1、河川の流域面積と三角州面積の関係 三角州の形成や構造については地理学・地形学に関するいくつもの書籍で解説されていますが、基本的には、氷河期の海面低下から現在の海水面に達して以降、河口の先に土砂が堆積したことにより発展したものです。 河川の流域面積と三角州面積との間には概ね下記の式が成立します。 s=0.07 × a × A0.8 s=三角州面積(km2) A=流域面積(km2) a=((N+14400)/16000)0.8 Nは西暦の年数 すなわち西暦1600年ならa= 1 西暦600年ならa= 0.95 (ここで、16000年前を基準にしたかのような数式にするのは、縄文海進のピークの約6000年前から現在までに川が運んだ土砂の量が、一定年数当たりで、後になると大幅に減るからです。) この式で、古代・中世の三角州面積を推定し、そこから干潟の広がりや海岸線の位置を推定できます。 西暦600年は飛鳥時代で、これ以上昔のことは推定する必要がないでしょうが、実際にも要因が複雑で、2000年以上前は上式を適用して推定できません。 (係数の0.07と0.8の意味についての解説は省略します。) 17世紀以降については、干拓堤防、護岸堤防、埋め立てなどで三角州の外縁・海岸地形が人為的に大きく変更されているので、17世紀始め頃の海岸線・干潟の位置を地図で推定でき、その時点での三角州面積を算定できる広島付近の主要河川について調べてみました。 (三角州面積は、6000年前の推定河口・海岸線位置を基準に、干潮時の汀線付近までを三角州として算定。) 小河川については省略しますが、大小を問わず様々な大きさの河川に、この式を適用できます。
2、瀬野川三角州の発達 瀬野川三角州の場合について推定してみました。 実際の海岸線は屈曲も多いし海水面の変動も複雑ですし河川流量の変動も大きいのですが、これらの条件を単純化して、河口から先の海田湾の海岸線は緩い曲線を描いてラッパ状に広がり、海水面は5400年前以降は一定、河川の上流から千年毎に流下する土砂の量は一定、としてシミュレーションしてみました。 また、河口付近にも土砂が堆積して、長い間には河口自体が海側へ移動していくのですが、この図は、三角州(干潟)の発展を重点的にシミュレーションしているので、河口の移動は省略しています。 この図から、瀬野川三角州の場合、17世紀始めから7世紀始めに遡っても、地図に現れるほどの地形の変化はなく、日浦山・山麓の平地は数千年前から存在していた事がわかるかと思います。 なお、ボーリングによる地盤データを見ると、およそ5000年余前の縄文海進の最も深く海が入り込んだ時期の河口の位置は、三迫川が瀬野川に合流する付近からやや上流の畝橋付近にあり、以降、土砂が堆積し、中世には蟹原付近に移動していた事が確認されます。 瀬野川三角州の先端は、17世紀初頭には船越・入川交差点とJR矢野駅を結ぶ線付近に達していたことが、その後の新開造成(干潟干拓)の状況から推定できます。 また、地層データとしては、海田・堀川町付近の地下(-2m)で約2200年前の堆積層が確認されており、その付近まで三角州が達していたことが確認できます。 地形の変化を1万年程度のタイムスケールで考えると、「水は高きから低きに流れ、土砂は水流で流される。」という原則(物理法則)が当てはまります。 |