明治になると、当時を記録する文書も写真もたくさん残されていますが、全体を俯瞰できるものは多くありません。そういう点で、明治32年(1899年)の地形図は、100年余前の「船越」の様子を記す数少ない例です。 この当時の測量精度は低く、従って等高線の描き方も粗雑ですが、地形の特徴、山地と平地の区分や、主要道路と建造物など、地表に見えるものはかなり詳しく描かれています。 当時の「船越」の戸数約400、人口約2500人ですが、南部に広大な農地のあることが特徴的です。 その他、個別にみると次の点がわかります。 A,花都川上流に3つの溜池。最上流部の一つは戦後、埋め立てられて現在は船越中学校の敷地の一部。その下の池も現在はコンクリートで固められ、池としての役を終えています。昔はすぐ近くまで水田がありました。 B,的場川の上流の3つの溜池は現在も残っており、さらに遡ると水分神社があります。この付近まで水田がありました。さらに谷筋を登ると岩滝山から北へ延びる尾根筋に至りますが、現在は人が入らないので踏み跡さえも分からないくらいに荒れています。 C,小請田山。享保二年(1717年)の山帖には「持ち主=源兵衛、腰林」と記載されているから現代風に言えば私有林。源兵衛は鋳物師でしたから、燃料としての木材採取に利用したようです。戦後、宅地造成されて請田団地になりました。細い線で描かれている尾根道を北へ辿ると鹿篭山(現在は柳が丘団地)に至ります。南に下ると的場坂につながります。 D,的場坂。現・県道を北上し的場橋を渡って直ぐ左に入る細い脇道がありますが、この脇道を辿る上り坂が的場坂で、現在も市道。西に向かうと青崎・堀越に至ります。的場坂を登りきった鞍部から北へ向かうと小請田山の尾根道につながります。地名と地割②で説明しています。 E,的場山。戦後、宅地造成されて的場団地。 F,広い農地が残っています。宝永3年の村図に描かれた大木があったようです。ここに大正年間に正専寺が建立され、現在はこの周辺一帯は住宅地。 G,木船山(別名、市場山)。戦後、宅地造成されて城山団地。 H,学校があります。船越町史p360に述べる「船越尋常小学校」らしい。 I,当時の村役場。 J,学校があります。船越町史p358に述べる「鼓浦高等小学校」らしい。現在は区役所別館など。 K,街道の南側に平行して段(崖)が描かれていて、新開造成以前(つまり中世以前)の海岸の名残りです。現在も南側の宅地が道路面より50cm以上低い事が住宅の間の脇道などで確認できます。この線を東南東に延ばせば海田町の中世以前の海岸線につながります。 L,飯ノ山の西側で船越・海田の境界線が奇妙な位置を通っているのは、明治20年に飯ノ山の西側の山麓が船越から海田へ移されたためです。元々、海田村(海田市町の前身)には山地は無く、飯ノ山の稜線の西側全体が船越村で、船越村と奥海田村が直接境を接していました。海田・新町屋敷をご覧ください。奥海田村は、昭和31年に海田市町と合併し、現在の海田町になりました。 M,住宅地の中を直線的に東南東から西北西に水路が走り、両岸が道路でした。現在は水路を暗渠にして広い道路になった中店から新町へ向かう大通りです。(明治5年の瀬野川の付け替えまでは瀬野川右岸でした。海田新開造成以前の古代・中世はこの辺が海岸線でした。)海田新開で説明しています。 N,明治27年に山陽鉄道として単線で開通。広い農地の中を、盛土により路盤を造っています。明治36年に複線化と呉線開通。大正9年に向洋駅の設置。昭和19年に複々線化して以降、現在に到っています。平成??年に立体(高架)化予定。 O,的場川両岸の高い堤防が出水と高潮から東西の農地を護っています。 P,堤防の頂面の標高は現在は3.5mあります。松石新開造成時から殆んど変わっていないとすれば、新開の先端付近では地盤からの堤防の高さは4mを超え、瀬戸内海沿岸地方全体を通しても最大級の高さを持つ新開堤防です。文化度国郡志では2箇所の樋門の長さが9間(16.2m)と10間(18m)となっており、堤防の根元の幅が15mを超えたようです。 Q,干潟を干拓した松石新開の中心部。この付近の標高は現在も0.5m程度。新開造成時からの地盤の高さで残っています。 R,干潟を干拓した鴻冶新田の中心部。この付近の標高は0m。新田造成時からの地盤の高さで残っています。 入川新開と鴻冶新田、海田湾全干拓をご覧ください。 S,大きな池は松石新開の調整池。約200m x 120mありますから、現在の船越小学校グランドの2倍以上の広さ。この池の大部分は埋め立てられて現在は工場敷地。この図の中の他の新開の調整池と比べて異様さがわかります。芸藩通史の村図、異形の松石新開で説明しています。 T,北東から南西に向かって丘陵の先端が細長く延びています。昭和10年代まで木立が茂っていました。現在は整地して「府中給食」の敷地。受田川はここの西を迂回してから南東に転じて海田湾へ流れていました。 U,山陽線の路盤は、海田市駅附近から向洋駅附近までの大部分が低地に盛土をした土手の上を走っていますが、例外的にこの部分は、北から南へ連なる古来の小さい丘を削って路盤が作られていますので、地図には崖が描かれています。この付近の昭和10年代の写真でも鉄道路盤よりやや高く元の地盤が延びていた様子が写っています。 V,堀越の溜池、現在は公園になっています。中世には塩浜があったらしい。中世の船越村と塩浜をご覧ください。 W,標高81.3mの月見山。この附近は標高40mまで平坦に削り取られて現在は洋光台団地。削り取った土砂はどこかの埋め立てに使われたようです。 時代を少し下った大正時代に、月見山の北東の山腹(標高25m地点)から船越方面を撮った写真が遺されていて、上記Sの調整池を手前に、遠くは岩滝山の向こうまでの船越村全景が写っています。 右図を、さらに宝永3年の村図と比べてみると、200年余を隔てた変化がわかります。 |