中世の厳島神社は安芸国の西部各地に所領を有していましたが、その中に壬生荘と志道原荘と呼ばれる荘園が内陸部にあり、そこからの年貢を積み出すために、太田川下流の右岸にそれぞれの倉敷が設置されました。(倉敷の位置は、現在の祇園一丁目附近で、旧祇園町南部。) 12世紀後半の文書に、前者の位置について「限東江、限南大河、限西大峯」(東は江、南は大河、西は大峯を限る)と記載され、後者について「**堀立江上に牓示(ぼうじ=境界を示す立札)所を打ち定め」と記載されています。前者の「江」は後者の「堀立江」と同じで、太田川支流の安川の下流部を舟の通行の便のため掘削したことを意味します。「大河」は太田川本流で、当時、倉敷の南部を北東から南西方向に流れていたことを記しています。大峯は武田山・火山の山塊を意味します。 (当時の太田川本流は、現・祇園大橋付近を北東から南西方向に、ほぼ現・放水路の筋を流れていました。) 領主の厳島神社は所領の産物をこの倉敷に集めて舟で運んでいたもので、古文書には、この倉敷に神人など神社の関係者が住み、鍛冶、大工などの職人が住んでいたことも記載されています。(神人は、神社に所属しながら、職人・商人・水夫など様々の職業に携わる人々でした。) ここは中世の市場・八日市にも隣接し、一帯が商工・交易の拠点だったようです。八日市がここに設けられた理由の一つは、この附近から下流で太田川の流路がいくつもに分かれ、それらを通じた水路(舟路)の結節点でもあったことです。 厳島神社の門前自体が中世の海路を通じた交易の一大拠点でしたから、倉敷から舟で厳島まで人と物資とを運んでいたようです。 また、1960年代に進められた太田川放水路工事の際、祇園大橋北詰付近で鎌倉時代(13世紀頃)の遺跡が発見され、貝殻層や陶磁器の破片多数、5,6箇所の井戸遺構が地表下1.5mで確認されています。上図の赤のX印の地点ですが、倉敷地の南端なので関連する人々が住んでいたようです。建物遺構が確認されていないのは、洪水で一気に流されたためのようですが、井戸があるのは集落があったからです。井戸の深さが約2mでしたから、平均水位は海抜2.5mになり、ここから海岸まで3km以上は離れていたことを証明しています。 中世半ば以降のいつの頃か、太田川の大洪水で上の図の斜線を引いた付近に大量の土砂が堆積し、その結果、安川は点線の流路に、太田川本流は牛田と別府の間を真南に下る流路に移り、その際、赤のX印の箇所も土砂で埋もれてしまいました。現代に至って放水路のために掘削されましたが、工事が60年代に行われたため考古学的な検証は不十分だったようです。 注記: 中世の西国各地の荘園から領主への年貢輸送は、大部分が瀬戸内海を利用する海運でした。それに使われる船は小は20石積みから大は500石積みまで多様で、必ずしも大船ばかりではありません。 中世の船は基本的には準構造船で、船底の断面形は直線に近い緩い曲線のようです。 ここで、全体の形状をごく単純化して箱型とし、幅1.5m、長さ10mの場合を推測してみます。これに年貢米50石(宣旨枡、現在の約5トン)を積む込むと船は約0.3m沈みます。船底の丸みや厚み、船自体の重量を考慮しても、水深が0.5m以上あれば50石積みの船は航行できると推定できます。(中世の船の構造は、蒙古襲来絵詞など、当時の絵巻に描かれているものが参考になります。積載効率と安定性からみると船底は平たい方が有利ですから、次には、加工技術・接合構造・入手可能材料などの条件で当時の船の構造が決まったようです。) 太田川本流の平水時の最深部の水深は、下流部で0.5m以上はありますから、小型の海船で運送できたとわかります。米の収穫後の秋には、水量が豊かですから、なおさらに安定した運送が可能です。 本流に合流する手前の支流に水路を掘り込めば土砂が堆積することは少なく、安定した船着場ができます。これが厳島神社領の倉敷のあった所で、上流域から陸路または小さな川舟で倉敷まで運びそこで海船に積み込んだようです。 八日市の梶取で藤次という者が文保2年(1318年)に東寺領新勅旨田の年貢米を兵庫へ運んだ記録が残っていますが、この場合の毎年の年貢米は30石でしたから、楽に太田川を下れたのです。一方、領主が厳島神社の場合は距離が短いから10石積み以下の舟でも回数を重ねることで対応できます。 また、太田川流域の荘園はいずれも小規模だから小型の船で充分だったはずですし、小舟で海へ出て、周防以西の西国からの荷物を運ぶ大型船の寄港地(廿日市・厳島など)で混載してもらうのが現実的です。廿日市は中世の瀬戸内海西部における拠点港の一つでした。 あるいは、長寛2年(1164年)に長さ4丈5尺(13.5m)幅7尺(2.1m)の舟を持つ清原清宗という者が安芸と都との間の海運に携わっていた記録がありますが、これに100石積んでも太田川を下れます。 中世の荘園として有名な備後の太田荘は、内陸にあったため尾道に倉敷を設け、ここから年貢を積み出していました。1年間の年貢は1,800石でしたが、10石積みから50石積みの中・小型の船で分割して送られていました。 なお、古代・中世の1石は現代の1石よりかなり少なく(諸説ありますが、概ね現代の0,4石から0.9石)、上記の想定よりも実態はもっと楽だったことになります。 時代を下って近世には太田川の舟運が盛んになり、本流では加計まで、支流の三篠川では三田・井原までも川船が利用されていますが、この時代の川舟の積載量は10~15石でした。祇園付近から下流では、水量も多く流れも緩やかですから、古代に遡っても30石積みの舟が余裕を持って行き来できていたことが推測できます。 |