補足2、 太田川三角州の発達


1、太田川三角州の発達

三角州は、海水準変動の影響を受けながら河川から運ばれる土砂が堆積して形成されますが、粗い土砂は下流や河口付近で、細かくなるほど沖まで広がってから沈殿していきます。
海水準は、氷期の約18000年前には現在より約120m低く、その後上昇して6000年ほど前のピークには現在より2mほど高くなり、その後低下して現在に至っています。

海岸の移動 太田川三角州についても、現在の地下に堆積している土砂の量をボーリングによるデータから算定でき、そこから三角州形成の経過を大まかに推定できますが、もっとも簡潔に確実にこれを示しているのが、「日本の地形⑥」より引用した右図です。

広島市街地などの地下に、暦年代の7300年ほど前に堆積した火山灰層が確認されて当時の海底面・地表面の位置もわかり、当時の海面の高さも推定できます。
この断面図には南観音の地下に14C年代で、(海抜-0.7m)1470±85年前、(海抜-7.2m)4180±90年前、(海抜-17.2m)5220±95年前の地層が示されています(暦年代で、それぞれ1500±90年前、4900±100年前、6000±100年前に相当)。それらが堆積した当時の海底の勾配を火山灰堆積層の勾配とほぼ同じとして線で描いてみると、その時点での海岸線の位置が大まかですが推測できます。

また、南観音の地層データなどから堆積経過を推測できますので、それを基に1万年前からの南観音地点の土砂の堆積(地表・海底面の標高)と海面変動を併せて描くと右中図のようになります。

暦年代のおよそ1万年前頃に、標高ー24mだったこの地点にまで海面が達し、さらに8500年前頃まで急速に海面が上昇して海岸が陸側へ進んでいます。
その後、海面上昇よりも土砂の堆積速度が勝って海岸が沖側へ移動し、6000年ほど前の海面上昇のピークを経て、さらに海岸線は沖へ移動し三角州は拡大していきます。

また、6000年前から4000年前頃にかけて堆積速度が大きくなっているのは、海進のピークを経て三角州の先端がこの地点を過ぎて沖へ進んだことを示しています。細かくみると、5500年前から5000年前頃にかけての海面低下時に三角州の前面に土砂が多く堆積しています。
そして、2000年前ころには太田川三角州は南観音のさらに南まで広がっていたとわかります。

太田川三角州上の平均地表勾配も、平均流路勾配も、およそ1000分の1ですから、自然の海岸線の位置を標高1.5mの等高線付近とすれば、1500年前の海岸線・河口は、相生通り付近にまで既に南下していたことになります。

2000年前から現在までの三角州の拡大も、三角州上の土砂の堆積量もさほど大きなものでなく、旧・祇園町などで古い条里地割りが残っているのも、この間の土砂の堆積が少なかったことを示しています。

また、500年前ころの南観音地点の標高をー0.2mとすれば、直前1000年間の土砂の堆積は0.5m程度となります。祇園町付近から三角州先端までの平均地表勾配は1000年前に遡ってもほとんど変化は無いはずですから、祇園町付近においても1000年間の土砂の堆積は平均で0.5mを超えないと考えるのが合理的です。

なお、太田川三角州上の平均地表勾配の1000分の1は、一般的な三角州としては大きく、臨海扇状地に似た地形になっています。

右下の図は、太田川下流部で土砂の堆積による地表面の変化を段階を追って表したものです。流路の変遷に伴う細かな起伏を均し、平均値で描いています。(平均地表面は、自然地形では概ね洪水時の水面です。)満潮時の海面高さを1.5mとし、それぞれの地表面との交点が海岸になります。広島築城時の16世紀には海岸線は現・平和大通りから福島町付近にあり、8世紀には相生通りから上天満町付近にありましたが、そのような海岸・河口の移動がわかります。(なお、2000年前の海面は現代より約0.5m低く、5000年前には約1.5m低く、7300年前には約5.5m低かったと想定しています。)
八木付近から祇園・横川を経て福島町付近までの太田川下流部の地表勾配は概ね1000分の1です。福島付近から沖側の、かつての干潟だった所はやや勾配が緩くなります。八木付近から上流側は谷間が狭くなって勾配がきつくなります。

旧祇園町周辺では古代条里地割遺構が確認されており、耕作など人為的撹乱を伴う表土の厚みは1m程度です。いずれも、歴史時代に入ってから堆積した土砂の厚みは薄いことを証しています。
昔の学者さんが、中世初期の太田川河口・海岸は祇園大橋付近にあったと解説していますが、その場合は赤線で描いた地表面になり、ありえないことが明白です。

注記:
上記、「日本の地形⑥」の図では、「横川」の位置はJR横川駅付近を示し、陸成層と海成層の境を示す帯は当時の海岸(満潮時の汀線)よりもかなり沖側にあります。(洪水により上流から新たに土砂が流れてきて堆積する際、元々海岸・河口にあった土砂を沖へ押し流すため。)
一方、「太田川下流部地表面の推移」の図では、「横川」の位置は横川一丁目付近を示し、海岸は当時の満潮時の汀線(海抜1.5m付近)の位置を示しています。8000年前頃から2000年前頃までの海岸の位置は、表現は異なりますが、実質的に両者はほぼ同じです。



2、広島城関連遺跡

1990年頃より、広島城関連遺跡の発掘調査が20箇所以上の地点で行われ、数多くの遺構・遺物が調査され、広島城および城下町の歴史的発展経過を確認できます。

これら発掘調査に伴い当該地点の地層断面も確認されていますが、そのデータは太田川三角州の形成を考える上で重要な内容を含んでいます。

発掘調査報告書の中で、広島城築城直前の表土を除いた地面の標高を推定できるものを集め、図示すると右図のようになります(黒点・黒字)。表土の厚みは場所によってバラツキが大きいのですが、概ね0.5~1m程度の厚みがあったようです。

等高線も、ごく大雑把に推定し書き加えてみました(赤線・赤字)。土砂の堆積経過によって三角州上の地表面には複雑な起伏があったはずですし、流路に当たる部分の最深部は両岸より1m近く低かったかもしれませんが、詳細を確認できる手段はないので、粗い推定です。

広島城築城直前の海岸線は現・平和大通り付近にあったのですが、三角州の先端はかなり幅の広い葦原が連なっていて、砂浜の海岸のようには明確な海岸線の情景ではなかったようです。そして、干潮時には葦原の先に広い干潟が現れたことになります。
また、上流側から標高1.5m付近まで耕地化されていたようです。
また、20世紀になって地盤の沈下があったようで、この図にに示すよりも築城時の標高は若干高かったと考えられます。


3、広島城関連遺跡-2

2009年度に行われた広島城跡上八丁堀地点(上八丁堀6番30号)の発掘調査の報告書には様々なデータが多数掲載されていますが、その中で調査区域内の東部で確認された井戸遺構付近の地層データは太田川三角州の形成を考える上で重要です。

この井戸は広島城築城から間もない頃に掘られたもので、周辺の地表面は標高1.6mで中世末から近世初頭(400年余前)のものと推測されています。その下に0.8mほどの厚みで三角州の氾濫原の地層、さらにその下に2m余の干潟層となっています。井戸の内壁の途中、標高0.1mの位置から採取された植物遺体は放射性炭素年代測定で2800年前のものとされ、この部分の地層は2800年前の堆積層と考えられます。

2800年前から400年前までの2400年間に、標高0.1mから標高1.6mまでの1.5mが堆積していますから、平均して1000年間に0.6mのペースで堆積しています。従って、氾濫原と干潟の境界は1700年前頃(幅をみて1500~2000年前)の層と推測されます。
(時代を経ると共に三角州の面積は広がりますから、それと共に堆積厚みは小さくなります。もし、人工的な堤防や盛り土の無い自然のままの太田川三角州なら、最近の1000年間には0.5mに満たない厚みだろうと推測できます。)
約2000年前から約1800年前は海水面の低下期ですので、それに対応してこの境界面ができたとも考えられます。
大雑把に言えば、この辺りは数千年前に干潟化し、1700年前には海岸になり、以降は陸化して氾濫原としての堆積が進んできた所です。

調査区域内でも、井戸遺構から西へ50mほどの地点で、氾濫原と干潟の境界が標高1mとなっています。従って、この付近は概ね西高東低の緩い勾配の地層になっており、また、太田川三角州は本川の流路付近を中心軸に南方へ延びてきていますから、調査区域付近に海岸線があった1800年前には相生橋付近まで海岸線が達していたと推定されます。

なお、この発掘調査では400年余前の地表面に畑の遺構が確認されています。広島城築城前には、この付近より上流側の中洲では畑作が行われていたと考えられます。
また、氾濫原層の下部には葦類が生い茂っていた痕跡が確認されています。

従って、この辺りは縄文時代後期には干潟になり、弥生時代から古墳時代には葦の生い茂る海辺の湿地となり、古代には安定した陸地へと変遷したことがわかります。当然ですが、この辺りより北西側の白島や横川は先行して陸地化しています。

1991年度に行われた紙屋町交差点付近の発掘調査では、標高1.2mの深さで築城前の地表面が確認されています。この地点で氾濫原と干潟層の境界面と推定される深さは標高0.8mで、上八丁堀地点とほぼ同じです。

1992年度に行われた西白島交差点付近の発掘調査でも、標高2mの深さで築城前の地表面が、氾濫原と干潟層との境界面は標高0.8mで確認されます。



4、広島市街地

現在の広島市街地を流れる川の岸辺に立って見ると、川岸から川底まで5m以上もの高低差があり、水深もかなりあることがわかりますが、これは、毛利氏時代の城下町建設以来、川底を掘り下げ、堤防を嵩上げして来た歴史の積み重ねの結果で、築城以前の太田川三角州の状態とは大きく異なります。

それを示すため、現在の市街地の東西方向の地層断面図を基に、築城前の地表面(推定)を書き入れてみました。

図の赤線は標高0mを示し、青線は築城前の地表面です。細かな起伏は確認できませんから、概略の推定です。
陸地化していた中州の間を太田川はいくつかの川筋に分かれて流れていましたが、中州の部分と川筋との高低差は1m程度で、平水時は水深30cm程度で広がって流れていました。水量によって川幅も大きく変わっていました。
本川(旧太田川本流)と天満川は当時もここを流れていたようですが、太田川放水路は戦後になって掘削されたものですし、京橋川・猿猴川付近は水深が浅かったようです。現・広島駅の北側を流れていた古川も浅いものでした。



参照資料:  日本の地形⑥(2004年)、  広島新史・地理編(1983年)、  広島県地盤図(1997年)、  広島城跡上八丁堀地点・発掘調査報告書(2010年)、 広島城外堀跡紙屋町交差点・発掘調査報告書(1992年)、 戸坂村史(1991年)、 安芸灘断層群の長期評価(地震調査研究推進本部、2009年)、 五日市活断層調査報告書(産業技術総合研究所、2010年)、

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