無理なこじ付けをしています。

「潮干の浜をわたる今川了俊(想像図)」が掲載されていますが、干潮のピークの午前5時前に渡ったなら、この季節の日の出は午前6時半頃ですから、まだ真っ暗なはずなのに、想像図では空を明るく描いています。午前7時以降に明るくなってから太田川を渡ったのなら、潮が満ちてきていますから潮干の浜を行くことはできません。この図は、想像を超えた偽装です。
潮が引いて間もない柔らかな干潟を武将達を乗せた馬が何キロも進むことは、足先(蹄)の細い馬にとって大変なことです。
さらに、図に描かれた場所が干潟なら、ここは満潮時には海面下に没して波や潮流の影響で地表面は平らになってるはずなのに大きな起伏のある地表面が描かれています。図の左奥には水面が描かれているが、干潮時なら地表面が現れるはずです。干潟面の状況を知らずに描いた妄想に過ぎません。
この図の右奥に谷間が描かれているが、人物の大きさと対比してみると、谷間の幅は100mほどになります。該当する場所は可部にまで遡らないと見当たりません。この図では、了俊に可部付近まで遡って太田川を渡らせています。
仮に広島湾頭をめぐる歴史群像(ページ29)の右下の地図に示す海岸線が正しいとしても、この地図のどの場所からも、どの方向を見ても、こんな想像図は成立しません。根拠の無い虚構です。

(財団)広島城の出版物の中で「了俊が辿ったコース」に関する記述を読むと、当時の海田湾の干潟(瀬野川三角州)の存在をまったく認識していません。2、瀬野川三角州および海岸平地の形成を参照ください。「道行きぶり」の記述を素直に読めば、了俊が述べている潮干の浜は、海田湾の干潟以外にはありえません。
(財団)広島城の出版物は、向洋から仁保島周辺の地形も考えず、己斐、草津から井口に至る海岸地形も理解せず、ひたすら、「潮干の浜なら太田川三角州しかない」という思い込みから、無理なコースを空想しています。

仮に了俊が陸路を採った場合は概ね近世山陽道の経路になるはずで、これでも海田の宿所から佐西まで約25kmありますし、船越から府中へ峠を越えると、それ以降は干潟を歩く機会がありません。

詳しくは、余禄3、「道行きぶり」の海田を参照ください。

5、太田川三角州の形成

広島湾頭をめぐる歴史群像(ページ32)で、「広島城築城以前の太田川河口部は、葦原が広がるだけの三角州というイメージで語られがちであるが、このようなイメージを無批判に受け入れることは避けねばならない。」と述べています。

この記述は重要です。太田川三角州の形成の歴史や断面構造など地理学・地形学的解説は、広島新史・地理編、戸坂村史、日本の地形⑥にわかりやすく記述されています。これらの資料を参照すると、大田川河口は1500年前頃(古墳時代)には相生通り付近に達していることがわかります。太田川三角州の地形的発展の経過を正しく理解し、広島城築城前の歴史の中に入れるべきです。その点で、広島湾頭をめぐる歴史群像のページ29の右下図は「誤った葦原」をイメージさせる典型的な例です。
23,広島城築城前の太田川三角州を参照ください。

(財団)広島城の出版物の記述は、地理情報を平面的(2次元)にのみ認識し、立体的(3次元)に理解していないことが特徴的です。高さ、深さ、厚みなど、垂直方向の時間的・空間的変化をまったく考慮していないから、「平安時代末の太田川河口部は祇園にあった」、というような事実に反する解説が生まれます。あるいは、根拠のない伝承の類を史実であるかのように扱うから、文化財団の名に値しない解説が生まれます。

ついでに言えば、広島城跡遺構の発掘データなど、考古学的に太田川三角州の形成を理解するデータが多数あるのに、(財団)広島城がそれを活用しないのは全くの怠慢としかいえません。
また、21世紀の今日、数十年以上も前の古い出版物の内容を丸写ししたような記述は、その事自体も怠慢です。


参照資料: 毛利輝元と二つの城(2003年刊)、 広島城と毛利氏の居城(2008年刊)、 広島城・総合案内(2008年刊)、 広島湾頭をめぐる歴史群像(2009年刊)、 広島県史・原始古代編(1980年)、  広島新史・地理編(1983年)、  中山村史、  戸坂村史、  日本の地形⑥、 海田町史、  府中町史、  安芸町誌、  日本古代海運史の研究、  中世の風景を読む、 

上記文中に引用したしろうや! 広島城(広報紙)は(財団)広島城ホームページから、その他の出版物は、広島市立図書館で閲覧できます。


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