20、太田川三角州と広島湾②、牛田荘と五箇浦、


太田川下流部東岸の牛田地区には、奈良時代に設立された荘園、牛田荘がありました(宝亀11年(780年)の西大寺流記資財帳の牛田荘図)。
ここを領有していたのは真言律宗の本山である大和西大寺ですが、その建久2年(1191年)の古文書に「墾田79町」という記載があります。

中世以前の1町は3600歩(坪)でしたから現代のメートル法では1.2ha(㌶)となり、墾田79町の面積は現代的には94.8haとなります。(古代の荘園図としては、東大寺領の荘園図が多数遺されていますが、そこに描かれている碁盤目状の地割りの一区画は現代のスケールで110m弱を一辺とする正方形です。同時代の西大寺領の場合も大きな違いは無いと考えられます。)
また、近世牛田村の面積は芸藩通史(19世紀初頭、文化年間の編纂)によれば82.1町(1,025石)となっていますが、近世の1町は3000歩(坪)で1haですから、牛田村の面積は現代的には82.1haでした。それに先立つ、元和元年(1619年)の知行帖には730石と記載されており、推定される耕地面積は約55町です。
従って、元和年間以前に長年の間に開墾された土地もあるはずで、古代の牛田村の耕地は55町(55ha)より小さかったはずですから、12世紀の牛田荘の領域は近世牛田村の外側に40ha以上の土地を含んでいたと推測されます。

牛田荘と五箇浦と倉敷 毛利氏が太田川三角州の中に城を築く以前、ここは五箇浦(あるいは五ヶ村)という名で呼ばれる地域でした。そこは、箱島(後の白島)、鍛冶塚、平塚、在間などと呼ばれた地の総称ですが、上記の牛田荘の領域は、西の対岸にある箱島など五箇浦の区域に広がっていたと考えるのが自然です。箱島自体の面積は毛利氏築城時の絵図から推測しても20ha程度しかありませんから耕地としては10ha程度しか成立しませんん。さらに20ないし30haが箱島以外の五箇浦の土地に広がっていたと推測されます。また、建久2年の文書が遺された時点で、太田川の本流は太田川三角州の中でも西寄りを流れていたようです。

箱島にあった「正観寺」は、霊亀元年(715年)の開基と伝えられ、また、在間には広島城築城の少し前に日蓮宗の寺院も建立されています。寺が荒地の中に孤立して建てられるはずはなく、8世紀の時点で、この周辺には耕地が開墾され多くの人が住んでいたことは確かです。(「在間」に対して「ざいま」とふりがなをした例を見かけますが、訓読みなら「ありま」、音読みなら「ざいけん」です。)

五箇浦の北西部に別府という地名が記されています。別府という地名は各地に残っていて、平安時代後半から鎌倉時代にかけて(11-12世紀ごろ)新たに開墾されて特別の権利を公に認められた土地でしたが、荒地の中に小さく孤立して存在していたのではなく、隣接していくつもの集落や農地があるのが通例です。ここの別府が牛田荘とどんな関わりがあったのか不明ですが、別府の存在からいっても、牛田荘の広がりからいっても、五箇浦は中世の早い段階には広い範囲で開発が進み、農地や集落があったと推定できます。

図で別府と記入している南北に細長い中州の部分は、近世には新庄村、楠木村、打越村の3村になりましたが、これら3村の19世紀初頭の面積が合計で約180町です。このうち5分の1としても36町ですから、その南に続く大きな中州も考えると、50町以上は中世初期に開墾できていた可能性があります。

五箇浦の南部に「地家、在間、鍛冶塚、平塚」という地名が記されているのも、由来の詳細は不明ですが、起源は中世初期を推測させる地名です。

海岸が近ければ地下に塩水が浸透してきて農耕は不可能ですが、別項で説明したように、平安時代の海岸線ははるか南の現・平和大通り附近にあったので、中世初期の五箇浦の中の農地や集落の存在は当然のことと言えます。(補足2、太田川三角州の発達をご覧ください。)
一方、干潟の陸地寄り部分や河川の下流部(汽水域)で流れの緩い所は葦が生い茂った湿地になりますから、三角州上での耕地化と交通の制約になっていました。つまり、太田川三角州の東西の両翼に広がる湿地と、別項で述べた府中平地の湿地が、中世までの広島湾沿岸沿いの陸路の交通の障害でした。(海が深く入り込んでいたわけではありません。)これを解消したのが、広島城築城以降の干拓工事です。

注記:

太田川三角州上の地表・川床勾配は非常に小さく、瀬戸内海の潮の干満の差は2m以上ありますから、干潮時には海岸・河口から沖へ2kmほども干潟が広がりました。
仮に海岸・河口の近くに湊を設ければ船を着ける位置が潮位によって大きく変動しますから、太田川河口部は湊を設けることに不向きだったのです。潮の影響を受けない所まで川を遡って船着場を設ける方が安定しています。

毛利氏が広島湾頭に進出してきた時、外港として草津港を利用し、浅野藩政時代には江波港を利用したのは、一つはこのような理由からです。(他には、運送量の増加と船の大型化があります。)
平和大通りから江波までは直線で2km余です。江波港が広島城下と常時、陸続きになったのは、城下の南へ干拓・埋立地が延びてきた19世紀の始めで、それまでは城下町とは小舟(川舟)に積み替えて中継していたのです。


平安時代末に記されたと伝えられる「安芸国神名帳」には、正二位から五位まで180柱余の神名が記されていますが、その内、広島湾付近には「衣羽明神」、「邇保姤明神」、「筥島明神」があり、それぞれ、後の江波島、仁保島、箱島に社殿があったものと考えられます。位は衣羽明神」が三位、他の2柱が四位です。
これらの神社が創祇されたのは古代(奈良時代~平安時代初期)に遡るようですが、それぞれの神社の由緒は定かでありません。箱島は牛田と一体で開発され、発展した土地です。仁保島と江波島は、太田川流域から海路への中継拠点として利用されていたとも想像できますが、両島共、当時の広島湾の海岸から干潮時(1日のうち過半の時間)には徒歩で往来できた所ですから、陸路の先端として意識されていたかもしれません。「衣羽明神」が三位であるのは、安芸国全体でも30番から40番の高い位置ですから、単なる海上の小島の神社のイメージではありません。
「伊都岐島神社(厳島神社)」を別格として、上記3社以外の「安芸国神名帳」に載っている神社は全て陸地にあります。これら3社も陸上の神社と同様に敬われたようです。
「邇保姤明神」と「筥島明神」はそれぞれ、現在の西本浦・邇保姫神社と白島・碇神社に継承されています。

また、この神名帳には、八幡、稲荷、恵比寿などの他国から勧請された神名が無く、殆んどが土着の自然神のようです。


参照資料:
広島県史・古代中世資料編③・⑤、 新修広島市史(1958年)、 
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