9、中世の船越村と塩浜


田所文書 「船越村」という地名は、「田所文書(沙弥某譲状、正応2年(1289年))」で初めて歴史に現れます。 この文書は、13世紀に国衙役人として国府(現府中町)に居た田所氏の所領地を示したもので、現代の土地権利書のような文書ですが、その中に下記の内容の記述があり、当時の「船越村」の範囲を考えるのに参考となります。(現代文風に書き直しています)

「船越村」
1、田5反、大迫
2、畠3反、東浦 (見乃古志の北)
3、畠2反、西浦    (同上)
4、塩浜1反、堀の南東浦


このうち「大迫」は、的場川の中流に現代も残る「大迫」の地点であることは確実ですが、残る4箇所の位置の推定が様々に試みられています。

ここでは、現代の地図ではなく、中世(13世紀)の地形をシミュレーションした図を使い、推定位置を書き込んでみました。

中世の船越 的場川の流路の西側にあった干潟は、17世紀に干拓されて「堀越外新開」となりますが、現在の地盤の標高は1mないし1.5mです。13世紀はそれよりも少し低かったとすれば、干潮時は歩いて渡れ、満潮時には舟が通れる深さの水路ができますが、普段の流れが緩いので広い範囲で葦原が広がっていたと考えられます。

「見乃古志」は現代では「水越」と表記しますが、「水越」は各地に同じ地名が多数あり、「とうげ」の名と「小さな川のほとり」の名とが半々です。ここでは堀越から干潟の中を海田湾へ抜ける水路に由来するようです。

「堀」については下記の(1)、(2)で説明します。

元来、中世の「村」と近世以降の「村」はその概念が異なるので、近世以降の「船越村」の領域に拘ることは意味が無く、「田所文書」の記述を素直に読んで当時の地形に基づいて考えれば「見乃古志」、「堀」、「東浦」、「西浦」、「塩浜(堀南東浦)」の位置が自然に浮かび上がってきます。

「塩浜」の位置は、現在の「堀越公園」付近になります。
中世(鎌倉時代)の製塩遺跡としては因島の東にある弓削島が有名ですが、これらの調査から当時の製塩技法(揚浜系汲潮浜式)と地形条件 (U字形の深い入江の奥で海抜2mないし3mのところ)が確認されており、 そのような地形条件を満たすのは、この図に示す地点しかありません。下記の注ー3で説明。
この堀越公園はかつては溜池として使われていたそうです。溜池の底は水を透さないように粘土質で固めますが、その点も塩浜の構造と共通です。

また、浅野藩が文化年間に編纂した地誌「芸藩通志」の仁保島村図によると、現在の「広島市南区・青崎地区」に該当する所に「塩屋新開」と記されています。「塩屋」という名前は多くが中世の製塩施設のあったところであり、その点も、「田所文書」に記す「塩浜」がこの付近にあったことの傍証となります。

なお、中世(13世紀)の地形をシミュレーションした根拠は、先の瀬野川三角州および海岸平地で述べた理由に加え、次のとおりです。

(1)近世以前は、向洋半島は島で、海田湾から仁保島の東の入江に抜ける水路(舟路)のあったことは、17世紀以前の古絵図(瀬戸内海航路図や安南郡地図など)に示されています。

(2)現在の青崎一丁目から堀越一丁目を経て船越南3丁目に至る経路上の6箇所の地盤データを分析すると、堀越一丁目には昔は確実に水深5mx幅50m程度の南西から北東に向かう水路が存在し、後世、西から東へ流れる水流によって土砂が堆積していったことがわかります。下記の注ー4で説明。
この水路が田所文書に記す「堀」です。

この水路がいつ塞がったかは確かな資料はみつかりませんが、あり得るシナリオは、太田川の大洪水で猿猴川の水位が上がり、土砂を含む濁流がこの水路を西から東へ流れ下った時に、大量の土砂を残した、ということです。太田川三角州の歴史をみると、頻繁に大洪水をおこしています。
特に、毛利氏以降の城下町建設により、城下を守るために河川の堤防が高く築かれ、仁保島と向洋との間の出口が狭いという地形条件も重なり、太田川の出水時には流路を制限されてこの付近の水位が昔よりも大幅に高くなります。

また、地名「船越」は、この水路の存在に由来します。番外1-1、地名「船越」の由来、をご覧ください。

つまり、地名から見ても、塩浜の存在から言っても、中世の「船越」は西の水路を含んでいたと考えられます。


注ー1、 船越町史(p105-107)は、田所文書で「東浦・西浦」の位置を説明している箇所を、「自見乃古志者西也(見乃古志よりは西なり)」と紹介していますが、原文にある表記(冒頭の図の赤矢印)は「自見乃古志北」です。
もし、田所文書の「北」が誤りで、「西」が正しいという確かな根拠があるなら、「東浦・西浦」はそれぞれ、図中のXとYの地点になりますが、それでは「西浦」が「水越」から離れすぎます。
やはり、田所文書を上記のように素直に解釈するのが正解のようです。

注ー2、 上記の「沙弥某譲状」の他に、田所氏の遺した文書には「国衙領注進状」と題される文書があり、その冒頭に10町余を記載されている部分は村名不明ですが、内容的に船越村が該当すると考えられます。補足11、国衙領注進状、をご覧ください。

注ー3、中世の製塩技法
古代の製塩は土器製塩、近世の製塩は播州・赤穂や備後・竹原などで知られる入浜式製塩が広く行われていました。
一方、中世の瀬戸内海地方で主に行われたのは、揚浜系汲潮浜式、といわれる製塩技法でした。
まず、U字形の入江の奥で、満潮時の水面よりやや高く標高3m程度に平坦地を造成し、表面を粘土で覆って不透水性にし、その上に砂を撒いた構造を造ります。
ここに、人工的に海水を撒いて置くと、水分が蒸発して塩分が砂に固着します。
この砂を集めて付着した塩を水で洗うと塩分の比率の高い(濃い)塩水ができます。
最後に、濃縮された塩水を釜で煮詰めると固形の塩ができます。

「塩屋」という地名は中世製塩施設のあった所と推定されていますが、芸藩通史の村図の中では大野村図と仁保島村図に「塩屋」という地名が見られます。

大野村の場合、現在もJR大野浦駅の近くに「塩屋」という地名が残っていて、大野町誌は、ここに製塩施設があったらしい、という主旨を述べています。近世以前は入江に臨んだ浜でしたから、地形的条件も合致します。

堀越の水路 仁保島村は、現在の青崎地区に該当する所に「塩屋新開」と記されていますから、中世の地形から考えて現在の堀越地区に塩浜があった事を推測できます。
田所文書に示す塩浜は「堀南東浦」の一ヶ所のみですが、当時の広島湾東岸には複数の塩浜が存在していた可能性があります。

注ー4、 堀越の水路

青崎1丁目から船越南3丁目に至る6箇所のボーリングによる地層データから、この経路に沿う断面図を描くと右図のようになります。

氷河期が明けて海水面がほぼ現在の高さになったおよそ6000年前以降は東西に舟の行き来できる水路が存在していたのですが、およそ2000年前以降からは土砂の堆積により浅くなったと推測されます。

そして、16世紀には満潮時にのみようやく舟が行き来できる程度に干潟化していたと思われます。

参照資料:

船越町史(1981年)、広島県史・古代中世資料編(1978年)、府中町史(1979年)、矢賀郷土誌(1999年)、広島県地盤図(1997年)、芸藩通志(復刻版)、 塩の日本史、 塩業・漁業、 日本製塩技術史の研究
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