旧・西国街道を行くと、広島市(安芸区)と東広島市(八本松町)の境界は大山峠〈とうげ=最高点〉にはなく、そこから西へ約800m下った所(下図の黒点線)にあります。これは、近世以来の郡境を踏襲するものですが、通常の郡境は、峠・尾根筋または大川に設定するのに、ここは坂道の中間、山腹の途中にあるから異例です。 瀬野川流域のうち、最上流域にある旧・宗吉村などの地域が先行して開発され、中流域は遅れて開発されていますから、郡境の設定も開発の進度に影響されたはずです。 位置関係を見ても、大山地区から西へ上瀬野の大集落まで道のり約4kmに対し、八本松町宗吉の大集落までが2.5kmですから、大山地区は賀茂郡に属するのが便利でした。また、12世紀に瀬野川中流域に世能荒山荘が立券された頃でも、この地域の開発は疎らでした。 おそらく、近世に入ってから、広島藩が峠に向かう坂道の丁度中間に郡境を移し、大山地区を上瀬野村に取り込んだものと思われます。遡って、中世末に瀬野川流域の村々を支配していた阿曽沼氏の所領だったことに由来するかもしれません。元和5年(1619年)の知行帖に記された石高には、上瀬野村として、565石に加え100石が別行で記されています。この100石が賀茂郡から移された大山地区に該当するようです。 「文化度国郡志」の上瀬野村の部、「土地古今変改之事」と題する記事に、次の内容が記されています。 当村、往古は大山境峠を東へ下り、当時、賀茂郡宗吉村飯田村境の所まで当村山所に御座候由の所、何れの頃か、寺家村飛郷の山、宗吉村の内に相成り、当時は峠より5町西へ下り梨ノ木谷尻両郡下馬所の間、古水抜限り郡村境に相成り申し候、余は往還共賀茂郡へ遣わし候由、古老申し伝えに御座候。 ここに記されている古老の伝えは、昔は上瀬野村の東境が大山峠の東(旧・宗吉村と飯田村の境=現・八本松駅付近)まで延びていたと語っています。それが中世の事だったとすると、瀬野川最上流域の旧・宗吉村までが安芸郡だったことになり、郡境(村境)の位置がもっと不自然です。 おそらく、中世終期に瀬野川流域を領していた阿曾沼氏が宗吉村までを所領としていた事に由来すると考えられます。さらに遡ると、郡・郷制が定められていないごく古い時代には現・瀬野川の上流域から中流域に跨る「せの」と呼ばれる広い地域があり、律令制下で郡・郷域が定められた際に、上流域は賀茂郡の「大山郷」となり、中流域は安芸郡に入り「せの」の名を継いで中世の「世能村」になった事が背景にあるようです。時代を経て、近世初めに郡境の移った位置が梨ノ木谷尻で、現在の市境の位置です。 「せのの大山」は、現・曾場ヶ城山を指します。しかし、単に「せの山」と呼ぶ場合はこれを主峰とする山並み全体を指していて東端は大山峠より遥か東に延びていますから、郡境とは無関係に、瀬野側の住人が山並み全体を支配していた時代のあった事を、上記古老の話が 伝えているのかもしれません。 西条周辺の村々は村域内に充分な広さの山地を持たないので、燃料の薪などを離れた所へもでかけて行って採取する必要がありました。 上の図に示されているように、灌漑用水を確保するために溜池も多数造られましたが、これらの溜池周辺の森林は水源涵養林ですから、伐木・草刈に制約があります。(なお、JR八本松駅の南に連なる七ツ池と総称される大池は近世初めに築かれたものなので、中世に遡ればもっと小さいものでした。一方、埋め立てて消滅した池や、地図に現れない小さい池も多数ありました。東広島市の「ため池調査表」には2000箇所余の池が記載されていますが、上記の地図の範囲に限っても概ね500箇所の池がありました。) 大山峠の南側に203町の山地(図に紫点線で囲んだA)、北側にも108町の山地(図に紫点線で囲んだB)が賀茂郡寺家村の所有地(飛地)でした。この寺家村の飛地は「芸藩通志」の村図にも描かれています。 さらに、大山地区北側の山地33町(図のC)について、寺家村と上瀬野村が帰属(所有権)を争っています。 また、「文化度国郡志」に、大山地区の南部の山地(図のD)に、賀茂郡の宗吉村・飯田村・寺家村・西条東村・土与丸村などから郡境を越えて薪などを採取するために村人が入るのを許されていたと記しています。 これら諸々の情報は、大山地区周辺が中世まで賀茂郡に属していたことを反映していると考えられます。また、宗吉村の村域が街道沿いに細長く西へ延びているのも、ここが大山地区と共にかつては阿曽沼氏の所領だった経過を反映しているようです。 (曾場ヶ城山の尾根筋の南東側の山地は、原村の領域です。) 芸藩通志に記している各村の農地面積は、寺家村(259町)、原村(246町)を筆頭に下見村(108町)が続き、他に100町から30町の面積を持つ村が10村近くありますが、山林に不足しています。 一方、上瀬野村(69町)、下瀬野村(72町)のいずれも南北に広い山林で囲まれています。 志和町・八本松町・西条町を含む賀茂台地は、全体的に起伏の少ない平坦地で低い丘陵地が散在し周りの山も深くはありません。灌漑用水を確保するために溜池も多数必要です。 一方、西に連なる瀬野川流域の村々は、谷筋に沿った細長い平地が特徴です。 地形的に異質の両者を結ぶ地点にあるのが大山地区で、中世までは賀茂郡に属し、西への玄関口でした。 古代律令制下の官道が制定され、「大山駅」が置かれたのも、この地だったと考えられます。 18世紀中頃に記された「中国路之記」には、「大山峠(たお):: 背野の大山と称す。一里半ばかり人家無し。甚だ険路にもあらず。大山と指す山は左の方の峻嶺(たかきみね)なり。これより左右松山なり。小流多し。」と述べています。「せのの大山」が「大山峠」の別称であり、山としては現・曾場ヶ城山であること、「大山峠」が八本松側から上って上瀬野へ下る坂道を指していることもわかります。 「大正4年に編纂された「安芸郡風教誌」には、「勢能大山::上瀬野村にあり、賀茂郡川上村に跨り西条盆地の西境なり。古来、山陽道の要衝なると同時に万葉集その他の古冊に載せられたる名山なり。」と紹介しています。川上村は、近世の宗吉村と飯田村が明治初期に合併してできた村。「上瀬野村にあり」と表現していますが、右上の地図で明らかなように、大部分が川上村の域内です。つまり、実際には賀茂郡内に位置する現・曾場ヶ城山を長らく「せのの大山」と呼んでいたことがわかります。おそらく、律令制下で郡・郷が制定される以前からあった「せの山」、「せのの大山」の呼称が、近代まで受け継がれてきたと考えられます。 大山峠付近を題材にした和歌がいくつかあります。余禄1、和歌の中の大山峠、をご覧ください。 注記: 中世後期に瀬野川流域を所領としていた阿曽沼氏は、安芸郡に2973石を領していましたが、賀茂郡にも387石を領していました。1610年頃の福島氏時代の検地によると、上瀬野村の東に接する宗吉村の231石と南に接する阿戸村の480石とを併せて711石になります。711石に対して387石は54%ですから、この両村は阿曽沼氏の所領だったと考えられます。7、瀬野川流域の村々と35、安芸国各郡の石高推移をご覧ください。 |