33、古代山陽道と賀茂台地、


古代律令制下の国・郡・郷名を記載した「和名類聚抄」と題する10世紀半ばの文書で、安芸国の「沼田郡」と「賀茂郡」の部分に次の郷名が記されています。

「沼田郡」  沼田、船木、安直、真良、梨葉、都宇、

「賀茂郡」  賀茂、志芳、造果、高屋、入農、訓養、香津、木綿、大弓


「賀茂郷」の位置は安芸・国分寺のあった西条町東北部と推定されています。その他に、文字は異なるものの、現在の地名に残されているものが多数あり、これらの「郷」の位置は概ね特定されています。

「木綿」は、一般的には「ゆう」と読みますが、この場合は「ゆうつくり」と読みます。郷名を記す古文書(東京国立博物館蔵・延喜式)に、そのように「ふりがな」があり、近世の寺家村に「夕作」の地名があったので、西条町寺家にあったと考えられています。 「ゆうつくり」の「ゆう」のみを漢字の地名表記に採ったことになります。
訓養は「やなくに」のふりがなを付けてあるので、現在の黒瀬町北部にある「宗近柳国」が該当するようです。
「都宇」は、中世の「都宇竹原荘」の存在から、現在の竹原市新庄付近と推定されています。
「大弓」の「弓」は「山」という字の草書体を読み誤って写されたもので、本来は「大山」であり、八本松町宗吉(JR山陽本線八本松駅の西)にあったと推定されています。(19世紀初頭に編集された「芸藩通志」の宗吉村図の南部に「大山」の地名が記されています。また、正保3年(1646年)の地詰帳にも「大山」の地名があります。ただし、近世の宗吉村は300石に満たない小村ですから、これに隣接する原村・飯田村の一部を含んで古代の「大山郷」があったと考えられます。)
「香津」は「かつ」と読めますが、下記に改めて記します。


古代山陽道 また、律令制による官道(古代山陽道)について、これも10世紀半ばの文書、「延喜式」に駅名を記していますが、そのうち、沼田郡と賀茂郡に位置するものは次のようになっています。

真良、梨葉、都宇、鹿附、木綿、大山

駅の多くは郷名の確認できる所に置かれていました。 駅制を経営するために相応の規模の集落があったことを示しています。
また、各駅は駅馬を20匹、駅子を120人有することが駅制に定められていましたが、これは駅間距離がほぼ同じであるから成立する条件で、安芸国内では、ほぼ10km間隔に駅が設置されていました。

「真良、梨葉、都宇、木綿、大山」の5駅は、対応する郷名が確認でき、駅の位置も推定できます。
「大山駅」の位置は、現・安芸区上瀬野大山地区が該当しますが、ここは中世以前は賀茂郡で、上記の「大山郷」に属していたと考えられます。34、大山峠と賀茂台地、で説明しています。

残る一つ、「鹿附駅」の位置を考えてみます。
「都宇駅」の位置と推定される竹原市新庄から田万里・三永を経て「木綿駅」の西条町寺家まで、国道2号線沿いに約18kmあります。古代の道はもっと屈曲があったとすれば約20kmです。この中間は西条町上三永ですが、ここに「鹿附駅」があったとすれば、駅間距離のバランスからみて合理的です。
(なお、縮尺の大きな地図では細かな屈曲が描けないので、見かけ上は8~9kmでも実際の道のりは10kmになります。)

さて、改めて、郷名・駅名を比べてみます。
「鹿附」は、「かつけ」と読むようです。見附(みつけ)、板付(いたづけ)の例があります。
ここで、郷名の「香津」をそのまま「かつ」とよんでも駅名の「かつけ」と共通する部分がわかります。
しかし、「木綿(ゆうつくり)」の例に倣って、郷名も「かつけ」で、「かつ」のみを取って「香津」と表記したと考えられます。
つまり、「かつけ」という地名に対し、郷名としては「香津」を、駅名としては「鹿附」と表記したと考えれば辻褄が合います。
他にも、発音の一部を省略して漢字表記している例に「丹比=たじひ」があるなど、漢字で表記すれば3文字以上の地名を2文字で記す例はいくつかあります。上記の「宗近柳国」に対する「訓養(やなくに)」の場合も該当するかもしれません。「己斐」は「こひぢ」の、「若狭」は「わかさる」の、それぞれ語源の下一音を略して漢字2字を宛てています。

現在、下三永に「加計(かけ)」の地名があります。新幹線の東広島駅のすぐ東側です。この「かけ」が、「かつけ」から転訛して現在に遺された地名と考えられます。
また、芸藩通志・上三永村図の東部に「勝負」の地名が記されています。今は失われていて読み方は不明ですが、仮に「かつまけ」であったら、「かつけ」との関連を想像できます。

整理すると、「香津(かつけ)郷」は、近世の上三永村と下三永村を含む領域で、その東部に「鹿附(かつけ)駅」があった、ということです。

下三永の南部の山麓に「福成寺」があります。この地へは11世紀の始めに移転されたと伝えられていますが、その当時、寺の北側に広がる平地に「香津郷」または、それを継承する村が存在していたことを想定できます。正平13年(1358年)には、その三永村は福成寺領となりました。

「香津郷」を中世に継承したと推定される三永村は、近世には上三永村と下三永村に分かれましたが、「芸藩通志」によると、2村の耕地面積と石高はそれぞれ、79町、751石および107町、893石ですから、合計が186町、1,644石でした。

「木綿郷」を継承する寺家村は259町、2,060石、「荒山郷」を継承する安芸郡中野村は163町、1,716石でした。三永村は、これらに匹敵する規模ですから、古代に遡っても駅を経営できる規模の集落がこの地に存在していたと推定できます。

また、三永村の東に位置する田万里村は「芸藩通志」の記述で92町、1,088石でしたから上瀬野村・下瀬野村に匹敵し、同様に、古代には人々が往来できる程度に開発が進んでいたようです。

冒頭に記した郷名は、「和名類聚抄」に記載されている順序のとおりですが、一見してわかるように、駅家を置いた郷は各郡の後の部分に集中して記載されています。この点は、沼田郡・賀茂郡だけでなく、佐伯郡・安芸郡でも、また他国の他の郡の場合でも概ね同様です。この点も「香津」に駅屋が置かれていた事を示す有力な根拠です。

古代山陽道

西へ進んで、安芸郡、佐伯郡の経路と駅の位置は、(19,古代山陽道と広島湾、で説明しています。


注記(異説について):

確認できた範囲では、ほぼ全ての出版物は「鹿附駅」の位置を高屋付近と推定しています。

例えば、「広島県史」は「都宇駅」の竹原市新庄からは西へ進み、中田万里から北西に転じて高屋へ抜ける経路を記しています(上の図の、赤の点線A)。「鹿附駅」の位置は高屋町の郷地区としています。 この場合、次の問題があります。

(1)、「高屋郷」に駅を設けたなら、駅名は「高屋駅」になるはずです。古代山陽道の駅名としては、通常は設置された所の郷名から、一郷を形成できない小さな集落に設けた場合は郡名または国名から採っています。
(2)、竹原市新庄から高屋町・郷までの道のりが約12kmで、そこから西条町寺家までが約8kmですから、駅間距離がアンバランスです。
(3)、中田万里から高屋へ抜ける経路は標高差200mを超える峠があり、10世紀以前にここを通行できたかどうかも定かでありません。たとえ通行できたとしても、険しい山道の上り・下りを要するので、この間を通行するための所要時間が大幅に増えます。

別の例では、「古代日本の交通路Ⅲ」は、「都宇駅」の位置を竹原市新庄よりさらに北、入野の東南にある元兼付近としています。元兼の先は入野から高屋へ向かいます(上の図の、赤の点線B)。この場合、同様に高屋郷と駅名との関連に問題があることに加え、次の問題があります。

(1)、元兼付近には「都宇」と関連する地名が存在しません。
(2)、「郷」を形成するほどの大きな集落が近くにあった可能性がありません。
(3)、「梨葉駅」の位置と推定される本郷町下北方から元兼までの道のりが約12kmで、元兼から高屋までの道のりも約12kmです。この間、起伏・屈曲の大きい経路であり、険しい山道も含み、所要時間がさらに大幅に増えます。

「古代交通の考古地理」は、「鹿附駅」の位置は高屋町とした上で、「梨葉駅」からの経路を3説併記。

「事典日本古代の道と駅」は出版年次は最新だが、過去の説を羅列しているだけで新味なし。

結局、確認できる範囲の出版物に「高屋説」の根拠を示されていない理由は、この説がかなり古い昔の学者さんに起源するからだと推測できます。

さらに、「鹿附」の読み方についても、既存の出版物は「かむつき」と振り仮名を付けていますが、東京国立博物館蔵の古写本に「カムツキ」と朱書きで振り仮名があることを根拠とし、その当否を検証していません。なぜ、素直に「かつけ」と読まないのでしょうか?
「神」を「かむ」と読む例は万葉集などに多数ありますが、「鹿」を「かむ」と読む例は他に見当たりません。

播磨の明石駅から長門の臨門駅まで、延喜式に載る山陽道の駅は41箇所ありました。その大部分が設置された所の郷名から駅名を採り、残りが郡名または国名から採っています。官道を設置した古代の官僚は、経路の選定、駅の立地を非常に合理的な判断で行っているのに、現代の学者さんには、論理的思考の欠如しか感じられません。
なお、明石駅から臨門駅までの道のりは約480kmあり平均駅間距離は12kmになりますが、安芸国内は地形が険阻なため平均駅間距離は10kmです。

補足、(駅数の変遷):

安芸国内の駅数は、類聚三代格には大同2年(807年)の太政官符、続日本後紀には承和5年(838年)、いずれも延喜式と同じ13となっています。
一方、隣国備後においては、大同官符では5駅、延喜式では3駅と大きく減じています。
備後国内の、延喜式に記す駅名から想定される経路の道のりは約45kmですから標準的には5駅となりますが、平坦地が多いので段階的に駅数を減じたようです。
「承和」以前の安芸国内の経路は広島湾沿岸沿いだったと推定されますが、駅数の総数が変わらないのは沼田郡と賀茂郡の経路が当初は沼田川沿いに迂回し、入野・高屋を経由していたためのようです。

参照資料:  芸藩通志(復刻版)、広島県史古代中世資料編Ⅰ・Ⅳ(1976年)、広島県史原始古代編(1980年)、古代日本の交通路Ⅲ(1978年)、古代交通の考古地理(1995年)、事典日本古代の道と駅(2009年)、
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