近世に入ってからの、牛田山の周りを囲む各村の石高は下表のように推移しています。ここでの石高は年貢算定基準で、土地の生産力を評価した数値です。 「知行帖」は、福島氏の時代(1610年)の検地に基づくものですが、その後の浅野氏時代にも土地評価基準として変動なく踏襲されたようです。 「芸藩通史」は、文化年間(1810年頃)に編集された地誌です。従って、下表のAからBへの石高の増加は耕地の増加を反映していると考えられます。
この地域は毛利氏時代には直轄領だった所で、その当時の検地(1590年頃)の結果を伝えるとされる「八ヶ国御配地絵図」に記載されている石高(こちらは給付高=年貢高)は合計で約3650石。「3650÷7906≒0.46」から、年貢率は平均で 約46%と推定され、当時の安南郡と佐東郡の沿岸部の平均年貢率に近い数値です。(35,安芸国各郡の石高推移を参照。) 知行帖の石高から芸藩通史の石高まで大幅に増えていますが、その間の200年間をかけての増加ではなく、広島湾東岸の新開で示したように、17世紀の半ば以降、広島藩は干潟干拓に多数の村人を動員していますから、17世紀前半までに上表に記載した増加の大部分が達成されたと推定されます。矢賀村、府中村の大須新開(645石、75町)分を除いて、3,200石余(約40%増)が該当する増加高です。 |