日本キリスト教団玉野教会


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過去の説教内容

2018年9月30日「祝福してください」
2018年9月23日「キリストの教会のために」
2018年9月16日「限りなく深いイエスの愛」
2018年9月9日「喜んで与えよう」
2018年9月2日「唯一の福音に留まりなさい」
2018年8月26日「何としても、あなたたちを助けたい」
2018年8月19日「神の恵みの下に生きよう」
2018年8月12日「新しい生き方」
2018年8月5日「ザアカイ、降りてきなさい」
2018年7月29日「まっすぐな道を歩きなさい」
2018年7月22日「キリストの体なる教会」
2018年7月15日「神から与えられた道具」
2018年7月8日「秘められた真理」
2018年7月1日「キリスト者の自由」
2018年6月24日「喜びで満たされて」
2018年6月17日「宣教への派遣」
2018年6月10日「主の愛に押し出されて」
2018年6月3日「伝道する教会」
2018年5月27日「神の子とする霊」
2018年5月20日「聖霊の賜物」
2018年5月13日「一つとなるために」
2018年5月6日「父のみもとへ行く」
2018年4月29日「神の家を建てるために選ばれた民」
2018年4月22日「愛には恐れがない」
2018年4月15日「羊の群れを牧しなさい」
2018年4月8日「信じる者になりなさい」
2018年4月1日「罪に死に、キリストに生きる」
2018年3月25日「主の僕の忍耐」
2018年3月18日「神の平和を求めて」
2018年3月11日「闇から光が輝き出よ」
2018年3月4日「委ねられたものを守りなさい」
2018年2月25日「主を尋ね求めよ」
2018年2月18日「救い主が苦しまれた訳」
2018年2月11日「押し流されない信仰」
2018年2月4日「あなたの罪は赦される」
2018年1月28日「生かされて生きる」
2018年1月21日「エレミアの召命」
2018年1月14日「あなたはわたしの愛する子」
2018年1月7日「父なる神に仕えた少年イエス」
2017年12月31日「恵みの時、救いの日」
2017年12月24日「神の愛に心満たされて」
2017年12月17日「この一事を忘れてはならない」
2017年12月10日「書き記された主の言葉」
2017年12月3日「主の来臨に備えて」
2017年11月26日「救いを求める人々のために」
2017年11月19日「神のうちに踏みとどまりなさい」
2017年11月12日「神の友となる」
2017年11月5日「悔い改めの機会を逃してはならない」
2017年10月29日「離縁についての教え」
2017年10月22日「神の宮に住む人」
2017年10月15日「主の慈しみの中で」
2017年10月8日「労働の意味」
2017年10月1日「愛されて育つ」


2018年9月30日「祝福してください」

マタイによる福音書5章43−48節敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(44節)
イエス様は愛する対象について“同胞”や“自分に好意的な相手”という枠を越えることを教え られました。『悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて くださる神様』は、私達の目から見るとむしろ不公平に映ります。しかしこれが『全ての者を 救われる神の公平さ』です。その平等さに倣って、敵(あるいは受身形で、自分を敵視する相手) であっても愛し、祈るように言われたのでした。 しかし私達にとって敵を愛することは大変難しいものです。元ノートルダム清心女子大学長・ 学園理事長の渡辺和子さんは、ご自身の苦手なピーマンに譬えて次のような話をしておられます。 「私にとって救いとなっているのは、キリストが“敵を愛しなさい”とはおっしゃったけれども “敵を好きになりなさい”とは言われなかった事です。(中略)しかしピーマンの価値を否定しては いけないように、そのピーマン的存在の方の価値を否定するようなことは私には許されません。自分と 同じようにその人も幸せになる権利がある、せめて不幸を願ってはいけない、そのようなことを“敵を愛せよ ”という言葉でキリストは言われたのではないかと解釈しております。」 また迫害する相手のために祈ることは容易に受け入れ難い事です。しかし許せないままであっても、 まずは聖書の額面どおりに始めてはどうでしょう。「神様、いつも意地悪なAさんが、もう意地悪 なんて言えなくなるほど優しい気持ちになれますよう祝福して下さい。Bさんがもう同じ過ちを 繰り返さないよう導き、祝福してください。そして複雑な心境の私にも平安を与え、祝福して ください。」人生には傷つくことも多く、やり切れないほど辛い局面を迎える時もありますが、 その形をキリストが変えてくださることを信じつつ歩みたいと思います。

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2018年9月23日「キリストの教会のために」

コロサイの信徒への手紙1章21〜29節今やわたしは、あなたがた のために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、 キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。(24節)
パウロは、信仰以上に律法を守ることが大切であるという異端の教えに惑わされている コロサイの信徒に対し、「信仰に踏みとどまりなさい」と教えました。人は、善い行いを したから救われるのではなく、神の一方的な愛を信じることによってのみ救われ、 罪赦されるのです。さらに、パウロは「完全な者となりなさい」と教えました。 「完全」の原語の意味は、「目標に到達すること」です。欠点のない完璧な者になる というのではなく、目標を目指し、成熟するようにと教えられたのです。「苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:3-4)とあるように、私たちは、イエス・キリストの 苦難を覚え、十字架の死と復活を自らの希望として歩む者でありたいのです。信仰以上に律法を守る ことを大事にしていたのでは、完全な者、イエス・キリストに似た者となることはできません。 パウロは、投獄され多くの苦難を経験していましたが、キリストの苦しみには程遠く、自分は まだキリストの苦しみの理解が足りないと語りました。そして、神の召しにより教会に仕える 者とされ、キリストの力により闘っていると証ししています。教会は、神の前に罪人であることを 知らされ、神の救いの恵みにすがり集まった群れです。神は私たちの弱さを全てご存じの上で、 それぞれの教会に牧者を送り、御言葉を与え、絶えず導いて下さるのです。全ての人は、 この地上を去る時、神の御前に立って申し開きをしなければなりません。私たちキリスト者も どのように信仰に立って歩んできたか神に問われるのです。ですから、いつまでも神に喜ばれない 罪の生活を続けてはなりません。キリストに倣い、神の愛(顧みを求めず、自己犠牲を伴う愛)、 謙遜(他の人を自分より優れているとする)に歩み、私たちを通して神の栄光が証されることを 求めてまいりましょう。

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2018年9月16日「限りなく深いイエスの愛」

マルコによる福音書14章10〜25節そして、イエスは言われた。「これは、 多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。(24節)
十二弟子の一人イスカリオテのユダは、イエスを銀貨30枚で売り渡すことに 決めました(マタイ26章)。銀貨30枚は奴隷一人の価値です。ユダは自分を 弟子として選び、神の国の教えを聞かせて下さったイエスを奴隷の一人として 売り渡す決断をしたのです。神の子であるイエスは、ユダの企てを全てご存じ でした。にも拘らず、最後の晩餐を共にされました。イエスは皆が着席した席で、 「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をして いる者が、わたしを裏切ろうとしている」と告げると、「まさかわたしのことでは」 と弟子たちが言い始めたとあります。イエスの言葉はユダだけでなく、他の全ての 弟子たちの心にも響いたのです。イエスを銀貨30枚で売り渡したのはユダですが、 イエスが捕えられた時、弟子たちは皆、イエスを裏切り逃げました。イエスのこの 言葉は、時代を超えて私たちにも投げ掛けられていると受け止めるべきです。「聖書は 神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに 有益です。」(テモテU3:16)心を刺し貫くような厳しい聖書の言葉であっても、自分に 語り掛けられたものであると信じ従っていく時に、霊的に整えられ福音に相応しい者と されるのです。 「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」と 語られたイエスは、弟子たちを断絶するのではなく、深い憐れみをもって過越の食事へと 招いて下さいました。そこで、「これはわたしの契約の血です。」と、人類の歴史で最初 の聖餐式が行われたのです。聖餐式を守るたびに、主が私たちのために血を流されたことを 思い起こし、罪を悔い改め、主に感謝をささげるのです。「わたしは決してあなたから離れず、 決してあなたを置き去りにはしない。」(ヘブライ13:5)と語られる主イエスの限りなく 深い愛を感謝して歩みましょう。

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2018年9月9日「喜んで与えよう」

コリントの信徒への手紙二 9章6〜15節不承不承ではなく、 強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで 与える人を神は愛してくださるからです。(7節)
コリント教会は、経済的に困窮していたエルサレム教会のために募金活動を始めましたが、 思うように集まりませんでした。他教会に先んじて募金を始めた彼らでしたが、豊かな生活を していたために捧げた分だけ財が減ると考え、惜しんだからです。マタイ19章には、 金持ちの青年がイエスに、「永遠の命を得るには、どんな良いことをすればよいか」と質問した際に、 「行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。」と言われたため、悲しみながら立ち去って 行ったことが記されています。青年は財産を自分の物であると考え、神からの恵みであることを 理解していなかったのです。神は、私たちが惜しみなく分け与えて信仰の仲間の欠乏を十分に 補うことが出来るように、あらゆる恵みを満ち溢れさせてくださると約束しておられます。 ですからパウロは、募金を行う際の心構えとして、「惜しまず豊かに」「不承不承ではなく、 強制されてでもなく、心に決めたとおりに」「喜んで与える」ようにと教えました。これまでエルサレム教会は、 異邦人の集うコリント教会を軽視していましたが、このことを通して神の愛、真の福音とは何かを教えられ、 彼らの頑なな心は和らぎ、会ったこともないコリント教会の人々のために祈る者へと変えられました。 貧しい教会を助ける募金活動が、単なる支援に留まらず、神の愛と喜びを分かち合う大きな恵みを もたらしたのです。主イエスは「迫害する者のために祈りなさい。」「与えなさい。そうすれば 、あなたがたも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに 入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」と教えています。私たちも 喜んで与える者とならせていただきましょう。

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2018年9月2日「唯一の福音に留まりなさい」

ガラテヤ1章1節〜10節キリストの恵みへ招いてくださった方から、 あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、 わたしはあきれ果てています。(6節)
パウロがガラテヤ地方を去った後、ユダヤ人のキリスト教教師たちが来て、 「救われるためには、キリストを信じるだけではなく、律法を守って真のユダヤ人 となるように」と教えたため、ガラテヤの信徒たちは大いに惑い、その教えに心を 奪われてしまいました。さらに、ユダヤ人教師たちがパウロの語る福音は偽りであると 教えた為に、信徒たちはパウロを偽教師とさえ思うようになっていたのです。私たちは 自分が理解されない時、悲しみや絶望、怒りを感じることがありますが、パウロは自分 のこと彼を使徒と認めてくれている仲間の存在に勇気づけられ、ガリラヤの信徒たちの ために、神の憐れみと主イエス・キリストの恵みと平和が与えられるように願い祈りました。 キリストは自分を受け入れない人々のためにも、「わたしたちの神であり父である方の御心に従い、 この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」(4) パウロは、ガラテヤの信徒たちが、あっさりと神の恵みから離れて、偽りの福音に乗り換えようと していることに、「あきれ果てている」と語りました。私たちは僅か一日の間にも、神の 御心から離れてしまうことがいかに多いことでしょう。パウロは疑い易いガラテヤの人々に対し、 神にのみに信頼し、キリストの十字架の死を思い起こすようにと励ましました。主イエス・キリスト を信じるだけでは救われないとする教えが教会に入り込むならば、救いは無になり、キリストの 十字架の死も無意味になります。私たちは、キリストの十字架の死を無駄にしてはならないのです。 福音に対して鈍くあっては危険です。唯一の福音に留まり続けることが出来るように、互いに神の 恵みを分かち合い、祈り合ってまいりましょう。

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2018年8月26日「何としても、あなたたちを助けたい」

ホセア書11章1〜9節わたしは激しく心を動かされ。憐れみに胸を焼かれる。(8節)
出エジプト以前のイスラエルの民は、信仰においてまだ幼く、神の御旨を充分に知ることは 出来ませんでした。それゆえ、なぜ神は自分たちの祈りを聞いて下さらないのかとの不満ばかり でした。苦しみは自分たちが原因であったにも拘らず、罪の自覚が全く無かったのです。 神は泣き叫ぶ彼らを幼い子どものように見ておられたと記されています。私たちも 主イエス・キリストを信じる以前は、神の御旨を知らず、自らの思いのまま、罪の支配の 中に生きていました。そのような私たちの所に、神は御子を救い主として遣わし、憐れみの 御手を伸ばして下さったのです。幼子を愛する神は、私たちがよちよち歩きの信仰の時から 今に至るまで、ずっと支え続けて下さっているのです。 神はご自身の慈愛の御計画によってイスラエルの民を我が子として選ばれましたが、 彼らは神の愛を拒んで、自らの道を進んで行きました。しかし、神の彼らに対する 愛は変わることがなく、悔い改めて神のもとに帰り、ご自身と共に歩むように招き 続けてくださったのです。神は、裁きによって滅ぼされた町のために、激しく心を 動かされ、憐れみに胸を焼かれるお方です。神の愛は、可愛がるだけの愛ではなく、 厳しさ、正義を伴うまことの愛なのです。罪の生活から抜け出すことが出来ないと苦しんで いる人に対しても、神は「何としても、あなたたちを助けたい」と強く願い、御手を伸ばして おられます。神の御旨に従い、私たちも自分自身の救いと隣人の救いのために祈り、神の 愛を現わしてまいりましょう。

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2018年8月19日「神の恵みの下に生きよう」

使徒言行録13章44〜52節わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、 あなたが、地の果てにまでも 救いをもたらすために。(47節)
安息日に、町中の人々が主の言葉を聞こうとして、パウロとバルナバのもとに集まって 来たのを見たユダヤ人たちは、ひどく妬み、口汚くののしって、パウロの話すことに 反対したと記されています。ユダヤ人たちは、異邦人たちが信仰に入ることを快く 思わなかったのです。彼らは自分たちを中心に考え、異邦人が救われるためには、 まず割礼という儀式を受け、モーセの律法を守り、ユダヤ人にならなければならない と考えていたのです。しかし、パウロは、イエスを救い主として信じるならば誰でも 救われると語りました。過去においてどんなに大きな過ちを犯しても、また数えきれない ほどの罪を犯したとしても、悔い改めて、ただ主イエスを救い主として信じるならは 救われるのです。それで、パウロたちはユダヤ人を深く同情しつつ、「神の言葉は、 まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を 永遠の命を得るに値しない者にしている」と、愛をもって叱責したのです。これまで 教えられてきたユダヤ教の教えから抜け出すことが出来ないユダヤ人キリスト者のように 、私たちも神の言葉ではなく、過去の経験や実績によって判断し、行動してしまうことは ないでしょうか。「地の果てにまでも救いをもたらす」とは、まだ私たちが伝道していない 友を救いに導く世界宣教の使命を受けているということです。そのために、祈る者・仕 える者とさせていただきましょう。 異邦人たちは、主の言葉を聞いて喜び、賛美し、信仰に入りました。こうして、 主の言葉はその地方全体に広まったと記されています。神の恵みの下に生き、聖霊に満 たされて歩んでまいりましょう。

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2018年8月12日「新しい生き方」

エフェソの信徒への手紙4章25−32節互いに親切にし、憐みの心で接し、 神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。(32節)
自分が過ちを犯していながら、他の人に怒りを覚えることがありますが、聖書は、怒りを 持ち続けることは盗むことと同じであると教えています。しかし、私たちはそれを止めよう、 直そうとしても、自分の力ではどうすることも出来ない、罪に打ち勝つことができない 存在なのです。この手紙の著者パウロも、自分自身は神の恵みを頂きながら自らは良いと 思うことが出来ない惨めな人間であると語っています。 では、どうしたら怒らずに生きることができるようになるのでしょう。それは、本当の 愛に出逢うことであると聖書は教えています。自分が神に愛され、赦されている存在で あることを知り、相手を赦すという神のご性質を取り戻すことが必要なのです。パウロは、 「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(26)と教えています。主イエス・キリスト と結ばれて新しい人となり、神から罪を赦された者として怒りを捨て、赦し合う生き方を 主が望んでおられるからです。 教会とは、そういう生き方を実現させる良き訓練の場でもあるのです。先に召された兄弟姉妹も、 心の内に様々な葛藤を覚え、苦しみ悩んだ時にも、玉野教会に集い、自分を赦して下さる神の 愛に触れ、祈りつつ歩まれたことでしょう。私たちはその信仰を受け継いでいるのです。聖書は、 神の愛とはどのようなものであるかを私たちに教えてくれます。それは、日々探求すべきものです。 主を信じる私たちを通して、怒らず互いに赦し合うという恵みを広めていくことが出来るよう、 祈りつつ歩んでまいりましょう。

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2018年8月5日「ザアカイ降りてきなさい」

ルカによる福音書19章1−19節ザアカイ、急いで降りて来なさい。 今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。(5節)
ザアカイは徴税人の頭で金持ちであった。18章に金持ちの議員がイエスと出会った記事があるが、 対照的かも知れない。ザアカイはイエスを見ようとしたが、背が低く群集に遮られて出来ず、 いちじく桑の木に登っていた。関心度がわかる。ところが突然イエスが「急いで降りてきなさい」と 言われた。サプライズである。「下からの目線」である。ここで「人となり僕になられた」イエスと 向き合う関係となった。人の側の条件を問題にしない救いの選びがここにある。 次に「ぜひあなたの家に泊まりたい」という第二のサプライズがある。「泊らねばならない」とは 強い断定的な表現で、困惑し躊躇し否定することも出来た。しかし彼はそうしなかった。応答して 迎え入れる。容易ではない。何が起きたのか。イエスの愛の眼差しを見たからである。 「イエスのことば(言)を聞く」信仰の原点がここにある。応答により生き方が変わる。救いのモメント (瞬間・契機・チャンス)である。 高倉徳太郎は「五分聖書を読み五分黙想し五分祈ると、あなたは変わる」と言った。 スタンレージョンズのアシュラム運動も「聖書を読み黙想し祈る」で「朝の十五分が あなたを変える」がモットーである。 イエスと弟子たちが会食した一夜ではどんな会話が交わされたであろう八節はザアカイの 生きる目的が変わった事。財産の半分を寄付する。偽って得た富は四倍にして返すと言う。 愛を生み出す信仰である。普通自首の時は5分の1の加算だが、律法の枠を超える。ここに 「アブラハムの祝福」(創世記12章2節)を継承する家庭が誕生した。

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2018年7月29日「まっすぐな道を歩きなさい」

ヘブライ人への手紙 12章3−13節 足の不自由な人が踏み外すことがなく、 むしろいやされるように、 自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。(13節)
イエス・キリストを救い主と信じて間もないユダヤ人キリスト者たちの多くは、激しい迫害の ためにキリスト教信仰を保つことが困難になり、ユダヤ教の教えに戻ろうと考えていました。 それは、彼らがキリストを信じるならば、苦しみが無くなり、この世での成功や物質的な豊かさ が与えられると考えていたからです。しかし、親が我が子をしつけるために鍛錬するように、 神は私たちを本当の神の子とするために信仰の試練を与えられるのです。さらに、鍛錬のもう一つの 目的は、神ご自身の聖さに与らせるためです。クリスチャン生活の目標は、キリストのようにされることです。 「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩編119:71)。 キリストに似た者になるには、鍛錬を通してキリストのご性質に変えていただく必要があるのです。 主イエスは、地上でのご生涯において、私たちが経験する様々な試練を味わって下さいました。そして、 私たちの罪の赦しのためにご自身の命をささげて下さったのです。私たちは、この主イエスの深い愛を 覚える時、神による鍛錬を耐え忍ぶことができます。 鍛錬の本当の目的は、結果を体験して初めて分かります。私たちはそれを確信したならば、キリストに 似る者にされるように、どうぞ試練を与えて下さい、と積極的に生きることができるのです。筆者は、 自分のためだけでなく、さらに未信者や主イエスを信じていながらも信仰の道を踏み外してしまいそうな 信徒に対して、良き証しをするようにと勧めています。神への全き信仰を持って(自分の足で)、 神の導かれる(まっすぐな)道を歩んでまいりましょう。

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2018年7月22日「キリストの体なる教会」

コリントの信徒への手紙一 12章14−26節体の中でほかよりも弱く 見える部分が、かえって必要なのです。(22節)
コリント教会には、「自分たちは霊的(信仰的)に優れた者」との奢り高ぶりがあり、 教会内に富める者と富まざる者の格差が生じていました。主イエスは、「わたしがあなたがたを 愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と言われました。 教会は、イエスを「私の主である」と告白する者の集まりであり、上下や優劣などはなく、 互いを認め合い、赦し合う交わりだけがあるはずです。イエスは主であると告白した私たちは、 「聖霊によって」教会に集められた者であるということを忘れてはなりません。神はご自身を 頭とする一つの体として、この教会を形成してくださったのです。「皆一つの体となるために 洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(13)。パウロは、体の各部分は、 それぞれに役割があり、優劣を比較できるものではないことを例に出して、信徒それぞれに 神から役割が与えられていることを伝えました。では私たちは体のどの部分なのでしょう。 身体や信仰の弱さを覚え、キリストの手や足となって働くことはできない、と居心地の悪さを 感じている方もいるかもしれません。しかし、パウロは、「それどころか、体の中でほかよりも 弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(22)と告げています。私たちには、主を礼拝 する者として最も大切な「礼拝に集う」という役割があるのです。また、誰の目にも付かない 「足の裏」は、最も蔑まれるような所と言えるかもしれません。しかし、体全体を支える大切な 働きがあり、人には見られない所を神は見ていてくださるのです。 私たちの価値観には寄らず、キリストの体なる教会としてふさわしく、十字架で示された主の愛に答えてまいりましょう。

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2018年7月15日「神から与えられた道具」

コリントの信徒への手紙二 6章1−10節わたしたちは…悲しんでいるようで 、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(8b〜10節)
パウロがコリントの教会を去った後に、彼に敵対する偽教師が現れ信徒たちを惑わし、 教会が一時混乱してしまいました。しかし、後に彼らが悔い改めたことを聞き、パウロは 感謝と喜びに溢れて信徒たちを励ますためにこの手紙を書きました。 彼は手紙の中で、コリントの人々に「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」と 懇願しています。私たちは、主イエスを通して神の命を頂いたのです。「恵みの時に、わたしは あなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた。」と神は言われました。今や、 恵みの時、今こそ救いの日です。神と和解し、兄弟姉妹と和解するのは、「今」であって、 「後」ではないのです。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」 (イザヤ55:6)神は、人々が恵みの福音を聞くことができる時を設けて下さっています。 その時を逃がさないように、「今」この時に従ってまいりましょう。 パウロは、自分が語る内容と、自分の生活態度が矛盾しないように常に注意を払っていました。 キリスト者が福音にふさわしく歩もうとするなら、困難は避けられません。パウロ自身、 命の危険にさらされる程の困難を何度も経験しました。しかし、その都度主からの慰めをいただいていたので、 同じように信仰の苦難の中にある人々を慰めることができたのです。彼の心の内には、常に主イエス・キリストの 愛の御言葉、御業が蓄えられており、苦しみの中でも、寛大な心や思いやりを忘れることはありませんでした。 私たちも主イエス・キリストの愛の内に歩むのでなければ、神の御心がわからなくなり、たちまち罪の生活に 戻ってしまいます。私たちは、神から赦しの恵みをいただいています。隣人のために、与えられたこの赦しの恵みを用いてまいりましょう。

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2018年7月8日「秘められた真理」

テモテの手紙一 3章14−16節 信心の秘められた真理は偉大です。(16節)
パウロは、「神の家とは、生ける神の教会である」(15)、また、「あなたがたはもはや、 外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する神の家族であり…」(エフェソ2:19)と 教えています。キリストを救い主と信じる者は、花婿なるキリストと婚姻関係にある花嫁であり、 主を信じた者たちは、神の子とされ、神の家に住み、神の宝を共にさせていただける恵みの中に あるのです。この世における家族が大切なように、信仰による神の家族もまた重要です。 かつては愛なる神の御心から遠く離れ、神に背を向けて歩んでいた私たちが、イエス・キリストの 十字架の犠牲を通してまことの神の愛の内に立ち返り、集められ、神の家族とされたのです。 パウロは「奉仕者は…自分の家庭をよく治める人でなければなりません。」(12)とも語っています。 神への賛美、奉仕、兄弟姉妹を愛する行為を、まず自らの家庭において現わすことが重要です。 神の助けを頂き、家族を愛し、家族に神の愛を証しする者とさせていただきましょう。 当時エフェソの町は、アルテミスの女神が祭られていた壮大な神殿を中心に生活が営まれていました。 しかし、女神に命はなく、ただ人の手によって造られたものにすぎませんでした。しかし、 教会は信仰告白を土台として建て上げられ、そこに命である主イエス・キリストがおられます。 どんなに立派な教会を建てたとしても、霊の交わり、信仰の証しがなければ神の家として立ち続けることは できません。これが秘められた真理なのです。今週も家庭において神の愛の業を行い、それによって、 神が私たち一人一人、そして玉野教会を恵みに満ちた魅力あるものとしてくださることを期待してまいりましょう。

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2018年7月1日「キリスト者の自由」

ガラテヤの信徒への手紙 5章2−11節キリストに結ばれていれば、 割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。(6節)
パウロが、ガリラヤの信徒への手紙で「ああ、物分かりの悪い者たち、だれがあなたがたを 惑わしたのか」(3:1)と嘆いたのは、キリストを救い主と信じる信仰によって、罪の奴隷 状態から自由にされ、喜びの内にあった彼らが、信仰だけでは十分ではなく「割礼を受けて ユダヤ人となり、神の律法を守らなければならない」と語るユダヤ人キリスト者の誤った 教えに影響を受けていたからです。ユダヤ人たちは、神に選ばれた民として誇りを持ち、 自分たちのルール(割礼と律法)を厳格に守ることを第一としていました。しかし、パウロは、 「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。しっかりしなさい。奴隷の軛 (律法の束縛)に二度とつながれてはなりません。」(1)と厳しく命じました。人は律法ではなく、 神の一方的な憐れみ(私たちの身代わりにキリストを十字架につけ、罪を赦すこと)により救われ、 それにより罪の習慣から抜け出すことができるのです。私たちは、その恵みを感謝して受け取ることが大切なのです。 「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」(9)とあるように、ごく少数の者たちであっても、 教会全体に悪い影響を及ぼします。主イエスも間違った教えを「パン種」にたとえ、 「気をつけなさい」と注意されました。私たちは皆、行いによって救われたのではありません。 神の憐れみによって愛され、赦された者なのです。ですから、行いによって良いクリスチャンか 否かを判断するなら、それは間違った考え「パン種」となり、教会は混乱してしまいます。 互いに赦し合い、仕え合うという「愛の実践を伴う信仰」こそが大切なのです。

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2018年6月24日「喜びで満たされて」

ヨハネによる福音書16章16−24節 願いなさい。そうすれば与えられ、 あなたがたは喜びで満たされる。(24節)
 16節に「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、 わたしを見るようになる。」と、イエス様は弟子たちに「私は十字架にかけられて、 墓の中に入れられ、姿を消してしまう。それはもうすぐ起こる。またしばらくすると、 わたしを見るようになる。」と語って居られます。 「しばらく」とは何の事かを、弟子の方々には未だ知る事の出来ない事でした。 20節に「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。 あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」と。 私たちは、人生の喪失とも言える経験をしますと、悲しみが溢れて、何時までも 続く様な時を味わいます。主イエス様は、“その時は短い”と語られ“しばらく すると”と7度も語って居られます。 聖書の原典では、”ミクロン“と表現しています。この言葉は、現代のメートル法の 長さの補助計量単位。1ミクロンは、1メートルの百万分の一とされています。 この単位は、人間の感覚では、触れる事の出来ない事柄です。この表現が、7度も 繰り返され主イエスのお言葉として伝えられて居ります。この言葉、“しばらくすると” ミクロンとは人生の中で、長く辛く感じる悲しみ、痛みを主イエス様は共に担って下さる。 その時、悲しみは喜びに変えられると語って下さっているのです。 24節「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

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2018年6月17日「宣教への派遣」

使徒言行録13章1−12節 総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、 信仰に入った。(12節)
アンティオキア教会は、迫害で散らされた信徒たちの伝道によって始まった最初の 異邦人教会です。彼らは、エルサレム教会から派遣されたバルナバと他一緒に連れられて きたサウロによって正しい信仰に導かれたことにより、人々から「キリスト者」 と呼ばれるようになりました。 彼らが礼拝していた時、聖霊が「バルナバとサウロをわたしのために選び出し、前もって 二人に決めておいた仕事(福音宣教の働き)に当たらせるように」と告げました。 教会にとって、サウロたちを送り出すことは大きな損失でありましたが、信徒たちは 断食して祈り、聖霊の御告げに従って二人を送り出したのです。そうして、サウロたちは、 宣教に向かったキプロス島で、偽預言者で魔術師のエリマと出会うのです。サウロは、 彼が主の道をゆがめる行為をしていることを知り、聖霊に満たされて、彼をにらみつけ、 主の御手によって彼の目が見えなくなることを告げると、たちまちそのようになりました。 そして、この出来事を見た地方総督が主の教えに非常に驚き、信仰に入ったのです。 私たちが、自分や自分の教会を守ることだけを考えるならば、そこから新しい命は 生まれません。主は宣教に仕える者や教会を祝福し、恵みを与えてくださるのです。 教会の祝福は規模で量られるものではなく、信徒一人一人がキリストの恵みに如何に生きて いるかということです。五千人を五つのパンと二匹の魚で養われた奇跡、預言者エリヤを 養うことになったやもめの家の壺の粉は尽きず、瓶の油もなくならなかった奇跡のように、 主は与える為の賜物を常に補充してくださいます。主は玉野教会を宣教の働きに召して おられます。聖霊の御声を聞いたならば、「福音に相応しく」、祈りつつ従ってまいりましょう。

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2018年6月10日「主の愛に押し出されて」

使徒言行録16章16−24節わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に 取りつかれている女奴隷に出会った。(16節)
アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられ、進路変更を余儀なくされたパウロとシラス たちはフィリピで御言葉を語ることとなりました。しかし、そこで注意深く御言葉を聞いていた 紫布の商人でリディアという婦人が主イエスを信じて洗礼を受け、ヨーロッパで最初の キリスト者が誕生したのです。今日の箇所は、その次に記されている出来事です。 いつものようにパウロたちが祈りの場所(今の礼拝や祈祷会)に行く途中、占いの 霊に取りつかれた女奴隷と出会いました。この女奴隷はグループで商売をしていた 主人たちに占い師としてこき使われ、占いの力に依存して僅かなお金で生きて行く しかなかったので、自分の身を守る為にパウロたちの伝道を妨害しました。 パウロは、この女奴隷に関わらず先を行くことも出来ましたが、妨害するに至った 深い理由を感じて足を止め、女奴隷に対してではなく占いの霊に怒って「イエス・キリスト の名によって命じる。この女から出て行け。」と命じ、占いの霊を追い出しました。 主の愛に押し出されたパウロたちの行動によって、幸福な人生を奪われていた一人の 女性が占いから解放され、真の自由に導かれたのです。しかし、女奴隷の占いによって お金を得ていた主人たちは、儲ける望みが無くなったためにパウロたちを捕え、役人たちに 訴えました。自分の利益のことばかりに囚われていたからです。しかし、これが生まれながら 罪人である私たち人間の姿なのです。神は私たちがこのような弱さを持つことを知りつつ、 「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と語られるのです。主の僕として隣人の救いの ために祈り、主の愛に押し出されて、愛の業に励む者とさせていだだきましょう。

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2018年6月3日「伝道する教会」

使徒言行録4章23−31節祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、 皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(31節)
主イエスの復活を信じないサドカイ派の人々らは、ペトロやヨハネが生まれつき足の不自由な 男を癒し、また神殿で説教を続けていることにいらだち、二人を捕えて牢に入れ、 「何の権威によって、誰の名で教えているのか」と尋問しました。しかし、ペトロとヨハネは、 聖霊に満たされて、恐れず、大胆に、「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から 復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」と答えました。 その後、二人は釈放されますが、以後イエスの名によって教えることを固く禁じられて しまうのです。しかし、その話を聞いた仲間たちは、迫害を恐れず、心を一つにして、 神に向かい、「主よ、あなたこそ天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です」 「今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることが できるようにしてください」と祈りました。すると、神はすぐに応答してくださり、 「一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだし」、 その結果、非常に多くの主を信じる者が起こされました。 玉野教会の属するホーリネス(きよめを求める)の教会も、戦時下において時の政府により、 天皇に対する不敬罪に問われ、他への見せしめとして牧師は投獄・拷問、信仰書や教会記録の没収、 教会の解散という辛い迫害を経験しました。しかし、今なお日本各地にホーリネスの教会があり、 今日もまた、この時間共に礼拝を奉げているということはなんという恵みでしょうか。 救世軍の山室軍平は、「迫害は二心の人を畏縮させるが、真実な霊魂を励まし奮い立たせるものである」 と語っています。私たちも、心を一つにして熱心に祈り、聖霊に満たされて伝道する教会とならせていただきましょう。

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2018年5月27日「神の子とする霊」

ローマの信徒への手紙8章12−17節あなたがたは、人を奴隷として 再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「 アッバ、父よ」と呼ぶのです。(15節)
パウロは、信仰によってキリストに繋がるならば、体は罪によって死んでいても、霊は神の 救いによって命を得ていると語った後、8章12節以降で、義とされた者、罪赦された者は、 どのような生活を送るべきかを述べています。 パウロは、キリスト者には神に対して一つの義務(果たすべき責任、負い目)かあると教えて います。それは律法を守ることではありません。律法によっては誰一人救われることはなく、 むしろ、律法を守ることが出来ない罪人であることが明らかにされるのです。そのような 罪人である私たちの身代わりとなって、神の御子キリストが十字架上で死んでくださり、 私たちの罪を赦してくださった、この神の偉大な愛に対する負い目を心に留め、聖霊に よって生きることが重要なのです。人間の努力や力によっては、肉の行いを殺すことは できません。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させる ようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)と教えています。 さらに、パウロは「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と述べています。 もし私たちが罪の生活を送るなら、罪の奴隷となり、神様を避けるようになります。しかし、 私たちには、「神の子」と証してくださる聖霊が共におられ、全き信頼と平安をもって父なる神の御許 に 行くように導いて下さっているのです。キリストは既にサタンの誘惑に勝利され、その勝利を私たちも 与ることが出来ると約束されています。神の子とされた私たちは、その恵みの内にとどまり、聖霊に よって力をいただき、罪の誘惑に対して戦い続けてまいりましょう。

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2018年5月20日「聖霊の賜物」

使徒言行録2章1−11節すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、 ほかの国々の言葉で話しだした。(4節)
五旬祭に、主イエスの弟子と主を信じる人たち120人程が、一つとなって集まっていると、 突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえました。この風という言葉は、 「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして 生きる者となった。」(創2:6)の息と同じ意味の言葉が用いられています。神は、 心を合わせ一つとなって祈り、聖霊を待ち望んでいた信仰者たちに聖霊を送ってくださったのです。 そのことを、目に見える形ではっきりと示してくださいました。そして、神の言葉が一人ひとりに とどまり、一同は聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、罪・義・裁きについて熱く語り出しま した(ヨハネ16:8)。こうして教会が誕生したのです。 以前、弟子たちはイエスが十字架に架けられた時、イエスを裏切って逃げ、また、イエスが墓から 消えてしまったと知った時には、ユダヤ人を恐れ、戸の鍵を閉めて集まっていました。しかし、 その彼らの真ん中にイエスは現れ、「あなたがたに平和があるように」と2度も繰り返して言われ、 彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。 だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われました。(ヨハネ20章) 私たちはこれまで、弟子たちのような圧倒的な聖霊の満たしを経験してきたでしょうか。弟子たちが主 イエスの愛に触れて互いに赦し合い、一つ心となって祈ったように、私たちも主の愛と赦しの恵みを 受けた者として、御名のもとに一つとされ、聖霊を求めて祈る者とさせていただきましょう。

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2018年5月13日「一つとなるために」

ヨハネによる福音書17章1−13聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名に よって彼らを守って ください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。(11節)
ここには、主イエスが十字架に掛かる前夜、弟子たちと共に最後の晩餐の時を過ごしておられた際、 主イエスが父なる神に献げられた祈りが記されています。 主イエスはこの時、ご自身を裏切って晩餐の席から飛び出して行ったイスカリオテのユダを除く 11人の弟子たちの前で、天を仰いで、「父よ、時が来ました。」と祈られました。ついに主は、 全人類を罪から救うための御業を行う「時」が満ちたことを悟られたのです。私たちは神の御言葉 に従って歩もうと思っても、いつしか神から離れ、罪に塗れていることに気付かされます。しかし、 このような弱い私たちのために、主イエスは自らが神との和解のいけにえとなってくださいました。 神との平和を与えられたことを私たちはどれ程深く知り、感謝しているでしょうか。 主は、弟子たちについて「彼らはあなた(父なる神)のものでしたが、あなたはわたしに与えて 下さった」(6)と語り、また、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、 だれもわたしのもとへ来ることはできない」(6:44)と言われました。私たちも弟子たちのように、 天地万物を創られた父なる神ご自身によって引き寄せられたのです。私たちには聞こえなかったかも 知れませんが、確かに神は、1人ひとりの名を呼んで主イエスの弟子として引き寄せてくださいました。 父なる神と御子イエスが一つであるように、私たちもまた一つとなるために祈られているのです。 主に祈られていることを畏れつつ感謝し、主が為されたように、神の救いの恵みを友に伝え、 友のために祈ることにより、神の栄光を現わす者とならせていただきましょう。

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2018年5月6日「父のみもとへ行く」

ヨハネによる福音書16章19−24節今までは、あなたがたはわたしの名によっては 何も願わなかった。 願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(24節)
主イエスは捕えられる以前に弟子たちに対し、ご自身が十字架に架けられ、死んで葬られ、三日目 によみがえり、天に上られた後、再びこの世に戻って来られるとはっきりと語られました。しかし 彼らは、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを 見るようになる」「父のもとへ行く」との意味が理解できなかったのです。主イエスの側にいて神の国 の教えを聞き、主と共に歩むことが何にも代えがたい喜びとなって心満たされていた弟子たちは、 主のこの別れの言葉を受け入れることができませんでした。しかし主は、この悲しみはやがて過ぎ去り、 喜びに変わると語られ、彼らを勇気づけました。父なる神は、神を信じない罪深い世を憐れんで、 独り子である主イエスをこの世にお遣わしになり、私たちの罪の身代わりとされたのです。主が父の みもとへ行くことは、彼ら(私たち)にとって喜ぶべきことであると教えられたのは、主イエスの 十字架の血によって、神と人との隔ての壁が取り除かれ、罪ある私たちが聖なる神と交わることが できるようになり、信じる者すべてに「聖霊」が与えられるからです。聖霊は、主を信じる者と共に居て、 神の御旨を悟らせ、助け導いて下さるのです。主は、「わたしの名によって父に願うならば与えられ、 喜びで満たされる。」と言われました。人は、神に創られ、神の霊を吹き入れられ、生きる者となったと 聖書に記されています。聖霊が与えられるように神に求めましょう。そして、日々聖書を読み、主を信頼 して祈り、聖霊に満たされて喜び過ごしましょう。

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2018年4月29日「神の家を建てるために選ばれた民」

ペトロの手紙一 2章1−10節今までは、あなたがたはわたしの名によっては 何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(24節)
ペトロは、罪の支配から救われたキリスト者たちに、罪の実である、愛の無い言動(悪意、偽り、 偽善、ねたみ、悪口)を全て捨て去り、みことばを慕い求めるようにと語りました。主の十字架と 復活を信じ、聖霊により新たに生まれた者とされた私たちの信仰はどれ程成長しているでしょうか。 信仰生活の長い者であっても、謙遜に「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない 霊の乳(みことば)を慕い求める」ことが求められているのです。ガラテヤ5:22には、キリスト から頂いた新しい命に生きる者の結ぶ聖霊の実は、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制」であると記されています。聖書を読み、御声を聞き、それを具体的に生活の中で 実践していくことが霊的な成長において必要不可欠なのです。 ペトロはまた「あなたがたは、選ばれた民、主の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」(9) と記しています。なんと畏れ多いことでしょう。私たちは神の一方的な恵みによって選ばれ救われた者なのです。 だからこそ選んでくださった方の御心を第一としたいのです。主イエス・キリストを通して与えられた新しい 命に生きる目的は、かつての私たちが願っていた目的とは大きく異なり、「神の栄光を現わす」ものとなりました。 これが、私たちの新しい人生となり、真の幸福へと導くものとなったのです。旧約聖書を見ると、神に選ばれた イスラエルは神の御言葉を拒絶したため、多くの失敗を重ね、多くの苦難を経験し、ついには神に選ばれた誇り さえ失ってしまったことが記されています。私たち一人一人が神の教会を建て上げる為に選ばれた民である ことを覚え、この一週間、みことばを読み、聖霊に導かれて歩んでまいりましょう。

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2018年4月22日「愛には恐れがない」

ヨハネの手紙一 4章13−21節愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。(18節)
ヨハネは7節以降で、主を信じる者たちに対し、「神の愛」によって互いに愛し合いましょう と勧めています。私たちの愛の行為は、ともすれば相手からの顧みを求めるものとなっては いないでしょうか。しかし、「神の愛」は、一切の顧みを求めず、他者のために自分の命を 惜しまずささげると言う崇高な愛なのです。私たちは日々、神の愛を頂いています。主イエス・ キリストに繋がれた者として、日々、十字架の愛を深く覚えましょう。そして、神の愛に心満たされ、 その恵みによって、兄弟姉妹を愛する者とさせていただきましょう。 ヨハネは18節で、「神は愛です」「愛には恐れがない」と教えています。かつて、主が ゲッセネマの園で捕えられた時、弟子たちは皆、自らの命の危険を守るために逃げてしまいました。 そしてペトロに至っては、人を恐れるあまり、主イエスとは関係ない、知らないと三度も否定したのです。 しかし、ペンテコステの日に聖霊が彼らに臨み、彼らは主の全き愛に満たされ、何者をも恐れずに、 大胆に主イエス・キリストの救いの恵みを語る者となりました。愛には恐れがありません。 完全な愛は恐れを締め出すのです。私たちの内に神の愛が全うされているならば、裁きの日に、 恥じ入ることなく主の御顔を拝することができるのです。 主イエスが十字架の死によって人々の罪の身代わりとなって死んでくださったことを信じる者は 誰でも、神はその罪を赦してくださいます。日々、神の愛の内に留まり、主の助けを頂いて、 同じ主を信じるものとして互いに愛し合う者とさせていただきましょう。

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2018年4月15日「羊の群れを牧しなさい」

ペトロの手紙一 5章1−11節神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを 完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。(10節)
ペテロは、信仰の年長者である長老(役員)たちには重要な役割が与えられていると語りました。 それは「神の羊の群れを牧すること」です。羊飼いには羊の群れを導き、養い、外敵から命を 守る役割があるように、教会の牧師は、信徒を牧会するために神から召されています。しかし、 長老たちにも、若い信徒たちの信仰を導く務めが委ねられているのです。 ペトロは、長老がこの与えられている務めを義務感や自分の利益のためではなく、主イエスから 受けた愛をもって果たし、牧師の働きを支えることにより教会は強められるのだと教えました。 そして、教会全体に対しては、「身を慎んで目を覚ましていなさい。」と命じました。なぜなら、 「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回って」(8) いるからです。かつて主イエスは終末の徴について「その日やその時は誰も知らない。…だから、 目を覚ましていなさい。」(マルコ13:32-37)と語られました。聖書は、主の再臨を意識することなく、 主をお迎えするのに相応しい者とされるための備えをせずにいるならば、それは霊的に眠っている状態で あると告げています。目には見えませんが、悪魔は、私たちを常に研究し、弱点を探し出し、効果的な方法で 神との良好な関係を壊そうと働きかけて来るのです。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、 キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いて下さった神御自身が、しばらくの間苦しんだ あなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(10)自らの 信仰の成長と玉野教会の将来へと続く若い信徒の模範となるよう、御言葉に堅く立ち歩んでまいりましょう。

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2018年4月8日「信じる者になりなさい」

民数記13章24−33節カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。 「断然上って行くべきです。 そこを占領しましょう。必ず勝てます。」(30節)
イスラエルの人々は、神が与えると約束して下さったカナンの地を目指し、本来数カ月の 道程だったところを40年間も彷徨い続けました。それは、主に対する不信仰が原因でした。 なぜ彼らは不信仰に陥ったのでしょうか。 12人がこの地を偵察したところ、そこは「乳と蜜の流れる所」と言い表すほどに、 非常に肥沃な土地であることがわかりました。しかし、強い先住民がおり、町々は大きな 城壁に囲まれていたために、イスラエルの民らが約束の地カナンに入ることは、非常な 困難があることも知ることとなったのです。そのため、偵察した多くの者は、そこに入る ことに反対し、「そこに住み着こうとする者を食いつくすような土地だ。民は皆、 巨人だった。・・・自分がいなごのように小さく見えた。」などと悪い情報を流しました 。神から約束された地でありながら、目に見えるものに心を奪われ、尻込みしてしまったのです。 それに対し、偵察隊の一人カレブは「断然登っていくべきです。そこを占領しましょう。 必ず勝てます。」とモーセに進言しました。彼は、主なる神が全能で真実な方であることを信じ、 信仰の目で現実を見たのです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信 させるものです」(ヘブル11:1)と聖書が教えるように、目に見えるものを信じ、それによって 判断することは信仰ではありません。信仰とは、見える現実はどうであっても、神が言われることを聞き、 それに従うことです。神は、私たちが約束の地に向かう道から迷い出ることがないように、 目の前の一歩一歩を導いて下さるお方です。信じない者にならないで、信じる者になりましょう!

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2018年4月1日「罪に死にキリストに生きる」

ローマの信徒への手紙6章3−11節あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、 キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。』(11節)
パウロは5章で、「すべての人は罪を持って生まれたため、神の怒りを受けて滅びる者であった。 にも拘らず、神は御子を信じる者を罪なき者と認めて下さった」と、神の計り知れない恵みに ついて語りました。しかし、キリスト者には神に従い神を喜ばせたいという思いや意思がある ものの、それ以上に自分を満足させ、自分の栄光を求めようとする二つの相反する性質があり、 そのために葛藤を覚え、思い悩むのだとパウロは告げました。彼自身この葛藤に悩み、自分の 意志ではどうすることもできない罪の原理が働いていることを認めるのです。 パウロが、ガラテヤの信徒への手紙2:19-20で、「わたしは、キリストと共に十字架につけら れています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きて おられるのです」とあかししているように、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架 につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないため」(6)なのです。 自分の力ではどうすることも出来ない罪(認識している罪・していない罪、また、過去・現在・未来の罪) すべてを、主イエスが私の身代わりに背負って十字架に架かり死んでくださったことにより、 完全に罪の精算をしていただいたのです。罪に支配された生まれつきの古い自分は、キリスト と共に死にました。このことをはっきりと信じ、受け止めることが大切です。 イースターの朝、もう一度主が私のために復活されたことを覚え、「罪に死に、キリスト と共に生きる」との信仰告白をもって歩んで参りましょう。

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2018年3月25日「主の僕の忍耐」

イザヤ書50章4−7節主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。(4節)
神は、イスラエルの民が神の呼びかけに応じて悔い改め、神のもとに帰って来るのを待ち望んで おられましたが、彼らはそれを拒みました(1-3)。私たちはこの一週間どれ程神に従順だったで しょうか。「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び 覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる」(4)。 罪ゆえに疲れている私たちは、神の言葉により朝ごとに励ましを戴けるのです。主イエスは数多くの 奇蹟が行われた町々が悔い改めなかった為、それをお叱りになった後、「疲れた者、重荷を負う者は、 だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と語られ、尚も彼らを悔い 改めへと招かれました。主は、私たちが主の僕として人々を救いに導く務めを果たすことが出来るように 「朝ごとに耳を呼び覚まして」くださることを覚えましょう。 「主の僕」は、どんなに肉体的な苦しみと精神的な侮辱を受けても、そこから逃れようとはしませんでした。 すべての人の救いのために罪なき者の命を十字架に捧げ神の赦しを得るという使命が神から与えられていたからです。 主イエスは神を信頼し、また私たちを愛しておられたゆえに、多くの苦難と侮辱を忍耐して下さいました。 永遠の命を確かなものにするためには、私たちも主の僕としての務めを果たす必要があります。 確かに私たちは行いではなく、信仰によって救われました。しかし、この愛を自分だけのものとするのではなく、 分かち合うように召されているのです。一日一日を大切にし、神の救いを必要としている家族や友のために、 朝ごとに神の言葉に聞き従うことから始めましょう。

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2018年3月18日「神の平和を求めて」

ローマの信徒への手紙5章1−11節それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、 わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。(11節)
当時のローマの教会では、「救い」について、主イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって 十字架で死なれ、神の罰を受けてくださったことを感謝して受け取ることであると理解している 異邦人キリスト者と、それだけでは不十分で、モーセの律法を守り割礼を受けて真のユダヤ人になる ことも救いの条件であると主張するユダヤ人キリスト者との間に平和が保てなくなっていました。そこで パウロは、信仰によって義とされた者は、主イエス・キリストによって神との平和を得ているのだから、 あなたがたも互いに平和であるようにと語りました。パウロは実に多くの苦難を経験しましたが、 「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(4)ことを悟り、神の全き愛を頂いた者はどの ような苦難の中にあっても喜ぶことが出来ると確信したのです。私たちも、苦難から希望へと変え られた姿となることによって、世の人々にキリストを証しすることが出来るのです。 「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んで くださった。・・・わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んで くださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(6-8)この言葉をどれ程真剣に 受け止めるかは、私たちに委ねられています。弱い自分に信仰と希望が与えられたことを覚え、 神との平和を毎日求め続けましょう。そして、神の御言葉は必ずなると信じて希望を持って祈ってまいりましょう。

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2018年3月11日「闇から光が輝き出よ」

コリントの信徒への手紙二 4章1−6節「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、 わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(6節)
かつて熱心なユダヤ教徒としてキリスト教会を迫害したパウロは、復活の主イエスと出会い回心して以降、 熱心なキリスト伝道者に変えられました。しかし、彼の伝道者としての歩みは決して平坦ではなく、 誰よりも多くの苦難に遭い、あらゆる教会の心配事を抱えていました(11:24〜)。にも拘らず、 「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(1)と 証ししています。「憐れみを受けた」とは、自分が神の民として相応しくなく、信仰者としても失格であったのに、 神の愛と赦しを頂いたということです。彼は唯一まことの神がいつも共にいて働いてくださり、永遠のいのちへと 導いて下さると確信していました。そして、この恵みに繋がることで、自分を見て極度に落ち込んだり、 また他人の評価で傷ついたりせず、神の言葉に真実に歩むことが出来たのです。 パウロはまた、自分がいかに弱いものであるかをよく知っていました。そして、弱さの中にこそ主が 居て下さることを確信していました。私たちは、「宝を土の器に納めている」(7)のです。欠けの多い 私たちの内に、主イエスの栄光(福音)が与えられています。パウロが語るように、わたしたちは 自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。私たち自身は、 イエスのために人々に仕える僕なのです(5)。憐れみを受けた私たちは、主の十字架の愛を人々に 伝える務めと勇気が与えられていることを覚え、御言葉に従って歩んでまいりましょう。

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2018年3月4日「委ねられたものを守りなさい」

テモテへの手紙二 1章8−14節あなたにゆだねられている良いものを、 わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。(14節)
パウロがローマ当局に捕えられたことで、キリスト教を捨て、教会から去っていく 信徒たちがいました。そこでパウロは若き伝道者テモテに対して、「主を証しする ことも、わたしが囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、 福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」と励ましました。またパウロは 「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする者は皆、迫害を受けます」(3:12)と、 迫害を受けることは信仰者の証しであると語っています。もし、苦難を自分の力で耐えようと するなら、私たちはもがき苦しみ疲れ果ててしまうことでしょう。しかしパウロは 「神の力に支えられて」と語っています。「神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と 思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」(7)。 主イエスは「世の終わりが近づくと、 あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や 王の前に立たされて、証しすることになるから、自分のことに気を付けていなさい。」(マルコ13:9) と語られました。私たちは信仰が本物かどうかはっきりとさせられる時が必ず来るのです。 パウロは「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた 健全な言葉を手本にしなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に 住まわれる聖霊によって守りなさい」(13、14)と語っています。委ねられているものとは 「福音」です。主イエスの再臨に備えて、主を知らない人々(家族、友人)に、福音を正しく 伝えることをわたしたちは委ねられているのです。その時まで、永遠の命の希望を支えにして、 神の力によって歩ませていただきましょう。

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2018年2月25日「主を尋ね求めよ」

エレミヤ書2章1−9節祭司たちも尋ねなかった。「主はどこにおられるのか」と。(8節)
エレミヤは神からの任務を受けて、頑なにまことの神に背き続けるイスラエルの民に 対して下そうとしておられる審判を告知しましたが、イスラエルの民の中にはそれを 心に受け止める者はいませんでした。彼らはまことの神への信仰から離れ、他の神々 を拝んでいたのです。 しかし、神は彼らの「若いときの真心」(初めの頃の信仰)を覚えていると語って 下さいました。若いときとは、苦役を強いられたエジプトから彼らが解放され、 シナイ山で十戒を与えられた時、つまり、神と新しく出発した時です。この時、 イスラエルの民は神の御心に従い、神と共に歩む者として選ばれた「花嫁」となり、 「花婿」である神との聖なる生活が始まりました。「花婿」である神は、ご自身の 民のために身をささげ、仕える者の姿になられて使命を全うしてくださったのです。 苦しい時に人はなぜか神の助けを求めます。それが神に立ち返るというのではなく 、自分の欲望を満たすために神に近づき、神に頼るということであるなら、それは 偶像へと向かう危険なことでもあります。「お前たちの先祖は わたしにどんな おちどがあったので遠く離れて行ったのか。彼らは空しいものの後を追い 空しい ものとなってしまった。」と主は言われました。イスラエルの民は、神の御教えに 耳を傾けず、自分の欲望を満たしてくれる偶像の神を求めたために、エレミヤの 警告した通り、バビロンに破壊され捕囚の民とされてしまいました。私たちの 心の中心は、まことの神以外の何物をもってしても満たすことは出来ないのです。 神の「花嫁」として、まことの神への信仰を捨てず、神の御言葉に従い、 神と共にある聖なる生活を送ってまいりましょう。

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2018年2月18日「救い主が苦しまれた訳」

ヘブライ人への手紙2章10−18節御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、 試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。(18節)
主イエスが多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、 三日の後に復活された理由がここに記されています。それは、「主イエスを救い主と 信じるすべての者たちを天まで引き上げる」という神の僕(メシア)としての職務を 全うするためであり、そのために受けられた数々の苦しみは、万物をお造りになられた 方としてふさわしいことであったのです。人々を栄光へと導くために、数々の苦しみを 通られた主と私たちの関係は、自分のことを犠牲にして我が子に愛情を注ぐ親子の関係に 似ていると言えます。この計り知れない深い愛を無条件で神より賜った私たちは、救い主の 栄光を日常生活の中で証し、分かち合うべきなのです。御子キリストは、身代わりの 十字架の死という苦難の中でも、神にのみ信頼し、その結果、すべての名に勝る名を父より 賜りました。私たちはその証人として、教会に集い、永遠の死から復活された主キリストを賛美するのです。 当時のユダヤ人キリスト者の中には、困難から自分の命を守るために信仰を捨てた者たちが いました。しかし、それは神の救いの恵みから離れることを意味します。主が私たちと同じ 人間となって、傷つけられ、侮辱され、多くの苦難を受けられたのは、試練を受けている人 たちを助けるためであったと記されています。主は試練の中にある者と共に歩んでくださる お方なのです。主に倣い、私たちもまた隣人を助ける者として用いていただきましょう。

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2018年2月11日「押し流されない信仰」

ヘブライ人への手紙2章1−4節わたしたちは聞いたことに いっそう注意を払わねばなりません。 そうでないと、押し流されてしまいます。(1節)
私たちは、見るもの聞くものに影響を受けやすい存在です。詩編69篇には、ダビデ さえも神への信頼が揺らいだことがあり、その心のうちが記されています。私たちは、 気付かないうちに信仰から流されることのないように気を付けなりません。神は、 イスラエルの民に対して「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。 大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず  炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ43:2)と出エジプトの出来事を思い 起こさせ、神ご自身への信頼を求められました。また、パウロは「あなたがたは皆、 信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに 結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:26−27)と 語っています。知らないうちに信仰から少しずつ流されてしまうことのないように 、毎日聖書を読み、祈り、しっかりと神の言葉に繋がってまいりましょう。 3節には、救われた私たちが、主の教えや警告、招きに無関心で、「大きな救い」 に無頓着なら、神からの処罰を免れることはできないと語られています。「注意を払う」(1) とは、主イエスの言葉に聞き入り、それを信じて生きるということです。私たちには伝える 使命があります。しかし、神から頂いた救いの恵みを伝えることをせず、あるいは、自分の こととして受け取ることもしないなら、私たちはその責めを自ら負わなければならないのです。 各々が神との関係をしっかりと結び、御教えを正しく継承していくことができるよう に願ってまいりましょう。

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2018年2月4日「あなたの罪は赦される」

マタイによる福音書9章1−8節イエスはその人たちの信仰を見て、 中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。(2節)
主イエスがカファルナウムの町に帰って来られた時、4人の男が中風の人を床に寝かせた ままイエスのところへ連れて来ました。しかし、既に大勢の人が来ており、家の戸口の 辺りまで隙間もないほど集まっていたため、家の屋根をはがして穴をあけ、中風の人 を床に寝かせた状態で主イエスの前に吊り降ろしました。すると、イエスは彼らの信仰を見て、 「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と宣言されたと記されています。 病の苦痛だけではなく、病のために汚れた者とされ悩み苦しんでいた中風の人は、 イエスのもとに連れてきた仲間たちの信仰ゆえに、病が癒されたのです。これこそ 、主イエスを救い主と信じる「教会」のあるべき姿ではないでしょうか。今も主イエスは、 救いと癒しを必要としている人が、キリストの体である教会に連れて来られることを望ん でおられるのです。 イエスは、その場にいた律法学者たちが、「この男は神にしかできないはずの罪の赦しを 宣言している。神への冒涜だ!」と考えていることを見抜き、「『あなたの罪が赦される 』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」と問われ、中風の人の病を癒し、 ご自身が地上で罪を赦す権威を持っておられることを示されました。その後、イエスは 12人の弟子を選び、ご自身が神から賜った権威を彼らに委ね、町々に派遣されるのです。 マタイの福音書は、教会には罪を赦す権威のある御方である主イエスがおら、罪の赦しの恵みの 現実があることを伝えています。わたしたちの教会には、互いの罪を赦し合う愛が聖霊なる神に よって既に備えられています。そして、私たちは主日礼拝ごとに神からの平安を頂き、神の愛を 用いる者として、ここから遣わされて行くのです。

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2018年1月28日「生かされて生きる」

マタイによる福音書6章25−34節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(33節)
主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」と私たちに語りかけます。そこにどのような真理が、 恵みがあるのでしょうか。そこに天の父なる神様によって愛され養われて生きている小さな 命を見ることができます。私たち人間は、「養われて生きる」ことに積極的価値を見いだ しません。大人は養われているようでは一人前ではない、自立していないと考えます。しかし、 聖書は神によって養われている事実をしっかりと受け止めるようにと促します。天の父なる 神様が養って下さっている事実の背後に、私たちは漠然と生かされているのではなく、 主は目的と期待をもって私たちを一日一日と生かして下さっているという事実があるから です。主の私たちへの愛の確かさの印なのです。 主は必要なものは全て与えられると約束して下さいます。(32−33節)このことから 「足りて生きる」喜びを知ることができます。私たちは欠乏症の傾向があります。足りない ことばかりに思いがいってしまいます。「主が私に必要なものは全て与えて下さっている」 という信仰に立つとき、「足りて生きる」喜びを経験できます。主が必要なものは与えて 下さっていると受け止めることで、今与えられている時間、知恵、財、人脈、体力を感謝し 受け止め、取り組むことができます。すると不思議と主からの助けと導きをあざやかに 経験でき、足りて生きる喜びを経験します。 「生かされて生きる」ために、何よりもまず、神の国と神の義を求めましょう。

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2018年1月21日「エレミアの召命」

エレミヤ書1章4−10節わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。(5節)
南王国ユダの人々がバビロニアの捕虜となっていた中で、若きエレミヤ(20〜25歳頃) が預言者として召されました。彼は、ユダが滅ぼされたのは唯一まことの神を離れ てアッシリアの神々を神殿に祀り拝んだからであると警告し、40年に渡って、 「唯一まことの神を信じて立つならば救われる」との預言し続けたのです。しかし それよって、エレミヤは人々から拒否され、国からは政治犯とされ、家族からも 苦しめられるなど苦難の連続にあり、彼は「あなたは、助けてやると約束して おきながら、私を欺きました。あなたは人々に災害や恐怖、滅亡について語る ことしか許して下さらなかったので、私は除け者にされ、町中の笑い者に なっています。」(20章)、「もうあなたの名によって語るまいと思っても、 私の心の中に閉じ込められていた主の召命の御言葉が、火のように燃え上がって 来るので苦しくてたまりません」と神に訴えたのです。 神はなぜ、弱く経験の浅い若者を、厳しい神の言葉を語るべき預言者として 選ばれたのでしょうか。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15) とパウロが言ったように、神が最も必要とされたのは、民の苦難を自分の事として 嘆く者だったのです。神はエレミヤを生まれる前から知っておられた、これ以上確か な選びは他にないのです。 エレミヤは、「語る言葉を知らない」と恐れていましたが、「わたしの言葉を授ける」、 「わたしはあなたと共にいて必ず救い出す」との神の約束を信頼して、40年間預言者 としての働きを全うしました。わたしたちもエレミヤの如く、神は全てを知った上で 私たちを選んでくださり、共にいてくださることを信じて、人々に福音を伝える者 として歩んで行きましょう。

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2018年1月14日「あなたは私の愛する子」

マルコによる福音書1章9−11節あなたはわたしの愛する子、わたしの 心に適う者」という声が、天から聞こえた。(11節)
著者マルコは、イエスの教えを伝えることよりもむしろ、イエスが何をしたか、 またイエスが居た場所でどんな事が起こったかについて記し、冒頭の言葉「神の子 イエス・キリストの福音の初め」に表されているように、イエスがこの世に訪れた ことこそが良き知らせ「福音」であると伝えました。 洗礼者ヨハネは、ユダヤ教の一派であるエッセネ派の感化を受けて禁欲生活をし、 しばしば断食して過ごしていました。エッセネ派の人々は、一日に何度もヨルダン川 に飛び込んで身体を清めましたが、ヨハネは、水による形式的な体の洗いは何度行って も心を清めることは出来ず、水に入るのは一生に一度、罪の赦しを得させる悔い改めと して行われるべきであると主張しました。悔い改めとは、心を神の方へ向きを変え、 新たにすることであり、それによって初めて罪の赦しが得られると教えています。 洗礼者ヨハネのもとに、罪を一度も犯したことが無く、罪の赦しを必要としないイエスが 来られ洗礼を希望されたのは、罪人である私たちと一つとなるためです。パウロはこのことを、 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。 それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたち も新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:4)と証ししています。 天と私たちの世界の間には隔てがあり、それは人間の罪によって生じたものであることが イザヤ59:1―2に記されています。しかし、神はその隔てを神のご計画と決意をもって 裂いてくださいました。そして、神はこれから十字架の苦難の道を歩まれるイエスに対して、 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と声を掛けられたのです。わたしたちも 主イエスに倣う者として、自分を神に献げ、家族・友の救いのために歩んでまいりましょう。

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2018年1月7日「父なる神に仕えた少年イエス」

ルカによる福音書2章41−52節 どうしてわたしを捜したのですか。 わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。(49節)
ユダヤ教の口伝集「ミシュナー」には、「5歳にして聖書を、10歳にしてユダヤ教師 の口伝を学び始め、13歳にして掟に従い、…」と記されており、イエスも両親の信仰 によって、正しく宗教教育を受けたことでしょう。この過越祭の時にも、イスラエルでの 成人に当たる「戒めの子」を翌年に控えた、12歳の少年イエスが両親に連れられて来て いました。祭りが終わって皆が帰路についた時も、少年イエスはエルサレムにそのまま 残っていた為、両親は探し回りながら引き返し、三日後に見つけると、イエスは神殿の 境内で学者たちと問答しており、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だという ことを、知らなかったのですか。」と言われました。この世の常識から考えるならば、 両親と一緒に帰るべきであると思われますが、少年イエスは父なる神から「主の僕」と して特別な使命を受けてこの世に遣わされたことを強く意識し、神がお決めになった ことは必ずそのようになると確信していたのです。 旧約聖書には、「神の喜ばれる者」として「エノク」という人物が記されていますが、 彼の功績は何も記されておらず、「三百六十五年生きた」とだけ書かれています。 エノクが神に喜ばれたのは、人生を神と共に歩んだからでした。それゆえエノクは死を 経験しないように、天に移されたのです。私たちが礼拝を献げる教会はまさに「神の家」 であり、神がご臨在し、神が御言葉を通して働かれる場所です。私たちの模範として 歩まれた主イエスに倣い、神の教えを良く学び、神と人とに愛される者となるよう歩んでまいりましょう。

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2017年12月31日「恵みの時、救いの日」

イザヤ書49章7〜13節主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え  救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて 民の契約とし、 国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。(8節)
7節に於いて預言者は、神への不信仰によってバビロンに捕えられ、敵に侮られ、 忌み嫌われ、奴隷とされていたイスラエルの民を、神は必要な代価を払って買い戻し、 救って下さること、更にはバビロンが、彼らの奴隷であったイスラエルの民にひれ 伏すようになると語りました。自らの不信仰の結果として、救いようのない状況に 陥ってしまったにも拘わらず、神は「わたしは恵みの時にあなたに答え  救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて  民の契約とし、国を再興して 荒廃した嗣業の地を継がせる。」(8)との約束を 語って下さったのです。「神が選ばれた」(7)と言うことは、神の側で最後まで 責任をもって関わってくださるということに他なりません。私たちも同じように、 神に選ばれた者、贖われた者であることを覚え、感謝しましょう。 この箇所で言われた「恵みの時」「救いの日」とは、イスラエルがバビロン捕囚から 解放される時であり、今の終わりの時代に約束されている救い主イエスのご再臨の 時でもあります。救い主がいつ自分の民を迎えに再び来られるのか誰も知ることは できませんが、ノアの箱舟において、戸が閉められた後、誰一人中に入ることが許されず、 大洪水によって全てが滅ぼされたように、確実にその日は来るのです。救い主イエスが 再臨される日に備えて、神に罪赦された者として相応しく歩んでまいりましょう。

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2017年12月24日「神の愛に心満たされて」

ルカによる福音書1章46〜56節わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。(47節)
親類エリサベトを通して語られた、主なる神からの祝福の言葉に対して、 マリアは冒頭で「全身全霊をもって救い主なる神をあがめ、喜びたたえます」 と告白しました。自身を「身分の低い、主のはしため」と表現し、また、 ここで用いられているギリシャ語の原語の意味から、マリアの神への畏れと 敬意は最大級であることがわかります。マリアは自分が罪人であり、神の憐れみ によって救っていただかなければならない存在であることをはっきりと自覚して いました。神はマリアの謙遜な信仰を喜び、祝福し、幸いな者としてくださった のです。主イエス・キリストを救い主と信じ、心の内に聖霊なる神を宿している 私たちもまた、マリアと同じように「幸いな者」と言われるべき者なのです。 神は罪人である私たちのために御子イエス・キリストを世に遣わし、 十字架の死に引き渡されました。この神の愛を覚え、生涯を掛けて神を褒め称える 者とさせていただきましょう。 マリアはまた、神は公正な裁きを行われる方であると証ししました。今もそうである ように当時から、権力や能力のある者が尊ばれ、そうでない者は疎まれていましたが、 聖書は次のように教えています。「自分の力と手の働きで、この富を築いたなどと 考えてはならない。… 富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が… 今日のようにしてくださったのである。」(申命記8:17−18)「神は高慢な者を敵とし、 謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6)。御子イエスは、ただ神の御前に へりくだる者に恵みを与えて下さいます。そして、頂いた恵みを良き管理者となって 用いるならば、神の僕として更に豊かな恵みを注いで下さるのです。自分の考えを 優先するのではなく、マリアの信仰のように「お言葉どおり、この身に成りますように」 と告白する者を、神は愛で満たして下さるのです。

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2017年12月17日「この一事を忘れてはならない」

ペトロの手紙二 3章8〜14節だから、愛する人たち、このことを 待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めて いただけるように励みなさい。(14節)
この手紙が書かれた時代、小アジア(現トルコ地域)の諸教会には偽教師が現れ、 彼らの誤った考えが広まり、「キリストの再臨」を疑問視する信徒が出てくるなど、 信仰上の混乱が起きていました。イエス・キリストの弟子であるペトロは、 信徒たちに主イエスが与えて下さった救いの恵みに固く立ち続け、主の再臨を 待ち望み、神と人との前で落ち着いた信仰生活を行うように勧めました。 これは終わりの時代を生きる私たちを、主の御降誕を待ち望むに相応しい 信仰へと導くメッセージでもあります。 聖書は、この世の終わりの日には、天は激しい音をたてながら消えうせ、 太陽、月、地球など全てが熱に溶け尽くされると語り、父なる神は一人も 滅びないで皆が悔い改めるように強く望まれ、憐れみのゆえに主の日の実現を 忍耐しておられるのだと告げています。神は、私たちの愛する家族が救われる ことを強く望まれ、主の日を遅らせて下さっているのです。神にとっての一日は 千年のようで、千年は一日のようであり、主の日がいつであるかを考えることは 愚かなことです。主は、再びこの世に来られ、信じる者を完全に贖い、信じない者には 報いを与えられるお方であることを覚え、家族の救いのために私たちも忍耐をもって祈り 続けましょう。また、「すべてのものは滅び去る…あなたがたは聖なる信心深い生活を 送らなければなりません」とペトロが教えるように、主の日に備え、さまざまな誘惑が多く あるこの世にあって信仰を働かせて、聖霊の導きに従って正しく歩ませていただきましょう。

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2017年12月10日「書き記された主の言葉」

エレミヤ書36章1〜10節そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが 命じたとおり、巻物に記された主の言葉を神殿で読んだ。(8節)
当時の南王国ユダの人々の神への礼拝は形骸化されており不信仰であったため、 神はユダ王国をバビロニア帝国によって滅ぼすことを計画されました。エレミヤは 預言者としてそのことを同胞の民に向かって語らなければならず、それは大変 辛いことでしたが、長い年月に亘って繰り返し「おのおの悪の道を離れて立ち帰り、 行いを正せ。他の神々に仕え従うな。そうすれば、わたしはお前たちと父祖に 与えた国土にとどまることができる」(35:15)との神の命令を語り続けました。 しかし、誰一人として、エレミヤを通して語られた神の言葉に耳を傾ける者は いませんでした。そればかりか不安を与えるような言葉を語るエレミヤに対する 批判が強まり、命の危険にさらされるようになってしまいました。しかし、 主がエレミヤに召命をお与えになった時に語られた「若者にすぎないと言っては ならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが 命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたがたと共にいて必ず 救い出す」(1:7-8)「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける」(1:9)との約束を 守り続けて下さったのです。私たちは、御言葉を語り伝えているでしょうか。語る者が いなくて、どうして聞くことができるでしょうと聖書は告げています。 主はまたエレミヤに、主が語った言葉を残らず書き記すようにと命じました。それは誰 もが主の言葉を誤りなく聞き、悪の道から立ち返り、悔い改めるためでした。主は頑なな イスラエルの民をこれほどまでに愛してくださるお方なのです。神の言葉は生きて働かれます。 日々、正しく教え導いていただくために、神の言葉である聖書を読み、また、伝える者と ならせていただきましょう。

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2017年12月3日「主の来臨に備えて」

テサロニケの信徒への手紙一 5章1〜11節ですから、あなたがたは、現に そうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。(11節)
今日からアドベント(待降節)に入り、主の御降誕を待ち望む期間になりました。 教会の歴ではここから一年が始まります。それはまた「キリストの再臨」を思う 時期を迎えたということでもあります。 テサロニケの教会は、パウロの伝道によりキリスト教に改宗する者が増え、短期間 で誕生した教会です。この当時、ユダヤ人の妬みにより迫害に遭っていましたが、 彼らは主の日(キリストの再臨と携挙(ケイキョ))がどのようにやって来るかをよく 承知しており、勇敢に迫害に耐えていました。しかし、先に死んだ者がどうすれば 主の再臨の恵みに預かれるか、また、その時期について正しく理解してはいなかったのです。 パウロは手紙の中で、主の再臨は「盗人のように突然やって来る」と教えています。 キリスト者でない人々が「無事だ。安全だ」と言っている時、突然、破滅が襲いかかるのです。 しかし、キリストの再臨に備え、常にキリストと霊的な交わりの中にある(御言葉を読み、祈り、 従う)キリスト者は慌てる必要がありません。「わたしは世の光である。わたしに従う者は 暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と言われた主イエスの言葉を覚えましょう。 さらにパウロは、霊的に目を覚まし、信仰・愛・希望を信仰の武具とし、身を慎んでいること、 そして、励まし合い、お互いの向上に心がけるようにと語りました。主イエスは十字架に向かわれる前、 ゲッセマネの園で祈っておられた時、弟子たちに「誘惑に陥らないで、目を覚まして、祈っていなさい」 と言われた言葉は、私たちに語られた言葉です。私一人の救いの達成で満足するのではなく、 神が「教会」を建てられたことを覚え、「互い」に励まし合うことを実践していきましょう。

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2017年11月26日「救いを求める人々のために」

テモテへの手紙一 1章12〜17節わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエス がまずそのわたしに 限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようと している 人々の手本となるためでした。(16節)
テモテへの手紙は、パウロが2回に亘る獄中生活を強いられていた最晩年期に、教会の指導者 として様々な問題を抱え、心が弱り果てていた若き伝道者テモテに宛てて、与えられた使命を 全うできるように励ますために書き送ったものです。 異邦人伝道に仕えていたパウロは、かつてはキリスト教徒を激しく迫害し、暴力をふるって いました。しかし、主はこのパウロを選び、伝道の働きへ就かせたのです。彼はそれ以降、 どんな境遇にあっても自分の力ではなく、自分を強くして下さるキリスト・イエスの力により 頼んで歩みました。それは、神に裁かれるべき自分が、神の憐れみにより忠実な者と見なされて 福音宣教の務めに就かせていただいていることに感謝していたからでした。パウロは、ダマスコ の途上でイエスがキリストであることを知ってから、自分こそが罪人の中で最たる者であると 自覚し続けていました。このパウロの証しにテモテは、どんなにか励まされ勇気づけられたことでしょう。 パウロは、キリスト教会を迫害した自分が神の憐れみを受けたのは、このような罪深い者でも救 われることの手本となるためであると語りました。神は自らの弱さを自覚した者を隣人の救いの ための働きへと召して下さるのです。私の罪が深いため、私を救うために、主イエスはこの世に 来られたとの信仰が大切なのです。今も救いを求める人々のために働く者が必要とされています。 主は全ての人を救うことが出来るとの信仰を固く保ち、家族の中から、職場の中から救われる 者が起こされるために弱き私たちを用いていただきましょう。

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2017年11月19日「神のうちに踏みとどまりなさい」

マルコによる福音書13章5〜13節わたしの名のために、あなたがたはすべての人に 憎まれる。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(13節)
主イエスは、終末前には、「わたしがイエス・キリストだ」と言って、多くの人を惑わす者が 大勢現れること。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、戦争の騒ぎや戦争のうわさが聞かれる ようになること。方々に地震があり、飢饉が起こることを告げられました。しかし、これらはこの 世の終わりの前に起こることであり、まだ世の終わりではないと語られ、このような状況が続いても 慌てず、人に惑わされないように「自分のことに気をつけていなさい」と教えられました。私たちが 生きる現在の世においても、「わたしはキリストである」と語る者が中心となって活動している 宗教団体があります。目に見える力や悲惨な状況に心を奪われることなく、主と共にあることを 思い出しましょう。私たちが為すべきことは、慌てることなく、しっかりと主イエスの内に留まっていることです。 主イエスは更に、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と語られました。「耐え忍ぶ」とは、ただじっと 我慢するというのではなく、問題と向き合いつつ、日々主の御前に自分の心の内を吐き出して祈ること でもあります。時には聖霊の導きにより大胆に証をすることもあるのです。このように主を信頼する 歩みを途中で止めることなく、「最後まで」貫くことを主は求めておられるのです。70年ほど前の 日本において、キリスト者は迫害を受け、多くの苦難を経験しました。主はこのようなことが、 これから必ず起こると語っておられます。自由に聖書が読め、賛美が歌える今こそ、心の内に主の 御言葉や賛美を蓄え、主の日・救いの日に備えて参りましょう。

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2017年11月12日「神の友となる」

ヤコブの手紙2章14〜26節アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」 という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(23節)
ヤコブは、全世界に散らされたユダヤ人キリスト者を励ますためにこの手紙を書きました。それは、 救いには行ないも必要であるとする彼らに対し、信仰があれば行ないはなくてもよく、自分が救 われたことだけで満足している者との間に大きな相違が起こったために、彼らの間違った考えを正し、 真の信仰とは何かを教えるためでした。 聖書は、行いではなく主を救い主と信じ、自ら犯した罪を御前にて悔い改めた者が、神の恵みに よって救われると教えています。その結果として、喜びが溢れ、表情や行いが変えられるのです。 世の人々は、以前と変えられた私たちの姿を通して、神を知り、神を求める者へと導かれることでしょう。 行いによって救われるというユダヤ人の信仰は、義務的・儀式的に律法を守ることで満足しており、 心の無い行いも良しとされました。しかし、真の信仰は、御子イエスがわたしたちの身代わりとなって 裁かれ死んでくださるという神の恵みにより与えられたものです。この信仰は、自分だけのものとする のではなく、他の人のために用いるために与えられています。私たちが信仰を働かせて祈る時、 神が奇跡を行ってくださることを聖書は教えています。困っている人がいたら、まずその人のために祈り、 神に道を示していただき、その示されたことを行うのです。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけ では死んだものです。」(17) 真の信仰とは、神と隣人を愛する行いの伴う信仰なのです。 アブラハムは、実現が全く不可能と思われる時に、神の約束を信じて義と認められました。そして、 彼の信仰は息子イサクを神にささげるという行為によって現されたのです。神は私たちの信仰と行いを いつもご覧になっています。神が御言葉を通して語られたことに嫌と言うのではなく、従順であるなら 神は私たちを喜び、友となってくださるのです。

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2017年11月5日「悔い改めの機会を逃してはならない」

創世記4章1〜10節主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の 血が土地の中からわたしに向かって叫んでいる。」(10節)
最初の人アダムとエバは、神の命令に背いて禁断の果実を食べた為に、エデンの園を追放されて しまいました。犯してしまった罪の重さを日々噛みしめつつ過ごしていた二人に、神は恵みにより 子供を与えてくださいました。彼らは、自分たちの犯した罪を教訓として、子供たちには同じ罪を 犯すことのないように信仰教育を施したことでしょう。与えられた二人の息子は成長し、土を耕す 者となった兄カインは、神に礼拝を献げるために「土の実りを献げ物として持って行き」、 羊を飼う者であった弟アベルは、「羊の群れの中から肥えた初子を持って行きました。」 しかし、主はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその奉げ物には目を留められ なかったのです。なぜでしょう。それは、神は献げる者の心を見られるからです。二人には神を 礼拝する信仰に決定的な違いがありました。パウロは「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、 刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、 強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して くださるからです。」(Uコリ9:6-7)と教えています。与えられた物から最初に取り置いて、感謝を もって神に献げるのです。そして残りの物をもって楽しみ、また隣人へ愛を分け与えていくべき なのです。神は人と共に住み、愛の交わりへと招く為にエデンの園を造られました。ですから殺人の 罪を犯したカインに対しても、悔い改め、神に立ち返るようにと声を掛けて下さったのです。真心を もって礼拝を献げてまいりましょう。また、本日は聖餐式です。主イエスが十字架で流された血が どれほど尊いものであったかを深く覚えつつ、感謝をもって臨みましょう。

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2017年10月29日「離縁についての教え」

マルコによる福音書 10:2−12 神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。(9節)
主イエスがファリサイ派の人々から、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」 との質問を受けた場所は、かつてヘロデ王が自分の妻と離縁して、義理の兄弟フィリポの妻と結婚 したことを非難した、洗礼者ヨハネが捕えられた場所でした。 主は、この質問が悪意のあるものであることを見抜いておられ、モーセが「離縁状を書いて離縁すること」 (申命記24章)を許したのは、「あなたたちの心が頑固であるからである」と指摘しました。そして、 創世記2章から、神が男と女をお造りになったのは、二人が一体となる為であると断言しました。 エバは土のちりからではなくアダムの体の一部であるあばら骨から造られたのは、本来の一つの 体とされるためです。神はこの二人を通して、キリストの花嫁である私たちが、キリストと 一つの体とされるという神の真のご計画を示されたのです。結婚は、神と人との関係の雛型であり、 神の恵みにより与えられたものであることを覚えましょう。 弟子たちは、ファリサイ派の人々に対するイエスの言葉から神の深い御摂理を悟ることはできませんでした。 それは、神は私たちをキリストの花嫁として、神一筋に歩む者として造られたということです。 神は人を創造する前に、天地万物を創造し、私たちに必要なもの全てを備えて下さり、喜び・ 楽しみをも与えて下さいました。神一筋に歩むことは、他のものを失うことではなく、全ての ものが与えられるということなのです。信じる者に与えられている聖霊と、主イエスの十字架に よる和解と福音とをもって、世の人々に神の愛を表してまいりましょう。

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2017年10月22日「神の宮に住む人」

イザヤ書 33:17−22 あなたの目はエルサレムを見る。それは安らかな住まい、 移されることのない天幕。その杭は永遠に抜かれることなく、一本の綱も断たれることはない。(20節)
ここには、エジプトと同盟を結び、時の勢力アッシリアに対抗しようとするユダ王国について 記されていますが、預言者イザヤは、民がもはや神の救済を信じていないため、これらの戦略 はすべて失敗するだろうと語りました。神の民はエジプトに頼るのではなく、神ご自身を信頼し、 この方に聴き従うべきだったのです。イザヤは、預言書を通して、立ち返って神を信頼するならば 本当の平和を実現することが出来るとの慰めに満ちた約束を伝えました。 アッシリアは、ユダの見張りやぐらを攻撃してユダに侵略すると、奪い取った戦利品としての宝と捕虜を数え、 奪った土地を測量しました。しかし、そこへ「麗しい王」である主が出現し、アッシリアの大軍を 打倒したため、彼らは命惜しさに慌てて逃げ去ったのです。私たちの日々の信仰生活はどうでしょうか。 目の前に強大な敵である罪の問題が立ちはだかるとき、主が不信仰なご自身の民に、「私に帰りなさい」 と語り掛けて下さったことを思い出しましょう。 神の宮に住む人とは、日曜日だけではなく、地上において与えられた一日一日を主と深く交わり、 主に繋がって歩む人です。その人は、どこにいても主が共におられ、問題が起こった時にはすぐに主が 助けて下さるのです。そして、主は生きておられ、私のために働いて下さるということを更にはっきりと知ることになるのです。

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2017年10月15日「主の慈しみの中で」

詩編31:22−25 主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。(24節)
31篇の始めの部分は、神の救いに対する感謝を述べていますが、10節以降では、 敵に苦しめられていることについて神に訴え、敵からの救出を求めています。 そして最後には、神への深い感謝と平穏な生活を確信して結んでいます。 複雑に変化するこの詩は、肉体的病苦に悩む詩人が、病ゆえに友人に嘲られ排除され、 心までも病み苦悩し、神に魂の救いを求めて祈った詩なのです。 詩人は11節で「罪ゆえに力はうせ、骨は衰えていきます」と語ったように、 今の困難(心身の病気・敵からの迫害)は外的な要因ではなく、自らの罪が 原因であると悟りました。彼は苦しみの中で、神と共にあり、神の恵みの中に あることを確信したのです。神は彼に苦しみを与えることによって、全き信仰を求められました。 人は幸せな時には神を畏れず、神を求めようとはしません。しかし、常に順風満帆であること はなく、突然として思いがけない困難に遭遇し恐れ惑うのです。神は恐怖に襲われた時に 嘆き祈る者の声を聞いてくださいます。そして、罪深い者を強い忍耐をもって赦し、 最後まで面倒見てくださるお方なのです。 イスラエルの民は、自分たちの罪の故にバビロン捕囚という苦難を経験し、その中で 「神に立ち帰れ」という声を聞きました。自分の思いや他者の意見に従うのではなく、 どのような状況であっても、神に全く信頼して聴き従うことが大切なのです。 神の憐れみは絶え間なく、確かに注がれているということを聖書は繰り返し伝えています。 私たちも詩人のように祈りを通して信仰を表していきましょう。さらに、主の驚くべき 慈しみを証しする者として、密室の祈りだけでなく、戸外でもたとえ小さな声であっても 主に向かって祈るならば、主はその勇気を与え祝福して下さることでしょう。

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2017年10月8日「労働の意味」

詩編90:13−17 あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの 威光を仰ぐことができますように。(16節)
詩編90篇の作者は、冒頭で天地万物が造られる前から神は存在し、神は永遠に 私たちの安らぎの場であると讃美しました。そして、人が労働して一生を過ごさ なければならないのは、私たちの隠れた罪に対する神の怒りと憤りのゆえであると 語りました。創世記には、アダムとエバが神の言葉に従わず悪魔の声に従った為、 その罪の報いとして「お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ」「土に返る時まで、 顔に汗を流してパンを得る」と神が語られたことが記されています。労働は、 私たちの罪の報いとして神から与えられたものであり、労働を通して私たちは、 神を畏れ敬い、神を求めるように導かれているのです。労働の苦しみから解放され、 神の祝福と恵みをいただくためには、神を求め、神に立ち返ることが不可欠です。 罪を犯し、神から離れてしまったアダムを神は探し出し、「わたしに帰れ」と呼びかけて くださいました。創造主なる神は、私たちが地上のことだけを考え、自己満足の為に 生きる道を選ぶのか、神を恐れ、神を全く信頼し、神の声に従順に歩む道を選ぶのか、 私たちに自由意思を与え委ねておられます。労働をただ地上だけのこととして考えるならば、 私たちの人生は不確かなものとなることでしょう。確かな人生とは、神に与えられた命を 無駄にせず、罪を悔い改め、神の御言葉を信頼して歩むという、本来の人間のあるべき姿に 立ち返って生きることです。そうするならば、聖霊なる神がその人と共にあって、人生を 活き活きとさせて下さいます。日々、神の御名を畏れつつ、真の喜びに満ちた確かな人生を 歩んでまいりましょう。

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2017年10月1日「愛されて育つ」

エフェソの信徒への手紙 5:1−5 あなたがたは神に愛されている子供ですから、 神に倣う者となりなさい。(1節)
パウロがこの手紙を書いた頃のエフェソの町は経済的に豊かであり、キリスト者 でありながら、神の霊的な恵みよりも物質的な安定や豊かさを求め、神の御心に 反する思いや行いに向かう者が多くおりました。そこで、彼はこの手紙を通して 信徒たちに「救われたあなたがたは、この世と歩調を合わせてはなりません。 古い生き方を捨てて、新しい生き方に生きなさい。」とはっきりと語りました。 パウロはここで、私たちは「神に愛されている子供」であることを教えています。 主イエスは、十字架上でご自身の命をささげ、私たちが神の国に入る道を開いて 下さいました。ここに神の愛が示されたのです。「あなたがたは神に愛されている 子供ですから、神に倣う者となりなさい。」どれ程自分が愛されているのか、 それは聖書を学ぶ程に知ることができます。それによって、神を愛し、神に倣う者 にさせていただきたいとの思いが深まるのです。 パウロはまた、聖なる者にふさわしく感謝して生きるようにと語りました。 みだらなこと(人道からはずれた性交渉)、汚れ、貪欲、卑わいな言葉、愚かな話、 下品な冗談は、肉の欲望によるもので、この世の闇の生活に戻る行為です。残念 ながら当時の教会には、それが多く存在していました。私たちも気付かないうちに 世の風潮に流され、欲望の奴隷になっていないか一つ一つ確認する必要があります。 神は、私たちが弱い者であることを知っておられ、いつも語り掛けて下さっています。 今や光の子とされた私たちは、闇の生活・肉の欲望から遠ざかるべきです。雑多な 思いで過ごすならば、神の声は聞こえては来ません。日ごとに神の前に静まり、 御言葉を読み、教えられ、御言葉に献身(応答)してまいりましょう。必ずや感謝が 溢れ出ることでしょう。

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