1、瀬野川三角州の形成と沿岸地形の変化


人々が昔から日常の生活をしてきたのは、海岸・河川に沿う傾斜の緩い平地ですが、その範囲を限る昔の海岸線は現在は全く残っていません。

一般的には、海岸線は満潮時の汀線なので、昔の地表面の標高を推定し、満潮時の汀線と干潮時の汀線を考え、その間にある干潟も含めて地形を考えてみました。一例として、下図は16世紀を想定して描いたこの附近の地形図です。

潮の干満の差の大きい瀬戸内海沿岸地方では、干潟の存在は人々の活動に大きな影響を及ぼしていますから、干潟の変化を無視して地域の歴史を語れません。

海田湾沿岸 瀬野川三角州(干潟)は、氷河期が明けて以降、1万年以上かけて土砂が堆積してできたものですが、その先端(干潮時の汀線)は17世紀初頭には現在のJR矢野駅と船越・入川交差点を結ぶ線の付近にまで達していた事が確認されています。
干潟表面は、川の流路の変遷により、あるいは潮流や波の影響により起伏を生じ複雑に変化したはずですが、今は確認の手段もないので推定平均値で等高線を描いています。

三角州の起点(下図で瀬野川本流に三迫川が合流する、石原橋付近)から17世紀初頭の先端までの距離は約2.2kmあります。
17世紀から千年遡った7世紀(古墳時代)には三角州の先端はどこに達していたかとシミュレーションしてみると、17世紀の線よりわずかに120mほど上流側に遡るだけです。地表面の標高も平均で15cmほど低かっただけです。
これは、百年毎、千年毎の土砂の堆積量がほぼ一定と仮定した場合、上流では流路が狭く海底も浅いが、下流(海側)へ進むほど海底は深く三角州先端の海岸は長くなるので、起点からの距離で計るとだんだん遅くなるという事です。
地層のデータとしても、海田・堀川町の地下、海抜-2mの位置で約2200年前の地層が確認されています。つまり、2200年前には瀬野川三角州の先端がこの付近にまで達していたのです。
補足1、三角州の発達をご覧ください 。

一方、瀬野川三角州に臨む山麓の地形変化は、千年、2千年くらいでの侵食はわずかで地形図に表れません。
また、満潮時の海面より高い海抜2m以上の海岸沿いの平地には、瀬野川の氾濫が届かないので、洪水があっても土砂は堆積しませんから、この部分の地形もほとんど変化がありません。

結局、陸上の地形に関しては、近世以降に干拓や埋立で大きく人為的な改変が加わるまで、中世以前の歴史時代を通じて殆んど変化をしていないと考えてよいのです。仮に5000年前に遡っても、三角州(干潟)が大幅に縮小し、河口が少し上流側にあっただけで、海岸線の位置を含む陸地は16世紀と殆んど違いはありません。

古代から中世へと時代を経る毎に人々の行き来は多くなりましたが、干潮のピークにここに来た人は沖まで2kmの広い干潟を望む事ができたのです。
海田湾沿岸断面

4面の地層断面図でわかるように、岩滝山や日浦山の南東面の急峻な勾配のまま花崗岩層が地下深くへ延びているのではなく、土砂の堆積した三角州の下でも花崗岩層までは浅いのです。
また、瀬野川流路に沿ったX-X断面図でみると、縄文海進のピークのおよそ6000年前でも、河口の位置は石原橋付近であったことがわかります。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉は島津氏と戦うため軍勢を率いて九州へ行く途中、海田で一泊しましたが、その時の経路は近世山陽道(西国街道)とほぼ同じでした。秀吉が通る直前に道路が造られたのではなく、直前の数十年、数百年の間に沿岸伝いに平地が生まれたわけでもなく、数千年以上前から存在していた平地です。
軍勢が全て移動を終えるまでには数時間を要したでしょうが、その間、満潮でも移動できる広い平地が沿岸沿いに連なっていたのです。

参照資料: 船越町史(1981年)、 海田町史(1985年)、 広島県地盤図(1997年)、 広島新史・地理編(1983年)、 日本の地形⑥(2004年)
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