中世(13世紀)の府中に居た国衙役人・田所氏が遺した国衙領注進状と沙弥某譲状と題する文書があります。 前者は、12世紀末から13世紀初頭の安芸国の国衙領に関する報告書、後者は田所氏自身の職務・所領・所従など私的な財産目録のようなものです。 いずれも、当時の歴史を知る上で重要な内容を含んでいますが、ここでは、前者について要点を紹介します。 下表で、AとBは国衙領注進状に記す情報のうち1領域が8町以上の面積のものを注進状の掲載順に。 (国衙領注進状に記す領地の総面積が466.5町あり、このうち8町以上の(下表)13箇所の合計が396町で85%を占め、 8町未満の狭小な20箇所の合計が70.5町、15%。) CとDはそれらに対応する村々について19世紀初頭に浅野藩が藩内の地誌を編集した芸藩通史に記す情報。両者を比べるとおよそ600年の間に開発の進んだ状況が理解できます。 芸藩通史に記す面積は、限界近くまで開墾が進んだ状況です。 13世紀の時点で、各領域内には地頭領、私領、荘園領の一部なども国衙領に隣接して散在していました。田所氏自身も温科村に10町、府中に2.3町、船越村に1.1町などの私領を有していました。国衙領注進状の中にも、緑井郷については「中分以後・・・」の記述があって地頭と分割の結果であることを示していますが、それが後の緑井村の村域を二分したものか、隣接する部分と合せて二分されたものか確かなことはわかりません。 上記も考慮して、右端欄の比率から、沿岸部では13世紀には既に開墾可能地の概ね30%以上、所によっては60%以上まで開墾が進んでいたと思われます。内陸の村々は、開発が遅れていたり、荘園領や地頭領として蚕食されていた状況が推測できます。 また、海東諸国記などによる平安時代後期の安芸国の耕地面積は総計7,480町と伝えられていますから、それから少し時代を下る中世国衙領の面積はその中で5%に満たない僅かなものだったことを示しています。
註記: 1、中世の1町は3600歩、近世の1町は3000歩として算定。 2、原本は虫損のため村名が読み取れませんが、内容から「船越村」と推測されます。 3、原本は虫損のため村名が読み取れませんが、内容から「府中」と推測されます。後の府中村と矢賀村を包含。 4、後の温品村、中山村、馬木村を包含。 馬木村は、近世には高宮郡(=安北郡)ですが、16世紀末の毛利氏の検地まで南隣の温品と同じ安南郡でした。 補足6,毛利氏の惣国検地、をご覧ください。 6、この文書では領域は不明ですが、佐伯郡衙のあった「利松村」附近の範囲と推測されます。 7、近世に杣村はありませんが、注進状に記す地名から、伴村と大塚村と久地村が含まれていたと推定されます。 伴(とも)には古代駅制の伴部駅がありました。19,古代山陽道、を参照。 「駅」は「はゆま」と読まれましたが、これを「早馬」と表記し、後に「そうま」と読んで「そま」に転じ、 「杣(そま)」として村名表記したのかもしれません。 8、粟屋は近世まで高田郡、現在は三次市。国衙領の中では最北部に位置します。 田所文書のうち、「沙弥某譲状」に関しては28,中世国衙役人田所氏、をご覧ください。 |