補足8、毛利氏の検地、芸備防長4ヶ国


天正15年~19年(1587~1591)、毛利氏は、中国地方の支配圏に対して「惣国検地」を行ない、その結果が「八ヶ国御配地絵図」と「八箇国御時代分限帳」と題する文書に残されています。これは概ね当時の年貢収納高を評価されたものとされています。(8ヶ国は、下表の6ヶ国に加え伯耆と備中の一部を含む。)

天正年間の惣国検地から少し経て、慶長2~4年(1597~1599)に毛利氏の支配圏9ヶ国に再検地が行われています。この検地は生産力を評価したものと理解されています。(ただし、支配圏全体に対して2年間の短期間で再検地が行われたのではなく、天正年間の検地の際に生産力の評価も既に行われていたが何らかの事情で生産力に基づく集計をしなかったのを、慶長年間に改めて集計しなおしたと考えられます。9ヶ国は、上記8ヶ国に加え隠岐を含む。)

関ヶ原合戦の後、芸備2ヶ国に移封された福島氏は所領の検地を行い合せて49万石余を得ていますが、これは生産力を評価されたものです。それと前後して、防長2ヶ国に移封された毛利氏も慶長15年(1610)に2ヶ国に対して検地を行い、その結果は53,9万石余でしたが、これは、共に移住した多くの部将達への給付を確保するために特に厳しい基準で検地を行ったためで、後に幕府との間で調整され、芸備2ヶ国の福島検地と同じレベルで、公称石高37万石とされました。

参考までに石見と出雲も併せて6ヶ国の状況を整理すると、下表のようになります。

「C,惣国検地」の行は、天正15~19年に行われた検地による「八箇国御時代分限帳」から集計した石高。ただし、芸備2ヶ国については、補足8、毛利氏の惣国検地、安芸、補足9、毛利氏の惣国検地、備後、により補正した石高。
「E,慶長検地」の行は、慶長2~3年に行われた石高です。
「D,近世初期」の行は、芸備2ヶ国については福島氏検地、防長2カ国は毛利氏検地による石高です。雲石2ヶ国については信頼できる史料が見つからないため参考値。

項目長門周防安芸備後石見出雲6ヶ国合計
C,惣国検地、石高107,709122,539145,984117,90574,475105,390674,002
比率、C ÷ D0.650.600.560.49(0.54)(0.47)0.55
E,慶長検地、石高133,790162,580212,950189,200110,560186,150995,230
比率、E ÷ D0.800.800.820.79(0.80)(0.83)0.81
D,近世初期、石高166,623202,787259,384238,800(137,400)(223,500)1,228,494

「比率、C ÷ D」で、芸備防長4ヶ国の年貢率を比べると、西端の長門が最も高く、東端の備後が最も低くなっていますが、毛利氏が支配するはるか以前の大内氏時代から領国統治の整備が進んでいた事を反映しているのか、あるいは、天正の惣国検地は秀吉による朝鮮出兵の軍役に備えるためでしたから、朝鮮半島に近い西国に厳しくなったのかもしれません。
慶長検地の石高と近世検地の石高に20%の差異がある理由は不明ですが、4ヶ国で20%差に揃っていることは同じ視点(生産力)で評価されていることを示しています。


参照資料:  広島県史・近世資料編(1975年)、八ヶ国御配地絵図(山口県文書館)、資料毛利氏八箇国御時代分限帳(1987年)、中近世移行期大名領国の研究(2007年)、

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