19、古代山陽道と広島湾


古代律令制下の国・郡・郷名を記載した「和名類聚抄」と題する10世紀半ばの文書で、「安芸郡」と「佐伯郡」の部分に次の郷名が記されています。

「安芸郡」  漢弁、弥理、河内、田門、幡良、安芸、船木、養濃、安満、宗山、駅家、

「佐伯郡」  養我、種箆、緑井、若佐、伊福、桑原、海、替濃、建管、駅家、大町、土茂、


古代山陽道 また、律令制による官道(駅制)について、これも10世紀半ばの文書、「延喜式」に駅名を記していますが、そのうち、安芸郡と佐伯郡に位置するものは次のようになっています。

(大山)、荒山、安芸、伴部、大町、種箆、濃唹、遠管

「延喜式」にある駅名と「和名類聚抄」の郷名を比べてみます。
同音異字や転写の際の誤記もありますが細かい差異は無視すると(例えば、「宗山」は「荒山」の、「建管」は「遠管」の誤写。)、全て郷名のある所に駅を設けていることが確認できます。これは、駅制を経営するために相応の規模の集落があったことを示しています。
また、官道を利用する官使は駅毎に駅馬と駅子を交換して進み、各駅は駅馬を20匹、駅子を120人有することが駅制に定められていましたが、これは駅間距離をほぼ同じにして成立する制度です。実際に、播磨から長門に至る7カ国内の山陽道の駅間距離は、平坦地が続く所で約15km、起伏・屈曲の多い所で約10kmなどとなっていて、所要時間で評価すればほぼ均等になるように駅の位置を設定していました。延喜式には播磨の明石駅から長門の臨門駅まで44駅が載っていて43区間ありますが、この間の道のりは約540kmありますから、区間平均で12.6kmです。

「延喜式」に示す各駅の位置もほぼ特定でき、その経路を東から辿ってみます。
まず、大山駅は現・安芸区上瀬野大山地区にあったと推定されますが、ここは中世末まで賀茂郡だった所で、「和名類聚抄」の「賀茂郡」にあった「大山郷」(現・八本松町宗吉付近)に含まれた所です。(34,大山峠と賀茂台地、で説明しています。)
次に、瀬野川沿いに南西に進み(荒山駅=安芸区中野)、海田湾に出てから府中へ抜け(安芸駅=府中町下岡田遺跡)、戸坂から太田川を渡り(大町駅=安佐南区大町)、安川沿いに遡り(伴部駅=安佐南区伴)、石内川沿いに南西に下り、五日市へ出て(種箆(へら)駅=佐伯区三宅・中垣内遺跡)、沿岸沿いに南西へ進み(濃唹駅=大野町郷、遠管駅=大竹市小方)、周防国に向かいます。この間、駅間距離も約10kmでバランスがとれており、この経路に他の名の駅が入り込む余地はありません。( 瀬野川沿いの経路については、「中世の瀬野川流域」の図を、荒山駅から安芸駅に至る経路については、3、古代山陽道と船越・海田をご覧ください。)

古代山陽道 さて、「和名類聚抄」の郷名の中で興味深いのは、「安芸郡」と「佐伯郡」の両方にある「駅家」という郷名です。

「駅家」とは、駅制により駅を設置した場所に由来する地名であることが明らかで、郷名として記されているからには長期に亘って駅家として存在した場所のはずです。
例えば、備後国では品冶郡の駅家郷に品冶駅があり、備前国では津高郡の駅家郷に津高駅がありました。
しかし、安芸国の場合、これら「駅家郷」に対応する駅名が延喜式には存在しません。延喜式に示す駅名から推定される経路の途中に、別の駅が割り込む余地もありません。今は、どこにあったのかさえ定かでありません。

この問題を解くカギは、「古代には、広島湾は祇園大橋付近まで入り込み、府中は鶴江付近まで海が入り込んでいた」という昔の人の根拠の無い思い込みを捨てる事です。

太田川三角州は、弥生時代にはすでに横断できる程度に陸地が広がっていました、(18、太田川三角州①、弥生時代を参照ください。)
また、8世紀には「牛田荘」が成立しており、箱島から西側の大きな中州を経て、対岸の三滝付近へ渡るのに支障はありません。(20、牛田荘と五箇浦をご覧ください。)
そして、古代の府中平地の南西部では、岩鼻と茂陰を結ぶ砂州が陸地化してつながっていました。(25、古代府中平地、をご覧ください。)

このように、古代の広島湾沿岸地形を理解した上で、二つの「駅家郷」の位置について考えて見ます。

まず、東隣の賀茂郡から入って、大山駅から荒山駅(現・安芸区中野)を経て海田湾まで、瀬野川沿いに南西に向かう経路は変えようがありません。また、種箆駅(現・佐伯区三宅)から沿岸沿いに周防国へ向かう経路も変えようがありません。従って、荒山駅と種箆駅の間で古代の広島湾の沿岸沿いに進む経路があり、その途中に「駅家郷」があったと考えてみます。
現・安芸区中野から現・佐伯区三宅まで、JR山陽本線沿いに国道・県道を辿ると30km弱あります。駅間距離を約10kmとして、この間を三分した地点は、東区矢賀付近と西区高須付近になります。ここが、「和名類聚抄」の中の二つの「駅家郷」の位置です。
(なお、縮尺の大きな地図では細かな屈曲が描けないので、見かけ上は8~9kmでも、実際の道のりは10kmあります。)

つまり、律令の駅制による当初の経路は広島湾沿岸沿いであったのが、後に10km以上も北へ大きく迂回する安川・石内川沿いに変わったために、当初の「駅家」は使われなくなったということです。(ある程度の期間、並存していたかもしれません。また、支道・近道として引き続き利用されていたかもしれません。)
大宝元年(701年)に大宝律令が制定された際には沿岸沿いの経路で官道が制定され、9世紀の始めごろ経路が変更されたようです。
経路を変えた理由は、沿岸沿いには役人を乗せた馬が歩いて行くには問題無いが、急使の早馬が走れないから、急用を伝えるには不利だということです。10kmも迂回しても、経路の大部分を走れるので速く行けるからです。
大同元年(806年)には、西国の新任国司の赴任には海路を使うことが定められたように、山陽道は人や物の行き来する交通路としてよりも、急使が走る通信路としての役割が大きくなり沿岸沿いの経路は使わなくなった、ということです。
9世紀以降、西国諸国からの貢納物輸送も、陸路より海路を使う事が多くなり、このため、安芸国の国府も賀茂郷(現・西条町)から海岸に近い安芸郷(現・府中町)へ遷りましたが、その頃に官道の経路も変わったようです。

「駅家」は8世紀の読み方(訓読み)は「はゆまうまや」ですが、漢音で「えきか」と読まれ、呉音では「やくけ」と読まれます。(「天皇」は、古くは「すめらみこと」ですが、後に「てんのう」と読まれます。)角川大字源は「駅家」に対して「やけ」の読み方を記しています。書籍「道と駅」は、「やくか」と読み方を記しています。ここから「やか」に転じたかもしれません。中世国衙役人田所氏の遺した文書には後世の矢賀村について「矢加村」と表記しています。これが「和名類聚抄」の「安芸郡・駅家郷」だった所。

高須付近で「駅家」が置かれた地点としては、己斐西から古江付近まで可能性がありますが、現在、この付近には「駅家」を類推させる地名は残されていないように思われます。他国の「駅家郷」の場合も「駅家」に由来する地名が現在も残っているのは稀で、駅制が崩壊した後はそれぞれの固有の地名に変わったようです。
「古江西第一号貝塚発掘調査報告」によると、駅家や郡衙跡に多く見られる円面硯が確認されています。
また、万葉集・巻第五で山上憶良の記した文中に「安芸国佐伯郡高庭駅家」の名がありますが、当時は単独で一郷を形成するほどの規模の集落が無い所に駅家を設けたのが「高庭駅家」で、これが「和名類聚抄」の中の「佐伯郡・駅家郷」だったと考えられます。
芸藩通志・古江村図の東部に「高須郷」の地名が記され、この付近にかつては一郷があった事を示唆します(8世紀の国郡郷里制による郷と里が、近世の村と郷に継承されたようです)が、それが現・高須3,4丁目付近です。(古江村図には、高須郷、中郷、田方郷の合わせて3郷が記されています。廃止になった駅家を古家(ふるえ)と呼び、これが古江に転じたのかもしれません。)
「高庭」の地名が近世以降に伝えられていないのは、それが消滅したのか、あるいは、万葉集(原文)の中の文字が元来の表記と異なるのかもしれません。例えば、「たかす」を万葉風に「高簾」と書き、書体が崩れているのでこれを「高庭」と読み誤って写し伝えられた可能性があります。現代に伝わる万葉集の原文は12世紀に写されたものですが、これには8世紀に編集された万葉集の元来の原文表記から多数の誤写が含まれています。「簾」から「庭」への誤写と類似する誤写の例も多数あります。
「たかす」の地名の由来は不明です。
(この付近の地形については、広島湾西岸の図をご覧ください。)


注記(異説について):

1、府中町の下岡田遺跡は「安芸駅」の跡と推定されていますが、この付近に安芸郡の「駅家郷」があったもので、ここに置いた駅の名として安芸郡を代表させて「安芸駅」とし、「安芸郷」は別に隣接して存在していたという説があります。
しかし、ここは安芸の国府が置かれた所ですから、その郷名が「駅家郷」では不自然です。

2、佐伯区三宅で確認された「中垣内遺跡」を古代山陽道の「大町駅」とし、「種箆駅」は廿日市市・平良にあったとする説があります。
この場合、「大町駅」から「種箆駅」までわずかに3kmで、安芸駅から伴部駅まで(太田川の渡河を挟んで)18kmにもなりますから、駅間距離が極端にアンバランスで不自然に過ぎます。「濃唹駅」跡と推定される大野町郷から佐伯区三宅まで道のりで10kmありますから、この間に別の駅が入る余地はありません。また、三宅付近に「大町」を類推させる地名は存在しません。
(参考までに、安芸国の一番西の「遠管駅」の位置は、現・大竹市小方付近と推定されていますが、ここから大野町郷までの道のりも約10kmあることが確認できます。)

3、廿日市市・平良に「種箆郷」があり、佐伯区三宅に佐伯郡の「駅家郷」があったもので、「駅家郷」に置いた駅の名を「種箆駅」にしたという説があります。
しかし、郡名でもない隣の郷名を借りて駅名にするのも不自然で、むしろ、「種箆郷」は廿日市市・平良から佐伯区三宅までを含む、当時の沿岸沿いの地域だったと考えられます。

いずれにせよ、「中垣内遺跡」が発掘調査される以前の、大町駅・伴部駅・種箆駅の位置に関する古い諸説(例えば、佐伯区利松に「駅」があったとする説など)は、全て無効と考えてよいようです。

4、万葉集・巻第五の中の「高庭」を「たかば」と読み、音の類似性を理由に大野町の高畑を「高庭駅」のあった地とし、これが延喜式の「濃唹駅」に該当するという説(大野町誌など)があります。つまり、8世紀の「高庭駅」が後に「濃唹駅」の名に変わった、または2種の呼称が併用されたという事です。しかし、「濃唹駅」が大野町のどこかにあった事は疑う余地がありませんが、そのような駅名の変遷や併用は不自然です。8世紀に編纂された出雲国風土記と万葉集には、「高庭駅家」以外に、合わせて10箇所余の「**駅家」が記載され、それぞれ場所が特定されていますが、後世に別の駅名に変わった例はありません。2種の駅名が併用されるのも不自然です。万葉集と和名類聚抄には多くの箇所で「庭」の字が使われていますが、ほぼ全てが「にわ」と読み、「ば」と読む例は皆無です。仮に、8世紀の濃唹郷の中に「高庭」という名の地があったとして、それが後になって「高畑」に変わる必然性もありません。また、駅名として使われたなら、もっと広域の地域名として残るはずです。「高庭駅」と「濃唹駅」は別々の地にあったと考えざるを得ません。


補足1、(駅家郷について):

「和名類聚抄」には、備前国から長門国までの6ヶ国に古代山陽道に沿って「駅家郷」が合計15箇所記載されています。これらを「延喜式」の駅名と対比してみると15箇所のうち11箇所は「駅家郷」がある所の郡名、国名またはそれに類する名を採って駅名としていることがわかります。他の4箇所のうち2箇所は周防国にあり、駅を間引いて(駅数を減らし)廃駅となった所です。最後の2箇所が上記の安芸国の「駅家郷」で、経路の変更により廃駅となった所です。
なお、安芸国の2箇所の駅家郷を含め、「和名類聚抄」に記載されている日本全体で約80箇所の駅家郷の大部分は、既存の大集落から離れた単独で一郷を形成できない規模の小さな集落に造られていますが、駅間距離のバランスから駅の位置を設定されたためです。

補足2、(駅数の変遷):

安芸国内の駅数は、類聚三代格には大同2年(807年)の太政官符、続日本後紀には承和5年(838年)、いずれも延喜式と同じ13となっています。
一方、隣国備後においては、大同官符では5駅、延喜式では3駅と大きく減じています。
備後国内の、延喜式に記す駅名から想定される経路の道のりは約45kmですから標準的には5駅となりますが、平坦地が多いので段階的に駅数を減じたようです。
「承和」以前の安芸国内の経路は上図に示す広島湾沿岸沿いだったと推定されますが、駅数の総数が同じなのは沼田郡と賀茂郡の経路が当初は沼田川沿いに迂回していたためのようです。
(延喜式に示す安芸国内の13駅の内訳は、上記の安芸郡と佐伯郡の7駅、沼田郡と賀茂郡に6駅ありました。沼田郡と賀茂郡の経路については、33,古代山陽道と賀茂台地、を参照ください。)


参照資料:  広島県史古代中世資料編Ⅰ&Ⅳ(1976年)、広島県史原始古代編(1980年)、古代交通の考古地理(1995年)、和名類聚抄郡郷里駅名考証(1981年)、道と駅(1998年)、萬葉集古義(1924年)、
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