17、7300年前の広島湾


7300年前の広島湾鬼界カルデラ火山灰層 7300年ほど前(14C年代で6300年前)、鹿児島県南端にある鬼界カルデラが大爆発し、九州を始め日本列島の広い範囲に火山灰を降らせました。

その時に堆積した火山灰層は現在も地下に確認されている箇所が多くあり、その位置(標高)は当時の地表を判断する目安とされています。

安芸地方でも各地で火山灰層の存在は確認されていますが、特に集中的に多数の箇所で確認されているのが広島市街地の地下です。(火山灰が降下した当時は太田川河口の先の浅い海だった所です。)当時の海底だった所は、降下した火山灰層の上に、後で上流から流れてきた土砂が堆積して火山灰層が保存されます。

当時の陸上部で火山灰層が確認されにくいのは、降雨により下流へ流されたり、後に植生に覆われたりしたためのようです。

右上図は、ボーリングによる地盤データから火山灰層確認地点とその深さ(現・海水準による標高)を得て、当時の地形を描いたものです。(現在の地表面からは10mないし15m地下に火山灰層があり、海面は現在よりも5~6m低かったようです。)細かな起伏は確認できませんが、ごく大雑把な地形の状況は確認できます。

(火山灰は、海・陸を問わず降下し、瀬戸内地方では平均して20cm程度の厚みで、広島湾の沖の海底下でも広く火山灰層が確認されています。右上図の範囲を外れますが、温品川下流部と戸坂川下流部の地下にも、畑賀の北部にも火山灰層が確認されていて、当時の地形を推測できます。)

現在の祇園から南観音にいたる地表の平均勾配は約1000分の1ですが、7300年前の八木から祇園を経て横川に到る地表の平均勾配は約1000分の2でした。従って、当時の太田川下流部の流れは現在よりも急で、速く海に注いでいたと推定されます。

この火山灰層の広がりは河口の南方だけでなく、東方の矢賀近辺にまで達し、その付近もすでに浅くなっていることが確認できます。
つまり、干潮時には太田川の流れの勢いのままに河口の南方へ火山灰を含む土砂が広がり、満潮時には潮流によって比冶島・仁保島の北側を西から東へ火山灰を含む土砂が広がった様子がわかります。

海岸の移動 平面図として描いた右上図に対し、右下の断面図(「日本の地形⑥」から引用。)でも火山灰層の位置が示されています。

この断面図では、海岸線の位置の移動が示されていますが、それによると、約7300年前の火山灰降下よりかなり前に海岸は祇園附近に達し、その後、急速に後退していた事がわかります。その後、6000年ほど前の海面上昇のピークまでの約1000年間は、海面上昇と土砂の堆積速度が拮抗し、陸域と海域の境は横川附近に停滞し、ついで、南下しています。

海面上昇のピーク後、小幅な下降・上昇の海面変動を経て現在に至っています。段階的に三角州は拡大し、海岸は沖へ移動しました。その間、最も下降したのは5000年ほど前で、その前後の地表面の地層の乱れが、現在の祇園から広島市街地に至る地下数mの位置に確認でき、それに伴う三角州の拡大が南観音の地層データから確認できます。
補足、太田川三角州の発達の図をご覧ください。)

そして、火山灰層を挟む前後数千年間の堆積厚みに比べ、最近の数千年間の堆積厚みが以外に少ないこともわかります。その事の詳しい解説は省略しますが、3000年前ころには現在の平地の骨格が既に成立していたことを示しています。

市街地の中心付近でも、現地表面の10mほど下に火山灰層があります。7000年余で10mの土砂の堆積は1000年では平均1.4mになりますが、時代を経ると共に三角州の面積が広くなりますから、太田川が年々運び出す土砂の量がほぼ一定と仮定した場合、最近1000年の堆積厚みは平均0.5m程度です。これから推測すると、1000年前の海岸線は相生通り付近に達していたことになります。

(100年に一度程度の大洪水があれば、局地的には一度に数十センチの堆積もありえますが、長期的に・三角州全体を均してみると、最近の1000年間には1mも堆積していないのです。)

「古代・中世には太田川の河口は祇園大橋附近にあった」という説をあちこちで見かけますが、科学的な根拠の無い話です。

なお、陸地に対する相対的な海面の上昇・下降は、地球規模の海面変動に加え、ハイドロアイソスタシーと呼ばれる地盤隆起との複合現象で、地域によって大きく異なります。この断面図に示す海岸線の移動から、広島湾付近の海面の変動を推定できます。


参照資料:   広島県地盤図(1997年)、日本の地形⑥(2004年)、広島新史・地理編(1983年)、中山村史、戸坂村史、
表紙 & 目次、←← 16,西国街道、← 17,7300年前の広島湾、→ 18,太田川三角州①