補足7、毛利氏の惣国検地、備後


補足8、毛利氏の惣国検地、安芸に続き、 備後の状況を紹介します。

備後には14郡ありますが、北西側7郡と南東側7郡とで表を分けています。

以下、「補足8、毛利氏の惣国検地、安芸」と同様に、「分限帳」は「八箇国御時代分限帳」を「配地図」は「八ヶ国御配地絵図」を意味し、両者が示す各郡の石高の問題を福島氏の検地結果を介在させて分析しています。
下表で、
「A,分限帳」の行は、「分限帳」に記載されている各給人の郡別石高から、各郡の石高を集計したものです。
「a”、直轄・一門領」の行は、「分限帳」の中の各郡における毛利氏直轄領と、小早川・吉川氏など一門の石高を集計されたものです。
「B,配地図」の行は、付箋に記されている郡別石高です。
「C,補正、石高」の行は、下記に示す推定原因に基づいて補正した石高です。
「D、知行帳」の行は、関ヶ原合戦の後、毛利氏に代わって芸備両国を得た福島氏が行った検地による石高です。備後北西側7郡については浅野氏へ引き継がれた石高です。この数値は基本的には生産力を意味します。

「A」、「a”」、「B]、「C」、の4行は、基本的には給人などが得る年貢高を集計されたものです。

石高を集計する手順から言えば、「B」行の数値が最も正しいはずですが、三上・世良・御調の3郡について大きな問題があります。そこで、「C」の行で補正した石高を示し、「B-C]の差異高について下記で説明します。

上記3郡の問題を別として、「A」行と「B]行の数値は本来は合致すべきですが、検地を担当したのが毛利氏直属の家臣ですから、自らの根拠地を離れて不慣れな土地に関する情報の整理に困難があったようで、安芸の場合以上に大きな差異が生じています。
「A-B」の行で差異を示し、推定原因の概略を注記で説明します。

「年貢率、(C÷D)」は、毛利氏時代の年貢率を意味します。年貢率=年貢高÷生産力ですが、毛利氏による惣国検地から福島氏の検地までさほど年月を経ていないので、生産力として知行帳の石高を使うことは充分に有効と考えられます。

備後北西側7郡
項目三吉郡恵蘇郡奴可郡三上郡三谷郡世良郡御調郡7郡・合計
A,分限帳、石高9,96710,3037,8054,2748,40410,5888,70460,045
a”、直轄・一門領、石高1,5185748842812,3473,6668,649
差異、(A-B)211 62 749 -1,200
-5,100 ①
-907 -141-607-619
-5,100
B,配地図、石高9,75610,2417,05610,5749,31110,7298,09765,764
差異、(B-C)000-5,100 ②03,200 ③5,900 ④4,000
C,補正、石高9,75610,2417,0565,4749,31113,92913,99769,764
年貢率、 C÷D0.430.470.400.430.510.470.480.46
D,知行帳、石高22,95021,72917,46812,78018,15629,57129,269151,923


備後南東側7郡および総計
項目神怒郡神石郡芦田郡品冶郡沼隈郡安那郡深津郡7郡・合計備後・総計
A,分限帳、石高4,7188,4347,7786,2888,36910,0883,09848,773108,818
a”、直轄・一門領、石高980751011,8774,42410,0882,72120,26628,914
差異、(A-B)262425-1,6411,1094830-663213
-5100
B,配地図、石高4,4568,0099,4195,1797,88610,0883,10448,141113,905
C,補正、石高4,4568,0099,4195,1797,88610,0883,10448,141117,905
年貢率、 C÷D0.350.480.650.660.410.590.400.500.48
D,知行帳、石高12,76016,64914,3857,85019,36817,1587,69495,864247,787 ⑤

① 1,200石および5,100石、合せて6,300石
 (1) 1,200石(概算)、「分限帳」では隣接する郡へ算入されています。
 (2) 5,100石(概算)、「配地図」の付箋の石高では誤って御調郡から算入されています。文書を整理した家臣が集計を誤ったのかもしれません

② 5,100石
 上記6,300石のうちの5,100石。

③ 3,200石、および④ 5,900石、合せて9,100石(概算)
 (1)世羅郡と御調郡の石高は、「配地図」と「分限帳」のいずれを見ても、福島検地の石高と対比して異常に少ない。
 (2)「分限帳」には小早川隆景領の石高が備後のどの郡にも記されていません。隆景は沼田川流域を拠点に西は賀茂郡、東は世羅郡・御調郡に広い所領を得ていました。隆景が養子として入るはるか以前の鎌倉時代から小早川氏は備後に勢力を張っていました。中でも、隆景によって築かれた三原城は備後における重要拠点でした。
 (3)御調郡に隆景領として5,900石を加えると、郡高が13,997石。これに対する5,900石は42%。隆景の本拠地豊田郡では、郡高が30,469石に対し隆景領21,125石で69%。賀茂郡では、郡高が29,408石に対し隆景領15,392石で52%。御調郡で隆景領を5,900石加えても妥当な石高です。5,900石と上記5,100石の差、800石は向島に関わるもので、集計対象外だった所です。
 (4)世羅郡に隆景領として3,200石を加えると、郡高が13,929石。これに対する3,200石は23%で、不自然でありません。
 (5)豊臣秀吉から認定された毛利氏所領の中に、隆景領として66,000石が認められています(毛利家文書957)。ところが、「分限帳」に記載されている隆景領は総計48,079石しかなく、差額18,000石ほどがどこかに隠れていることになりますが、上記の5,900石がその一部だったと考えられます。また、生口島から能美島に至る島嶼部の石高が、総計で6,500石ほどあります。
 (6)現存する「配地図(八ヶ国御配地絵図)」には、郡高を示す付箋が御調郡のみ付けられていません。上表の8,097石は、備後総計と他郡の石高から逆算したものです。付箋を作った時、御調郡の合計を算定するのに何らかの問題があったことを示唆します。

⑤ 247,787石
福島氏が毛利氏に替わって着任した直後の検地の石高が23.88万石と伝えられていますが、その後、浅野氏へ引き継いだ知行帳の石高では約4%増加しています。

  
注記:   
  (1)「配地図」の付箋に記す各郡の石高と、「分限帳」から集計した各郡の石高は、上表の「A-B]の行に示すように、郡によってプラス・マイナス様々に差異があります。この多くは、隣接する郡に誤って記入されたか、あるいは文書を作った家臣の群域の解釈の違いが現れているようです。隣接する三上・奴可・神石の3郡の差異はほぼ相殺でき、芦田・品冶・沼隈の3郡、三吉・三谷・神奴・世良・御調の5郡の場合も同様に相殺できるので、これらの郡の境付近で集計の食い違いが発生したと推定できます。(100石未満の小さな石高の差異は省略します。)
(2)毛利氏の惣国検地では一部で検地漏れや集計漏れもあるようなので、福島氏による検地高(生産力)対し、備後では概ね5割程度の年貢率だったようです。 
(3)世良郡の隆景領の石高が、西隣の豊田郡に誤って集計されています。
(4)備後の平均年貢率を押し上げている要因は、安那、品治、芦田の東西に隣接する3郡の年貢率です。ここは、古来の陸路の幹線が通っていましたから、歴史的な由来があるのかもしれません。

参照資料:  広島県史・近世資料編(1975年)、八ヶ国御配地絵図(山口県文書館)、毛利氏の研究(1984年)、資料毛利氏八箇国御時代分限帳(1987年)、

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