補足6、毛利氏の惣国検地、安芸


天正15年~19年(1587~1591)、毛利氏は、支配圏の八ヶ国に対して「惣国検地」を行ない、その結果が「八ヶ国御配地絵図」と「八箇国御時代分限帳」と題する文書に残されています。

「八ヶ国御配地絵図」は、1国1枚の大きな紙面に各郡の枠を線引きして描き、その中に各給人(毛利氏の直轄領、一族や家臣達、寺社など)が得る石高とその名前を書き込んだもので、「絵図」というよりは「配置図」に類するものです。以下「配地図」と略記します。「八箇国御時代分限帳」は給人ごとに所領のある場所(郡名)と石高を書き出したもので、一覧表や集計表に該当します、以下、「分限帳」と略記します。

この検地およびそれぞれの文書の作られた経過は概略下記のように推定されます。

1、まず、田畑の一筆ごとに現地で確認した上で、各村ごとに納める年貢の総高と、納める相手の給人が複数の場合は配分も、書面に書き留められます。これが、検地台帳になります。ただし、測地をせずに概算で見積もられている例もあります。
2、村ごとの総高を集計して郡の総高を、郡の総高を集計して国ごとの総高が計算されます。集計の段階ごとに計算表ができます。元の検地台帳がしっかりしていて、集計漏れも無ければ、ここまでの計算はさほど複雑ではありません。
3、村ごとの検地台帳を調べて、同一給人が同一郡で得る石高を集計していきます。各郡ごとに、当該郡での各給人の石高を集めた書類ができます。多数の給人の一人ずつ、全村についての作業ですから、煩雑で誤りも生じやすい過程です。
4、上記3の書類から、各給人ごとに、どの国のどの郡からどれだけの年貢を得ているかを全てを集めて書き出します。全給人について、これを集めたのが分限帳になります。各家臣には、認定された所領の石高と場所が書面で通知されます。
5、分限帳に記された内容を、1国ごとに1枚の大きな紙面に書き並べたものが「配地図」です。ここまでは、検地が始まってからさほど長期間を経ずに完了したはずです。また、「配地図」は上記4の書類を待ってできるもので、2はもちろん、3の書類まででは作れないはずです。さらに、現在伝えられている「配地図」には、郡ごとの総石高が別紙を使って付箋で記されていますが、これは上記2の段階で集計された数値のはずです。「配地図」は始めに墨書で記され、日に朱書で修正や追記、更に墨で修正など何回かの修正や追記が行われていますが、それらの情報も上記1から4の文書に加えられているはずです。

6、少し時代を経て、上記4の分限帳が紛失または汚損し、残されていた「配地図」を基に復元したのが現存する「分限帳」です。現存する「分限帳」と「配地図」との照合は行われていて、それにより、様々な分析が行われています。

現存する「分限帳」と「配地図」を比べた時、明らかな問題の一つは、「配地図」に付箋で示されている郡別の総石高(郡高)と、「分限帳」から集計した郡高との間にかなり大きな差異があることです。
算定に至る手順を考えると、「配地図」の付箋に記された郡高の方が「分限帳」から算定した郡高よりも正確だろうと想像できますし、付箋の形を採っていることは数値が最終であることを示唆しますが、差異を生じた原因が簡単にわかるわけでもありません。

ここでは、そのような差異が発生した原因を考えてみました。そのためには、「分限帳」と「配地図」を付き合せているだけでは進展しません。毛利氏の検地から10数年後に、より詳しく検地され、異なる方法でまとめられた福島氏の検地情報を介在させてみました。

下表で、
「A,分限帳」の行は、「分限帳」に記載されている各給人の郡別石高から、各郡の石高を集計されたものです。
「a”、直轄・一門領」の行は、「分限帳」の中の各郡における毛利氏直轄領と、小早川・吉川氏など一門の石高を集計されたものです。
「B,配地図」の行は、付箋に記されている郡別石高です。
「C,補正、石高」の行は、下記に示す推定原因に基づいて補正した石高です。
「D、知行帳」の行は、関ヶ原合戦の後、毛利氏に代わって広島に入った福島氏が行った検地による石高です、これは浅野氏へ引き継がれた石高です。この数値は基本的には生産力を意味します。

「A」、「a”」「B]、「C」、の4行は、基本的には給人などが得る年貢高を集計したものです。
本来は、「A」行と「B]行の数値は合致すべきですが、上記3,6で説明した経過により、その段階で大きな齟齬が生じたと考えられます。2の作業を行った人と、3および6の作業を行った人が異なれば、齟齬が生じやすくなります。
下表に「A-B」と「B-C」を示し、表の下に推定原因を説明します。

「年貢率、C÷D」は、毛利氏時代の年貢率を意味します。年貢率=年貢高÷生産力ですが、毛利氏による惣国検地から福島氏の検地までさほど年月を経ていないので、生産力として知行帳の石高を使うことは充分に有効と考えられます。ただし、佐東郡、安南郡の年貢率については、注記-6に記すように補正できます。

項目山県郡高田郡佐西郡佐東郡広島府安南郡安北郡賀茂郡豊田郡合計
A,分限帳、石高17,11423,81615,4857,586--11,1398,35732,19330,469146,160
a”、直轄・一門領、石高8,2373,6086,4654,545--5,5473,26522,14521,21975,032
差異、(A-B)-135 ①349 ②28 ③432 ④--1,204 ⑤-1346 ⑥2,785 ⑦59 ⑧3377
B,配地図、石高17,24923,46715,4577,154--9,9359,70329,40830,410142,783
差異、(C-B)001,500 ⑨0--1,901 ⑩00-200 ⑪3,201
C,補正、石高17,24923,46716,9577,154--11,8369,70329,40830,210145,984
年貢率、 C÷D0.600.540.490.43--0.470.600.600.590.55
D,知行帳、石高28,51843,07534,79816,5051,63625,35616,19349,29851,414266,862

以下、上表に示した差異についての推定原因を説明します。推定の困難な小さい差異は残っていますが、煩雑になるので詳細は省略します。。

①  135石
  「分限帳」に記載漏れ。

②  349石
  「知行帳」に「小川原村、617石」。これに対する349石の年貢率が0.56。安北郡に入れるべきを分限帳では隣接する高田郡に計上されています。

③  28石
   理由不明、28石増えています。   

④  432石
  「知行帳」に「北の荘村、1,001石」。これに対する432石の年貢率は0.43。ここは後に「古市、中筋、東野」の各村になった所。安北郡に入れるべきを分限帳では隣接する佐東郡に計上しています。
  
⑤  1,204石
  (1)「知行帳」に「馬木村、369石」と「福田村、690石」あり、合せて1,059石。分限帳での年貢高が565石で、年貢率が0.53。安北郡に入れるべきところ、「分限帳」では隣接する安南郡に入っています。
  (2)、 佐西郡に入るべき能美島の隆景領1,500石が安南郡に計上されている。
  (3)、 熊野村の内、953石が安南郡に入るべきを分限帳では隣接する賀茂郡に入っています。安南郡に計上されている厳島領291石を合せ、1,254石。「知行帳」で「熊野村、2,588石」があり、これに対する1,254石の年貢率は0.48。
  (4)理由不明、92石増えています。
以上、4項目を差し引きして、1,204石が「分限帳」の安南郡の石高に加わっています。

⑥  1,346石
  上記②の349石、④の432石、⑤-(1)の565石を合せて1,346石。「分限帳」では隣接の他郡に計上されています。

⑦  2,785石
  (1)、 安南郡の島々の石高1,901石が「配地図」の付箋の郡高に集計対象外だったが、毛利元政領として追加。知行帳に「蒲刈島、1,050石」、「瀬戸嶋、876石」、「とのこ嶋、380石」、「倉橋嶋、850石」、「江田嶋、390石」があり、合せて3,546石。これに対する1,901石の年貢率は0.54。
  (2)、上記⑤-(3)の953石が分限帳では賀茂郡に入っています。
  (3)、 理由不明、69石減っています。
  以上、差し引き2,785石増えています。

⑧  59石
  理由不明、59石増えています。
  
⑨  1,500石(概算)
  能美島の小早川隆景領が集計対象外だったため、追加。

⑩  1,901石
  上記⑦-(1)の1,901石が安南郡に入ります。
  
⑪  200石
  (1)、備後・世良郡の隆景領3,200石(概算)が誤って豊田郡に計上されているので削除。
  (2)、生口島、大崎島など、隆景領3,000石(概算)が集計外だったため、追加。
  以上、差し引き200石減額。

注記:

 1、隆景領のうち、能美島などの島嶼部は集計対象外だったようです。
 2、隣接する他郡にずれて集計されている分が多数あります。これは「配地図」に書き込む際に生じた可能性もありますが、必ずしも「誤って」集計や記入が行われたのではなく、当時の郡境が曖昧なため、文書を扱った人が異なると、異なった配分をした可能性もあります。
 3、⑤、⑦および⑩に記した1,901石と953石の石高は、「配地図」に記されている墨書(初回)から朱書(修正)への変動高から算定したものです。 
 4、、「a”、直轄・一門領」については、佐東郡、安南郡など武田氏の遺領を得た所では直轄領が大きいのですが、一門領と合わせると各郡共、上表に示すように総石高のおよそ半分に配分が平均しています。
 5、高田郡のみ直轄・一門領が他郡に比べて特に少なく、年貢率も内陸の他郡よりやや低くなっているのは奇妙ですが、「配地図」・「分限帳」に載っていない、直轄領に準ずる料地が別枠で2,000~3,000石あったようです。
 6、太田川下流部や府中平地周辺では、開発途上の土地がかなりあり、その事が佐東郡と安南郡の年貢率の低さに現れています。
 7、⑤-(4)で増えた92石と⑦-(3)で減った69石の内60石は、安南郡の阿曽沼氏領に「配地図」の中で追加された60石に対応します。該当場所は上瀬野村・大山地区で、元は賀茂郡で惣国検地後に安南郡になりました。7、瀬野川流域の村々、をご覧ください。

上記のように、「配地図」と「分限帳」とで差異がある箇所は、一村単位で所領を持つ大家臣だけでなく、小さな所領あるいは給与を得ている小家臣や散司、中間などの所領にもありますが、「分限帳」からその全てを追求することは不可能です。数値が小さい場合は追求する意味が無いとも言えます。下記に挙げるのは疑わしい事例の一部です。

長束村の散司給と楠木村の散司給が安南郡に計上されていますが、両村は佐東郡に属します。
西原郷・祇園社の給付が安北郡に計上されていますが、西原は佐東郡に属します。
二宮太郎右衛門の所領210石が安南郡に計上されていますが、二宮氏は安北郡の馬木村を本拠としていました。「知行帳」で馬木村の石高は359石、これに対する210石は0.57の年貢率。


以上を要約して言えることは、毛利氏時代の年貢率は南西側3郡でほぼ5割、北東側5郡でほぼ6割に揃っていたことです。
毛利氏の検地が年貢高を表すとは言っても実際の年貢納入高そのものではなく、福島氏のそれが生産力を表すとは言っても毎年の生産高がこの通りの石高になるはずもありません。石高の実質的な意味は土地の価値を表す指標です。別の見方をすると、南西側3郡では農業以外の漁業・商業・加工業の占める割合が他郡よりも多いので、福島検地ではその点を評価して課税基準としての石高が高くなった可能性があります。

備後国については、補足7、毛利氏の惣国検地、備後をご覧ください。
芸備防長4ヶ国検地の概要は、補足8、毛利氏の検地、芸備防長4ヶ国をご覧ください。
 

参照資料:  広島県史・近世資料編(1975年)、八ヶ国御配地絵図(山口県文書館)、毛利氏の研究(1984年)、資料毛利氏八箇国御時代分限帳(1987年)、

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