0、現代の船越、位置と地勢

この地は、広島市の市街地の東部にあり、JR山陽本線の海田市駅と向洋駅の中間に位置します。

中世の「船越村」に起源し、近世の「船越村」、明治から昭和までの単独の村制・町制を経て、1975年の広島市との広域合併により広島市域の一部となって現在に至っています。合併前は、県下で一番小さな町だったそうです。

人口でみると、17世紀前半の約300人が、350年後の20世紀後半には約15000人へと、50倍に増加しました。
弥生時代の遺跡も残っていますから、2000年以上に亘って人々が生活してきた所です。



現在は市街地化が進んで、元の地形がわからなくなっています。そこで、鉄道と主要道以外は、道路、建物などの人工物を省いて描いたのが右下の図です。

薄紫色の部分(標高2m以下)は江戸時代から明治初期の干潟干拓と大正以降の埋立による平地で、現在は住宅・商業・工業地。(最南端部の埋立地と堤防は高潮対策のため嵩上げされています。)
次に、薄赤色から黄色部分(標高2mから20mまで)は概ね古来の平地で、現在は大部分が住宅地。
その次の、黄緑色の部分(標高20mから50m)は丘陵地で、一部の急傾斜地を除き、大部分がかつては農地でしたが、現在はほとんどが住宅地。
最後の薄緑色から濃緑色の部分(標高50m以上)は、ほとんどが山林。

この地域を大まかに分けると、古来の農地や宅地のある的場川流域と花都川流域、および近世以降に造成された南部の干拓・埋立地の三つになります。

また、干拓されたかつての干潟の部分が満潮時には海水で覆われた昔の状態を想像してみても、東へは海田湾北岸の平地を経て瀬野川流域へ、西へは低い丘陵地を越えて府中方面へ、東西方向に陸路の交通は活発でした。

そのように古くから境界を越えた交流があり、さらに広域合併の頃から昔の村境・町境は無意味になってきています。


下の写真は岩滝山の中腹、標高140m地点から南を眺めた視野角90度の現代の情景。左右に一直線に延びるのがJR山陽本線の線路。左寄り手前が船越小学校。その先に、安芸区民文化センターと安芸区役所。中景は左に海田町南部から矢野の市街地、中央に瀬野川河口から海田湾、右に向洋の丘陵。遠景が左に矢野・絵下山、中央に坂・天狗岩、右に坂・森山、金輪島、似島。

この船越で、現在ホットな課題がJRの高架化。詳しくは船越のJR高架化をご覧ください。
                               
参照資料: 船越町史(1981年)
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